[71] 昔話(1) 昔の短大のセンセーはお気楽

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高齢者が若い人にしてはいけないことは、「説教」と「自慢話」と「昔話」だそーだ。

68歳の男性タレントが、そう言ったそうだ。

私の場合は、他人に説教できるほどの人生は作ってこれなかった。

だから説教はしない。

若い人に説教したって、通じないって。

自分で痛い目にあって苦しんで学ぶしかないんだ。

説教なんて親切心は、ここ6年間ぐらいで私は喪失してしまった。

他人を教えることも助けることもできないって。

自慢話については、私はしたくてもできない。

自慢できることが、ひとつもない。

昔話は、まあブログに書くぐらいならいいだろう。

で、書いておく。

私は、地方の公立の女子短大に2年間、名古屋市内の私立女子大の短大部に8年間と、計10年間女子短大というところに勤務した。

1980年代半ばから1990年代半ばのことだ。

あの頃の女子短大の状況というのは、もう今から思うと信じられないほどの「緩さ」だった。

今は、女子短大というもの自体が消えつつある。

残っているのは、良い就職先が確保できる類の有名短大くらいなものだ。

私の勤務していた名古屋の私立女子大学の短大部も消えて久しい。

21世紀になる前あたりに、4年制に吸収されたらしい。

あの頃は日本は景気が良くて、学生の就職先のことを教員が心配するなんて、まずなかった。

短大の女子学生は、4年制大学の女子学生より就職が容易だった。

私が勤務していた短大の学生も、日本銀行だの、トヨタだの、全日空だのに採用された。

美人で成績が良い女子短大生ならば、一流どころの就職先をゲットできた。

短大で何を学んだのかなど関係なかった。

だから、教員の勤務は実に楽チンであった。

学生は2年で卒業するので、教員は2年間だけ学生を騙すことができれば良かった。

当時の同僚を思い出す。

英文学の教授は、30年間ぐらい同じノートを使って英文学史を講じていた。

彼の英文学史講義は、ヴァージニア・ウルフで終わりだった。

1930年代で終わり。

第二次世界大戦後の英文学については全くの無知だった。

カズオ・イシグロなんて聞いたこともなかったようだった。

もうひとりの英文学の教授は、古代英文学の「ベオウルフ」で修士論文を書いたとかで、授業でやるのは、ひたすら古代英語だった。

古代英語。

この人物は、英語史が担当科目だったが、当時有名なBBCの「英語の歴史」というシリーズについて知らなかった。NHKで何度も放映されていたのに。

米文学の万年助教授(当時は准教授とは言わなかった)は、T・S・エリオットが専門とかだった。

エリオットは、ミュージカルのCatsの原作である詩を書いたアメリカの有名な詩人で、後に英国に帰化した。

金持ちのお嬢ちゃんを騙して結婚して、その遺産で好きに暮らした男前の貴族的な立派な寄生虫文学者だ。一応は桂冠詩人だけど。

それぐらいの寄生虫才能がないと食ってけないよな、詩人なんて。

ということを、この助教授に話しても反応がなかった。ボケっとしていた。

この万年助教授の男性は、学生の名前を全部記憶していた。

研究室には、お菓子やインスタントラーメンがいつも積み上げられていた。

学生たちは授業がない時間は、そこに集まりお茶しておしゃべりしていた。

女子学生の人気は抜群であった。彼の研究室は喫茶店化していた。

もうひとり女性の定年68歳寸前の教授がいたが、何を教えていたのだっけ……

もう覚えていないなあ。

ともかく、この4人は、授業以外は、コモン・ルームに集まって、ダベっていた。

アシスタントの卒業生の女の子にお茶を淹れさせて、延々と世間話をしていた。

会議は開かず、テキトーに世間話で決めていた。

この4人は、論文は書かなかった。学会にも行かなかった。だから暇を持て余していた。

なにしろ、当時は文部科学省もうるさくなかった。

インターネット時代の前であるし、経済はバブルの好景気で、就職難などなかった。

講義は年間20回でいいのだった(今は絶対に年間最低30回試験日は別)。

休講しても、補講は求められなかった。

夏休みは長かった。

会議も教授会も委員会も少なかった。

教員にとっては、天国であった。

学生へのサーヴィスなど要求されていなかった。

学生の方も、こんなもんだと思っていた。

クレイマーの親もいなかった。

私はときたら、年上の同僚の緩さと甘さをいいことに、好き勝手していた。

「短大の教員で終わるのはいやだ!」という虚栄心から、4年制大学に移るための、論文書きや学会発表や学会でのコネ作りに忙しかった。

職場は金稼ぎの場であり、同僚と話すのは時間の無駄だと思っていた。

ひどい時は、2週間も休講にして、論文書きや複数の学会の発表原稿を作成をしていた。

メチャクチャに自分本位であった。

若い頃の私は、実に傍若無人であった。

年上の同僚たちと私の仲がいいはずはなかった。

年下の同僚たちとは、表面的には友好的にしていた。

けれども、ある意味では彼と彼女は年上の同僚より、はるかに育ちが悪いと言うか、タチが悪かったので、心では無視していた。

後日、年下の同僚のひとりはセクハラで学内の人権委員会で訴えられたそうだ。

それはさておき、今から思えば、あの頃の同僚たちは、対処するのは簡単な部類の人々であったと思う。

魅力はないが、平凡な普通の人々だった。

なのに私は、乱暴にも「近いうちに縁が切れる人間に気を遣ってもしかたない」と思っていた。

人を人とも思っていなかった。

当時の私は余裕がなくて、他人のことなど構っていられなかった。

あの人々は、視野は狭く向上心なく怠惰で無能な人々ではあった。

しかし、面と向かってキツイことの言えない温厚な人々ではあった。

結果的には、私は同僚たちの気の小さい温厚さにつけ込んだ。

仕事は一応はちゃんとするが、同僚にまったく馴染もうとしない私について、同僚たちは陰ではいろいろ言っていたのだが、私はどうでも良かった。

同僚など、挨拶だけしておけばいいと思っていた。

同僚の苗字だけ覚えて、フルネームは知らなかった。

これは、今も同じだな。

まあ、そういう私の姿勢も、当時の女子短大の状況だから許されたことだったなあ。

バブルがはじけて不景気になる前の日本だったからこそ、私の自分勝手な勤務状況が許されたんだなあ。

学生による授業評価アンケートというものもなかったし。

学生の就職先確保こそが、もっとも大学に求められるサーヴィスということもなかったし。

なんも役にたたないことでも、「教養信仰」というものが世間にあったので、英文科というものにも確実にお客さんは来てくれた。

いやあ、今思うと、牧歌的といいますか、言語道断にお気楽な時代だった。

しかし、あの短大の緩い労働環境のおかげで、そこそこ研究業績という作文も蓄積されて、私は大阪の4年制私立大学に移ることができた。

そのあたりから時代が変わった。

大学も変わった。

新しい勤務先での労働はハードだった。

あれから20年。

やっと、今の私は、当時に勤務していた短大と、そこの同僚たちに感謝する気持ちになっている。

まさか、こんな思いになるなんて。

あの時代の短大の教員って、ほんとラクだった。

日本がラクだったからね。

ほんとにラッキーだった。

が、ラッキーだったがゆえに、「全く鍛えられなかった」ことも事実だ。

空白の10年だ。

今日は、特に緩い、どうでもいい昔話でした。

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