[56] 運命の人を自分で決めない

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本日は2016年7月20日だ。

教授会が5時間以上も続いたんで、もう……消耗した。

夕ご飯を作る気力も体力も残っていなかったので、インスタントラーメン食っといた。

そういえば、本日の教授会では、めでたく私の後任も決まった。

私の後任も、まともにやってたら、きっと肝臓を悪くするに違いない。

でも、来年度からのことは、関係ないもんね。

知ったことか、ほほほ。

それはさておき、今日も身も蓋もなく夢も希望もないことを書く。

若い女性で結婚する気のある人は、「運命の人」を自分で決めてはいけない、ということを書く。

「この人こそ運命の人!」なんて、なんで自分でわかるの?

あなたは、洞察力も思考力も経験もないでしょう?

そんな程度の自分という人間の判断がなんで信じられるの?

そんな程度のあなたが「一目惚れ」した相手なんて、やっぱりろくでもないんじゃないの?

私は「一目惚れ」という現象は危険だと思う。

セーターや靴やバッグなんか、いくらでも一目惚れすればいい。

失うのはカネだけだから、どうってことない。

でも人間に「一目惚れ」して暴走すると、時間とエネルギーの無駄だ。

「一目惚れ」して「この人こそ私の運命の人だ!」と思い込むというのは、これは空中に浮いている邪気にいたずらされたようなものよ。

暇にしてたので、憑依されちゃった〜〜みたいな現象だ。

妖怪「一目惚れ」だね。

忙しくいろいろ考えていたり、働いていたり、勉強してるときには、「一目惚れ」なんてしないでしょう?

集中してるとピリピリした緊張感を発してしまうから、妖怪「一目惚れ」さんが寄ってこれない。

充実している時は、そんな目に見える程度のことなんかにも左右されない。余分なものが視野に入らない。

ある対象に深く固着し、その深く固着した自分の状態そのものに固着しているのを「恋」とか「愛」と人は呼ぶ。

それは脳の迷走。弛緩した自我が退屈しのぎに捏造する幻。

またさあ、時間潰しのTVドラマや映画は、そういう脳の迷走状態を美化するから、ついつい、そういうことは、そういうものである!と思い込むんだろうけど、そういうことは、そういうものではない!

もし運命というものがあるとしたら、それは脳の迷走が生産するような波乱万丈風なものじゃない。

「特に何もしなかったのに、なんかご縁ができちゃったみたいで、いっしょにいても苦にならないし、自然だから、いっしょにいます」という状態になったというのが運命。

これこそ命が運ばれた感じ。運命。

私は自分で何もしなかったし、決めなかったし、選ばなかったのに、なんか背中が押されたみたいに、ここまで来ちゃった。

ここまで運ばれちゃった。これが運命。

まあ、この世の中では、賢い人間とは、主体性があって積極的な人間であるということになっているので、大きな声では言えないのだが、私は非常に受け身の人間だ。消極的な人間だ。

自分でガンガン求めるとか、探求するとか、開拓するとか、目的合理的に動くとか、そういうことはしない。できない。

たまたま足元に流れてきたヤシの実を拾って、ポカポカ叩いたり、割ってみたり、中身をちょっと食ったり、みたいな行き当たりばったりの人生。

想定外の出来事には抵抗せずにつきあってきた。

たまたま会うことになった人々とテキトーに関わってきた、

その人々の話を聴いてきた。

私自身は特に話したいこともないからさあ。

結婚とかいうのも、なんか自分のそばでウロチョロしてる人がいて、そのウロチョロしている人の顔を眺めていても苦にならないなら、結婚すればいいというぐらいの緩さでいい。

そりゃ、上流階級とかだったら、政略結婚とか閨閥結婚とか、いろいろ結婚に際して考えないと困るんだろうけれども、

まあ庶民の結婚なら、「なんとなく、こうなりました〜〜」でいい。

なんとなく……に身を任せて、やるべきことを淡々とやり続けているうちに、誰かに出会う。

ほんとうの「運命の人」は、ファンファーレに乗って出現しない。

ビビビッと来ない。

なんとなく、そばをウロチョロしているという感じで現れる。

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