この週末、amazonビデオで沖田修一(1977-)監督の『キツツキと雨』(2012)とか『南極料理人』(2009)とか『モヒカン故郷に帰る』(2016)を観た。
どれも、とても面白かった。私にとっては新鮮だった。
何が新鮮かというと、ほんとに地方の普通の日本人の庶民の暮らしの細部がリアルに描かれていたから。
その細部が醸し出すユーモアと微かな哀感と幸福感。
うわあ。
こういう才能があるんだ!
うわあ。
確かに、私たち庶民の人生って、こういうもんだなあ。
うわあ。
これは発見! めっけもんだ!
庶民を主人公にした映画というのは多い。
だけれども、「庶民の哀感を描く映画」というのも、木下恵介監督の映画のごとく、小津安二郎監督の映画のごとく、あくまでも作り物の映画であって、どこか水彩画のような風景画のような趣であった。
あそこに描かれていたのは、浮世絵みたいな近代日本であった。
ともあれ、私は、ある時期くらいから日本映画は見なくなった。
観るとしても、黒澤明とか溝口健二とか、庶民の日常を描くのではなく、歴史系物語系映画であった。
20代から60代にわたる40年間ほどを私は洋画、つまりアメリカ映画ばかり観てきた。
映画というのは、私にとっては、すでにしてアメリカ映画がデファクトになっていた。
ところが、夏に『シン・ゴジラ』に出会って以来、それまでの私としては異例なほどに、映画館に通った。
でもって、映画館では予告編というのを何本も何本も紹介する。
で、私が思ったのは、「えええ?こんなに日本映画って多く作られているの?」ということだった。
それから、シネコンに上映作品と上映時間が掲示されるデジタルボードがあるでしょう。
あれ見てると、日本映画も多い。
で、けっこう客が入っている。
ここは日本なんだから日本映画が多いのは当たり前のはずだけれども、私にとっては意外だった。
日本映画なんて、つまらんのに、誰が観るんだ?という気分だった。
予告を観ても、なんかくっだらない感じの恋愛映画とか、けち臭い感じの犯罪映画とか、どうでもいい感じの家族もの映画の感じだった。
なんか相変わらず「箱庭」だなああ……
最近の日本人は「字幕」というものをサッと読みつつ映画を鑑賞するということができなくなっている人々が多いらしい。
洋画も「吹き替え版」というのが「字幕版」と同時に上映されている。
俳優は声も命なんで、吹き替え版なんて無意味だろう〜〜
ということで、洋画も吹き替え版で観てるようでは、退屈なテーマの小さい日本映画が受けているようでは、ダメですね〜〜というのが私の姿勢だった。
上から目線?
私は上から目線に決まってる。
ところが、10月22日土曜日に福山駅前のシネマモードという映画館で開催されたShort Movie Party 2016に行って、私の心に日本映画に対する変化が生まれた。
このシネマモードという映画館は福山で唯一、映画文化のためにいろいろな企画を提供している映画館である。俳優とか監督が舞台挨拶に来る映画館である。
このシネマモードのディレクターの岩本さんという方は、福山の良質の映画愛好者たちの要となる人物である。
私は、お姿をお見かけするだけで、ご挨拶したこともないけれども。
あーた、福山だからって馬鹿にしちゃいけないんよ!!
文化人も知識人も芸術家もいるんだからね!!
馬鹿っぽいのは、福山市役所だけなんだからね!!
Short Movie Party 2016においては、地元福山のアマチュア映画監督たちの短編映画14本が披露された。
福山大学や、我が福山市立大学の学生の自主制作映画も披露された。
今は、スマホやiPadでも映画は制作できるそうだ。
『シン・ゴジラ』でも蒲田にゴジラが侵入して逃げ惑う人々とか、タバ作戦の戦車部隊の戦闘シーンとかは、スマホで撮影されたらしいよ。
imovieとかいうソフトがあれば、編集もアフレコもできるそうだ。音楽も入れられるそうだ。
デジタル化が進んで、映画制作の本数はすっごく伸びているそうだ。
日本映画だけでも年間700本は制作されているそうだ。
700本というのは、プロの映画監督の作品ですよ。
アマチュアの作品を入れたら、いかほどの作品が作られていることか。
そのShort Movie Party 2016の全14作品の中でも、福山市立大学の学生たちの作品は、Best 3 に入る佳作だったよ、ほんと。
映像が映画になっていた。
映像が映画に見えるって、稀有なことだ。
俳優も福山市立大学の学生ばかりであったけれども、「演技が自然に見えるような高度な演技」であった。
感心した。脚本もカメラも監督も俳優も、うちの学生だ。
監督は教育学部の美人女子学生だ。すごい。
ひょっとしたら、福山市立大学はプロの女性映画監督を生むかもしれない。
確かに「才能」というものを感じさせる作品だった。
それはさておいて、そのShort Movie Party 2016 という催しのゲストで呼ばれて14作品の講評をしたのが、「沖田修一」監督だった。
その前に、この監督の短編映画も3本上映された。
私は、それまでこの監督については知らなかった。
だいたいが日本映画はほとんど見ないんだから、最近の日本映画の監督について知るはずない。
で、私は驚いたんよ。
その監督の「緩さ」に。
普通は、プロの映画監督として、こういうアマチュア映画作品のショーに招待されたら、ひとつひとつの作品のいいところを強調しつつ指摘して、ちょっと建設的な意見を提供する。こうしたら、もっといいですね!的コメントをする。
ところが、この沖田修一監督は、非常にテキトーであった。
が、非常に温かかった。
怠惰とか不真面目というのではない。
仕事だから地方に来ました〜〜これも営業です〜〜という感じでもない。
「別にいいんじゃない〜?映画が好きなら好きなように作ればああ?」のノリであった。
評価しない。
点数つけるみたいなことしない。
勝ち負けなんか明示しない。
批判しない。
テキトーに肯定的感想を緩く言うだけ。
別に批判してもしかたないしね。
プロの映画監督になれる人間は、ほっておいてもなる。
プロの映画監督になれない人に、「あなたはプロにはなれません」と言う必要ない。
グジャグジャ賢しらにものを言う必要はない。
結果は出るものだよ。
それにプロの映画監督になれなくてもいい。
自分の人生をちゃんと走り続ければ歩き続ければいい。
私は、実物のナマのプロの「映画監督」を観るというのは、初めてではなかったけれども、その「緩さ」は意外だった。
「映画監督」というのは、作家や漫画家とは違う。
前提として集団作業の親方が「映画監督」だ。
だから、集団作業がうまく進行するように、集団の成員がみな気持ちよく仕事できるようにするのも、監督の仕事なんだろう。
だから、こーいう「緩さ」の方が、柔よく剛を制すのだろう。
撮影現場をピリピリ緊張させて、スタッフを怒鳴りつけるやり方は、理不尽がデフォルトであった昔の日本ならば通用したけれども、今の若い人ばかりの日本では通用しないだろう。
政治や経済や社会は、はっきり言って今だって「理不尽なる戦国時代」だ。セクハラにパワハラにモラハラは当然が世界の実相だ。
でも、平和が続いた普通の日本人社会では、もうそんな「理不尽さ」は通用しない。
緩い優しさを保持したまま何かを達成することもできるはずだ。
それが、ほんとうは人類の進化だ。
私は、この「緩さいっぱい」の沖田修一監督のありように「進化した人類」を感じた。
だから、沖田修一監督の作品をまずは観てみようと思った。
で、観た。3本。
特に感心したのが、『キツツキと雨』とか『モヒカン故郷に帰る』だ。
主人公たちの住居など、田舎だろうが都会だろうが、ゴチャゴチャ物が置かれていて、片付いてなくて、住居というより「寝ぐら」だ。
こーいう「寝ぐら」に趣味なんてものはない。
悪趣味は、まだ趣味のうちだ。ライフスタイルだ。
でも、その「寝ぐら」には、テレビだってパソコンだって仏壇だってベッドだってソファだってちゃんとある。
真に快適な場所なのだ、「寝ぐら」というのは。
その「寝ぐら」丸出しのゴチャゴチャした暮らしの中で、登場人物が食事する姿も、またむき出しにリアルだ。
お行儀とかマナーとか関係なく、喰らう。
添加物いっぱいのウインナーを味付け海苔で丸めて、ご飯の上に乗せて喰らう。
美味ければいいんだよ。
缶詰の鮭フレークの中身をガバッとご飯の上に乗せて喰らう。
口を茶碗に持って行って、背中丸めて喰らう。
おかずが不味ければ何も言わずに各種の「ふりかけ」をご飯の上にかけて喰らう。
それでいいんよ。
いわゆるイケメンやアイドルの若い俳優さんが、気取りもカッコつけもなく、飯を喰らう。
物がゴチャゴチャ置かれた居間の冴えないソファの上で、いぎたなく眠りこける。
いわゆるイケメンやアイドルの軽薄さが消えて、演技力も何もない俳優から、現代日本に棲息する庶民の若い日本人の健気さが滲み出す。
すごい。
映画には、特別なスペシャルな異常な事件が起きるわけではない。
家出していた息子は母親の三回忌の法事の前日には帰ってきて黙って部屋を片付け掃除して、父親の喪服を出しておく。
癌の末期の呆けちゃった父親をテキトーに世話する家族たちのテンションの低い日常の描写。
緩いんだけど、ちゃんと生きてる。
ちゃんと自力で生きている。
平凡以下っぽい片付かない人生をそのまんま受け止めて、時にドタバタしつつも、毎日のご飯を美味しく食べて生きて行く。
うわああ〜〜
こーいう映画って、アホみたいに見えて稀有だよ〜〜〜
『シン・ゴジラ』もいいけどさ、ああいう大きなテーマは超最高だけどさ、
『キツツキと雨』も『モヒカン故郷に帰る』も、すっごくいい。
世界は戦国時代だ。理不尽と暴力と陰謀が渦巻いている。
でも、庶民の暮らしは、こうよね。
経済破綻だろうが、預金封鎖だろうが、第三次世界大戦だろうが、天変地異だろうが、庶民の暮らしは、こういうもんよ。
草の根の庶民って、こういうもんよ。
誰の責任にもせずに、自分の人生を引き受けて受け容れて生きる。
ほんとうのリバータリアンは、もともとがリバータリアンだから、リバータリアニズムなんて意識もしないのかも。
沖田修一監督は、実はほんとのリバータリアンかもね〜〜
あの「緩さ」は、ただもんじゃない!!