本日は、2016年7月5日の火曜日だ。
本来なら、火曜日というのは3年生の専門ゼミがある日なので、忙しい。
ゼミ生の発表ハンドアウトの原稿の印刷とか、課題のチェックとか、資料の印刷とか、ドタバタとやっている日でもある。
でも、私は来年は福山市立大学にいないので、3年生ゼミは担当していない。
ラクだわ~~♪♪
今年度は、教員生活の中で初めてと言っていいほど気楽だ。
気楽で余裕があるからか、授業も機嫌よくできる感じだ。
福山市立大学に来て初めてイライラしていない。
やっと授業を楽しんでいる。
こうなってみると、いかに自分がやりたくもないことを無理してやってきたか、よくわかる。
「働く」ということは、面倒くさいことだ。
「勤める」ということは、面倒くさいことだ。
若い人が、ニートとか引きこもりになるとか、3年で勤務先を辞めてしまうとか、その気持ちを、今の私はよく理解できる。
やっと、よく理解できるようになってきた、と言うべきか。
ぶっちゃけて言えば、1953年生まれの私の世代は、貧乏な日本に生まれて育ったので、物を買うことだけで、十分に幸せだった。
仕事するのが嫌でも、働くのが面倒くさくても、同僚や上司がいかにうざくとも、我慢できた。
賃金労働をして、賃金を得て、それで物を買うという喜びがあったんで、他のことはどうでもよかった。
私の若い頃は、いまほど状況はきつくなかったからね。就職難ということもなかったしね。
大学の教員になるのは狭き門ではあったけれども、「諦めなければポストは必ず見つかる」時代だった。
私の世代は、高度成長期に子ども時代をすごし、大学時代は「昭和元禄」で、30代はバブルだった。
貧しかった日本が、だんだんと物質的に豊かになる時代の中で私は生きてきた。
それまでは手に入らなかった物を買うことが嬉しくてしょうがなかったので、賃金労働は苦にならなかった。
カネが欲しいから働く。そのカネで欲しいものを買う。
その反復で、十分に人生は楽しかった。
「カシミアのショール」は、私が子どもの頃の昭和30年代1960年代は無茶苦茶に高価だった。
中産階級の人間には手が出せないものだった。
でも、30代になった頃には、カシミアのショールは「9万円」だった。
「9万円」なら買える。
ボーナスで、カシミアのショールを2枚、黒とベージュの2枚を買ったときの喜びを、私はよく覚えている。
1980年代の半ばのことだ。今でも大事にしているぞ!
英国製の(山陽商会のじゃないよ)バーバリーのトレンチコートを、初めての英国旅行で買ったときの嬉しさを、私はよく覚えている。
これは、1985年だった。
あの頃は、アクアスキュータムは、まだバーバリーほど日本人の間では知られていなかった。
ルイ・ヴィトンだのグッチだの、セリーヌだのという欧州の有名ブランドのバックを一般の日本人が購入するようになったのは、1980年代からだ。
ということで、「私って、働いて物を買うことしか興味ないのかなああ??消費することでしか人生を充実させることができないのかなあ??何も創造せずに、消費するだけの人生だなあ・・・」と、私がわが身を省みてハッとしたのは、なんと40歳過ぎた頃だった。
もう、徹頭徹尾、私は軽薄で俗物であった。
学問??? 研究???
文学研究なんて、学問でも何でもないんで、テキトーにやっておけばよかった。
論文風作文をしておけば、「業績」になり、助教授になり、教授になれた。
学会で発表するたびに、自分にご褒美を買って、自分をなだめて来た。
意味のないことをやるには、ご褒美が必要であった。
compensationが必要であった。
そのことをすること自体が喜びであり充実になる場合は、ご褒美など必要ないけれども。
あいにくとそのことをすること自体が喜びであり充実になるような学問や勉強ができるような脳を、私は持ち合わせなかった。
だけれども、そんな自分の脳タリンぶりに不安を感じつつも、それでも私は、意気揚々と陽気に能天気に生きてきた。
子どものころから、どんどん生活は楽になり、物は高級になり、センスは良くなり、街は清潔になっていくのだもの。
お店は多種多様になり、ディスプレイは美しくなるのだもの。
クレジットカードを持てるようになったのだもの。AmexとVISAを
で、2016年。
今の若い人は生まれたときから、トイレは水洗である。ウォッシュレットがついていて、当たり前である。
個室が当たり前である。
システムキッチンにダイニングにリヴィングルームがあるのが、当たり前である。
給食に脱脂粉乳は出ない。今の給食は美味しいのだ。
カッコいい衣類は、安く売っている。
ユニクロに行けば、カシミアのせーターなんか1万円以下で売っている。
ショッピング・モールもある。ショッピング・モールの中にフード・コートもある。いろいろな食べ物が安く売っているのだ。
外食で子どもが食べることができるのは、「お子様ランチ」と「オムライス」だけだった時代ではないのだ。
インターネットはある。携帯電話はある。テレビのチャンネルはいっぱいある。映画も映画館に行かずとも、ネット配信で見ることができる。
もう、あらかじめ全部そろっている世界に生まれて育った今の若い人たちは、私の世代の人間の持つ「物を買いまくることで充実できる貧乏ゆえのファイトと明るさ」はない。
物が欲しさに、物を買うカネが欲しさに、しょうもない労働に勤しむファイトはない。
物はあふれた世界で彼らや彼女たちは生まれて育ってきたのだから、足りない物を手にしようと頑張る気になどなれないのも無理はない。
私の世代は、いわば、今の中国人である。爆買いに繁華街を疾走する中国人である。
そうだ、ニューヨークは5番街を疾走し、ティファニーで18Kの大きなオープンハートのペンダントを買ったのは、あれは1989年だった。1000ドルはした。あのときも嬉しかった。いや、1500ドルはしたと思う。もうよく覚えていない。あのペンダントを紛失したのは、かえすがえすも残念だった。
しかし、「物を買いまくることで充実できる貧乏ゆえのファイトと明るさ」でいっぱいであった私も、還暦を過ぎ、物がいっぱいの煩わしさに飽き飽きして、断捨離を趣味とするようになった。
で、やっと、わかってきた。
今の若い人の「脱・雇用」を望む生き方が。
したくもないことを頑張ることができないほど、彼らや彼女たちは、私よりも豊かに快適に生きてきたのだ。
う~ん、そういう人々が、貨幣を得るには、どうすればいいんかしらね?
雇われずに貨幣を得る生き方をするしかないね。
もしくは、最低限の貨幣で生きる方法を習得するしかないね。
もしくは、貨幣なしで生きていく方法を習得するしかないね。
図らずも、来春から給与生活者でなくなる私は、今の若い人々と同じ課題を共有することになる。
ガツガツと、したくもないことをして、貨幣を得て、物を消費することで人生を埋めるという生き方を超えた生き方をするという課題を。
「外食で子どもが食べることができるのは、『お子様ランチ』と『オムライス』だけだった時代」・・・確かにそうです。
6歳(1952年)のころ東京に連れていかれて三越でホットケーキを食べました。あの時の味は衝撃的でした。
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ホットケーキは、1950年代や60年代初頭の名古屋では、まだメニューになかったです。貧乏であったからこそ、スタート地点がなんもなかったので、生きていくのがおもろかった、ということはありますねーー
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僕の時代は自分でホットケーキを焼くことがステータスだったように思います。
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ホットケーキ!ホットケーキ!! それは、私の世代だと、ハイカラ過ぎましたね〜少なくとも子ども時代には見かけませんでした。私はピザを食べたときがカルチャーショックでした!
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太郎 でリブログしてコメントを追加:
良い記事です
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ご紹介ありがとうございます〜
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