12歳に見える超古老が日本人か?

本日は、7月28日木曜日だ。

2学期は年間の中で、卒論提出時期と同じくらいに忙しいのであるが、その忙しさの峠は過ぎた。

やれやれ。

先日、Facebookで「マッカーサーは日本人の精神年齢は12歳と言ったけども、いまだにそうで・・・」みたいな投稿をしたら、桃山学院大学時代の同僚で10歳くらい年下の畏友の安全保障学研究者の松村昌廣氏が、「いや、日本人は超古老なんだ。実はそうなんだ」とコメントが返ってきた。

それについて、私なりに考えてみた。

私は、反対意見をもらうと、素直に考え直す人間である。

松村氏は、私の「文学部的思考」を「社会科学的に」コテンパンに批判する。

リアリズムの観点から、私の文学部的思考=人間の思惑や願望や期待とは別に動いているこの世界のシステム(疎外)を忘れて、人間の感情や願望に重きを置いてしまう軟弱なセンチメンタリズムを批判する。

「うっせーなあ~~~どう思おうが、私の勝手じゃんか!!」と思うことも多々ある。

しかし、的確な批判をしてくれる優秀な友は貴重だ。

無料で教えてくれるんだからな。

話は戻り、精神年齢12歳に見える日本人は、実は超古老だという件について。

私が思うのは、第二次世界大戦敗戦直後の日本人の変わり身の早さだ。

進駐軍は、あれだけ南の島々でも沖縄でも抵抗した日本軍と日本人だから、もう本土上陸となれば、どんな抵抗にあうか・・・と戦々恐々だった。

が、日本人は抵抗しなかった。

つまり、日本人は、第二次世界大戦の大義、大東亜戦争の大義なんか信じていなかった。

ということだよね

鬼畜米英のスローガンも信じてはいなかった。

状況がこうだから、テキトーに本気のフリして、状況にあわせておくが、ほんとうは心の奥の奥では、こう思ってた(のかもしれない)。

「何やってもさあ・・・しかたないよね。やりたければやるしかないけど、すべて消えていくよ。風に吹かれて飛んでいく塵芥よ・・・だけどまあ、今のこの時点では何か意味あることをしているつもりでやるんだけど、ほんとはみな、どっちでもいいようなことよね・・」と、日本人は思っていた(のではないか)。

こーいう世界観を「諸行無常」と呼ぶのだけれども、歴史が長い日本では、そういう世界観を言語化して意識したのも随分と歴史的に古いので、日本人は自分で意識もできないぐらいに深く深く「諸行無常」なのではないか。

この世界観は、もう心の奥の奥の遺伝子に書き込まれてしまっている。

だからして、自分がほんとうは何も信じていないし、すべては消えていくものだから受け容れる真似だけしていれば、時間が解決すると思っているということを、日本人は自覚できていない(のではないか)。

よく日本人一般は、政府がどんな政策をとっても怒らないと言われる。

どんな理不尽も受け容れて黙々と奴隷のように生きていくと言われる。

洗脳されたままに騙されて酔生夢死で生きて死んでいくと言われる。

そうなのかもしれない。

少なくとも表面上はそうだ。

でもさ、これ日本人の無自覚な知恵かもね。

ひょっとしたら最強の思想かもしれない。

歴史が古いからさ、権力者だろうが奴隷だろうが、同じ人間であり、考えていることはあまり変わらないと日本人はわかっている。

だから、ほんとのところは権力者に期待していない。

こんなもんじゃないの?と思っている。

というより、自分たちとは関係ない人々に興味は持たない。

興味のあるフリしてるだけで、どうでもいい。

戦前のゴリゴリ天皇制時代において、日本人の庶民は陰では天皇陛下のことを「天ちゃん」と呼んでいた。

「天皇陛下は神だ」なんて信じていたのは、ガキと軍人の一部くらいなものだった。

それは、左翼的な天皇制への反感からではない。

天皇制はこう変わるべきだとか、こう変わるだろうとかの政治意識なんかあるはずない。

「自分たちには関係のない人であるが、まあ、ああいう風に祀り上げられるのも大変だよね・・・」的感覚だ。

だから、敗戦になっても、天皇を処刑するとか、国民が一丸となって責任を追及するとかされなかった。

言語化はできないまでも、当時の庶民の心理というのは、「あの人も立場上、ああいう風にしないといけなかったんだろうし、まあ、しかたないんじゃないの。それ以外の生き方なんかできなかったんだろうしさ。人間なんて弱いもん。軍部に抵抗なんできるはずないでしょ~~もういいじゃん、過ぎたことは・・」だったのではないか。

米軍が駐留して猛威を振るっている間は、猛威を振るわせておいて、従っておく。

米軍が帰ったら、それはそれで適当に時流に合わせておく。

だって、すべては流れ消えていくのだ。やきもきする必要ない。

幼稚に見えつつ、日本人は500歳も生きてきたんで世の中の流れを幻想なしに見るようになって久しすぎる超古老のように、すべてをテキトーに受け容れ、すべてをどうでもいいものとして流していく。

ジタバタと世の中を変えようとしても無駄。

市民革命なんて人類史上で起きたためしなし。

クーデターとか、特権層の間の権力闘争があるだけで、そんなもんあたいらに関係ない・・・

基本的に、ろくなことしかしないのが「お上」ってもんだろう。でも「お上」を食わせているのは、あたいらだから、あたいらを殺しちゃうことまではしないだろ・・・

たまに強烈に頭の悪い「お上」もいるけど。

でも、そんなの、あたいらがどうこうできるもんでないし。

殺されるときは抵抗するけど、まあ、テキトーにハイハイ言ってりゃいいんじゃないの。

どうせ他愛のない人間どうしだもん。面従腹背でいいっしょ。

ということで、日本人は「12歳に見えて、ほんとは超古老」説に、私は納得した。

私自身の心を分析してみても、私の心の奥の奥の奥には、「みんな時間の産物よ。歴史の産物よ。変わらないものなどない。普遍的なものなどない・・・」と思っているもの。

うんうん、そうか。日本人は、リバータリアン以上に徹底したリバータリアンなんだ。

ほんとは、日本人は、奴隷のふりした天上天下唯我独尊の永遠以上の長い時の旅人かもしれない。

ならば、中国が来ようが、ロシアが来ようが、日本人は「いやだなああ~~~」って顔はしても、面倒くさいから特に抵抗もせずに、ダラダラと従い生きていくだろう。

いずれは、すべては消えて去っていくものだからして。

こー言う姿勢は、カトリックみたいに「我々は、永遠の相の下に生きています」というほどのもんでもない。

永遠というものをカトリックが想定するとしても、その永遠は「神が宇宙を創り、神が宇宙を終焉させるまでの間」でしかない。

でも、日本人の心の奥底の古層にあるのは、そんな短い期限付き永遠ではない。

ほんとうにカトリックが、「永遠の相の下に」物事を見る人々ならば、プロテスタントをあれほど迫害はしなかった。

宗教戦争なんか起こすはずはなかった。

バチカンを頂点とした教会が徹底的に管理していく中世など、構築しなかった。

カトリックなんて、他の人間集団、他の圧力団体と同じ、利権拡大ゲゼルシャフトだよ。

何が神の栄光だ。

祈ってるだけで食ってゆけるような無能な人間の特権集団が。

カトリックはさておき、私は安心したよ。

まあ、心は超古老で、外見は未成熟な極東のアジアのチビのままに、日本人は生き残っていくであろう・・・

まあ、ガキばかりの世界の中で超古老が生きていくのは孤独ではありましょうが、ま、何とかなるっしょ。

ともかくね、日本人のみなさん、ご自分の心の奥の奥の奥の超古老に気がつきましょう。

その超古老が、あなたの魂だ。

西洋中心の学問体系によって、「日本はこうだから駄目だ!!」なんて自分や同胞を苛める必要ない。

エネルギーの無駄。

西洋中心の学問体系だろうがなんだろうが、騙しと欺瞞と洗脳のシステムであることは変わりないんだから、いつかは消えていくもの。

それでも、新しいものは生まれるよ。

で、また消えていく。

私たちの心の奥の奥の奥に生きる超古老は、びくともしないで見つめているよ。

あなたが意識できなくとも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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