[8] 不幸に負けてはいけないが、幸福にも負けてはいけない

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木曜日の夜はくたびれ感が強い。明日は金曜日、週の中でもっともクラス数が多い日だ。

う~~今から緊張する。英語のクラスがふたつと、卒論個別指導がふたり。

う~~~卒論が心配だ~~~去年も、さんざん心配させられたけれども、今年も心配だ~~~

それはさておき、本日の卒論個別指導のときの雑談で、学生さんが同居している父方のおばあちゃんについて話した。

おばあちゃんは、昔からいったい何が不満だかわからないほどに、不平不満の多い人で、痰が喉につまりやすいということで、「入院したい」と言い張って入院して、リハビリもせずに、ずっと文句を言い続けているそーだ。

このおばあちゃんは、とっても幸福な人である。婚家先のお姑さんは働き者で有能で、死ぬまで勤勉だった。寝たきりにもならずにコロッと亡くなった。

介護の苦労はなかった。お嫁さん(=若き日のおばあちゃん)をいびることもなかった。

長男のお嫁さんになった女性(つまり、学生さんのお母さん)も、よくできた人で、お姑さん(=該当おばあちゃん)と喧嘩することもなく、素直に家事に勤しんできたそうだ。

おばあちゃんの夫(学生さんの祖父)も温厚な方で、働き者で、声を荒げることもない。

おばあちゃんの息子たちも忍耐強く、みなできがいい。

おばあちゃんは、経済的に困窮したこともない。

なのに、おばあちゃんは不平不満でいっぱい。

でもって、もう今では、自分でも、自分が何に不満なのかわけがわからなくなっている。

要するに、このおばあちゃんは暇なのだ。

年がら年中、不平不満を家族にぶつけるくらいだから、エネルギーはある。

しかし、やることがない。

お姑さんもお嫁さんも働き者。御主人も働き者。

このおばあちゃんは、やることがない。

責任もって、することがない。

とってもラクで幸福。

ラクで幸福だと、暇。

エネルギーを消化する機会なし。

これが、亭主は暴力を振るうわ、生活費は入れないわ、姑は病弱で介護はあるわ、息子はアル中で、息子の嫁は不倫で誰の子どもかわからない孫がいっぱいで、その孫たちがニートで引きこもりならば、このおばあちゃんも孤軍奮闘せざるをえなくて、疲労困憊のすえに、心筋梗塞でコロッと死ねる。

が、このおばあちゃんは、まだまだ死ねない。

エネルギーを消化しきっていないから。

人間は不幸に負けてはいけない。

しかし、幸福にも負けてはいけない。

ときに、幸福は不幸よりも毒をふくんでいる。

このおばあちゃんは、幸福に負けちゃった。

幸福であることに首を絞められてきてしまった。

昔はね、こーいう類の死ぬに死にきれない老人を、睡眠薬とかモルヒネたっぷり投与して死なせてくれた医者がいっぱいいた。

私の父の妹(私の叔母)も、この種の困った類の老人がお舅さんで、若くして介護で苦労させられた。

だが、昭和40年代初頭のことであったので、昔から懇意の家庭医が黙って睡眠薬いっぱい処方してくれたので、救われた。

しかし、今は、このようなお医者さんは消えてしまった。

こーいう親切な行為は「殺人」になってしまったんだよね。

昔は、闇から闇へと、お医者さんは黙って、死ぬに死にきれない老人を抱えた家庭を救済してくれたのに。

安っぽい正義感で、こういう医者たちを訴えた馬鹿どもがいたので、こういう医者しかできない救済行為は、もうどこの病院でもやってくれない。

であるからして、くだんの「幸福なおばあちゃん」は、これからもまだまだ生き続ける。不平不満を吐き続けて。

不幸は恩寵である。

不幸のおかげで、私たちは疲弊し、力尽きて、この世から未練なく去ることができる。

幸福は呪いである。

幸福のおかげで、いつまでたっても未熟な人々は多い。

日本は、戦後の平和と繁栄という幸福のために、かなり劣化し、クルクルパーになった。

だから、しばらく不幸な時代が続いても、それは恩寵なんだよ。

この世は完璧なんだね、ほんとは。

なんて、何を悟ったみたいなこと書いているんだ、アホが。

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