本日は11月15日火曜日。
私は、まだくたびれている。
明日までに、3学期(私の職場は4学期制)末試験問題(案)をインターネットのWebClassというプログラムで作成しないといけないのに、まだ呆然としている。
還暦過ぎて、組織でフルに働けるのは、よほどタフな人よね〜
やっぱり、普通以下の体力の私は、フリーランスになるしかないね〜
ところで、Twitterを見ていると、うちの学生の書き込みを眺めていると、大学祭が終わったばかりだから、大学祭実行委員会のメンバーが多く書き込んでいる。
みんなでやり遂げた大学祭への感動について、生き生きと書かれている。
友人先輩後輩たちとともに大学に泊まり込んで準備した高揚と興奮が書かれている。
今年度の1年生には、非常に明るくノリがいい学生が多い。
で、例年になく多くの1年生が大学祭実行委員会に参加した。
やっぱさあ、ああいうもんには参加したほうが面白いよ〜〜
わかるわあ……
私も、高校の文化祭や、大学祭には積極的に参加した方だからなあ。
高校の文化祭では、新聞部だったから、調べたことをポスターにして壁に貼りまくっていた。なにを調べたのか覚えてないけど。
体育祭では応援団やった。三三七拍子やってた。
ガッキーの映画『フレフレ少女』みたいな本格的なものではないけど。
模擬店は高校でも大学でもやった。ウエイトレスさん、ウエイトレスさん。
大学では美術部にもいたから、自分の描いたイラストを色紙やパネルにして売ってた。
買ってくれる奇特な方々がいましたです。
黒い厚紙に絵を描いて、切り抜いて、そこに色とりどりにセロファン紙を貼り付けて、学食の窓を飾ったり。ステンドグラスのつもり。
まあ、チョコマカドタバタやっていた。
ふつーに「お祭り野郎」だった。
イヴェント、行事ってのは、準備が面倒だけれども、自分と他人がひとつの目的に向かって一致協力して動くってことが、すっごく嬉しい んだよね。
世紀の大傑作『シン・ゴジラ』だって、巨大生物駆除という共通の目標のために官民が一体となって協力するというのが、いいわけでさ。
私は自分が孤独症だと知っていたので、独りでいるのが気楽で好きだとわかっていたので、逆説的にイヴェントに関わってきた。
目的が明確ならば、他人と関わることができる!!
退屈極まりない世間話も、目的を達成するためのコミュニケーションだと割り切れば、苦痛ではない。
大学院生のときは、新歓コンパに送別会は当然のこと、教授の退職記念パーティだの、出版記念祝賀会だの、還暦記念パーティだの、叙勲記念お食事会だの、先輩の留学歓送会だの、ゼミ旅行だの、女子会だの、積極的に企画して幹事をやった。
それはなぜかというと、大学院生活が私には苦痛だったからだ。
強烈に退屈だったからだ。
イヴェントの企画に幹事というのは、非社交的な孤独症の人間に向いている。
社交的な人間は自分が楽しむ方が先に立ってしまうが、あくまでも自分が中心になるが、非社交的で孤独症の人間は、幹事の職務に集中するから。
この癖が抜けずに、就職してからも、この種のイヴェントは、どんどん企画し幹事をやった。
勤務先の大学で、講演会や学会を開催するようなイヴェントにおいて裏方をきっちり務めることは苦にならなかった。
職務であり義務なら、話したくもない人間とでも話せる。
恩師の教授の還暦記念祝賀会のときに、不機嫌極まりない顔した別の教授(キモい奴)にいくらでもヨイショできた。
そいつの発散する邪気で祝賀会を穢されては、かなわんわ。
名古屋の女子大短大部勤務時代にはゼミ生による「英語朗読劇」を公立の小劇場を借りて上演した。
今の勤務先において、「英語プレゼンテイション・コンテスト」を開催したのも、まあ若い頃からの「幹事引き受け癖」が出たんだな。
何もしたくない怠惰な人間が、社会と関わるためには、他人と関わるためには、幹事とか裏方とか引き受けるのが1番いい。
独り暮らしであった大学の恩師が亡くなったときは、いろいろ電話しまくり弔問客と弔問電報と献花を集めまくった。
おかげで、自分の親の葬式準備にも粛々と対処できた。
ほんとは自分の結婚式や披露宴も、自分が司会して仕切りたかったぐらいだ。
自分の葬式も自分で仕切ることができるといいのになあ。
というわけで、イヴェント=行事は、孤独な人間が多くの他人と触れ合わざるをえない機会となり、自分の孤独を忘れ、自分の人生を直視するきつい作業から降りて、行事の進行と効果のみに心を集中できる機会となるという点において、ありがたいんである。
うちの学生さんたちも、大学祭が終わり、今頃はあらためて自分自身と、自分の生活という現実を見つめないといけなくなり、寂しいだろうなあ。
で、しばし、その空虚と孤独を忘れるために、飲み会なんか企画するんだろうなあ。
今の時代は、イヴェントの時代。
学生たちは、やたらと飲み会を企画して騒ぐ。
家庭でも、ただただ家族が仲良く暮らしているのではなく、やたらと家族イヴェントをやりたがる。
みな、ほんとうは自分からの逃走だ。
現実の自分自身の人生を見つめることからの回避活動だ。
集団主義とか集団行動の肝は、自分からの逃走だ。
リアリティからの逃走だ。
それぐらいに、人は孤独への耐性が低くなっている。
自分の人生というリアリティから目を背けたがっている。
それを可能にする装置は、エンターテインメントとかリクリエイション活動とかいう名称で、現代には事欠かない。
私の場合は、イヴェントに関与し、責任を持つのは、「孤独症の自分を社会適応させるための、人間に他人に慣れるためのヴォランティア活動」であった。
そのつもりだった。
でも、ひょっとしたら、私も自分自身から逃げていたのかもしれないね〜〜♫♫♬