それでも先生ですか?

本日は2016年12月25日日曜日だ。

何も予定のはいっていない休日だ。

2016年最後の日曜日だ。

ソファに寝っころがって炬燵代わりの寝袋に身体を蓑虫みたいに入れてヌクヌクしながら、冬の午後の青空を眺めてる。

名古屋には明日帰る。

その前に掃除しないとなあ……

ボケっと青空を眺めてると、記憶が蘇る。

10年くらい前かなあ、もっと前かもしれない。

前の勤務先の大阪の桃山学院大学の学生さんからメイルが来たことがあった。

他学部の名前も顔も知らない男子学生だ。社会学部の社会福祉学科の学生だったと思う。

内容はと言えば……

「いつも行くコンビニの前にホームレスの年配の男性が座り込んでいます。コンビニの店員さんは無視してます。そのホームレスの人は病気なのか、非常に辛そうです。何とかしてあげることはできないのでしょうか」

とかいうものだった。

なんで、こーいうメイルを他学部の教員に、担当科目の教員でもない人間に出すかねえ?と思いつつ、私は返信した。

「あなたにできることは何もありません。できるなら、このようなメイルを私に出す前に自分で考えて何かしているでしょうから。あなたは、気の毒な人を目にしても、何もできないし、実は何もする気もない自分を直視して受け容れることができないだけです。自分の力で生きることができる人間になることだけ考えてください。自分ができもしないことを考えないこと。ましてや、他人にどうしたらいいでしょうかなどと、いかにも良い人ぶって質問して、自分を慰めないことです。人は他人を救えません。自分で自分を救うことだけ考えなさい。まだ経済的に自立もしていないくせに、慈善ごっこや社会福祉ごっこはやめなさい」

というような内容の返信をした。

それに対して、返事があったのかなかったのか、もう覚えていない。

非難批判のメイルがあったのかもしれないけど、忘れてしまった。

「それでも先生ですか?」と言うようなメイルはあったのかもしれない。

私は、「それでも先生ですか?」という非難をよく受ける。

それは、本当のことを言ったときに受ける非難だ。

ということは、「先生」というのは、できもしないことを言い立てて、非現実的な綺麗事や気休めを言う人のことらしい。

そんな類の「先生」の言うことなんか間に受けてる生徒や学生や大人がいるとしたら、ハッキリ言って馬鹿である。

ちょっと頭の確かな生徒や学生ならば、「まあ、先生の立場ならば、こーいう綺麗事や気休めを言うしかないもんな……立場上はしかたないもんな……」と教師に同情しこそすれ、いかにも正論であるが意味のないことを言う教師の言うことなど本気になどしない。

ちょっと頭の確かな生徒や学生ならば、世の中とは、地上とは、そういうものなのであるから、それについてシノゴノ言っても変わりはしないのだから、それはそれとして、弱肉強食的な世界の特権層が作っているシステムの下層に位置する人間としての自分は、どう生きるかねえ……と考える。

たとえば、私はカトリックの南山大学の学生時代から、カトリック教会という組織の胡散臭さについて少しは知っていた。

バチカンというのがろくでもない組織で、教会の存続のためには何でもしてきたし、宣教師という人々がアジアやアフリカ植民地化の尖兵であり、帝国主義推進の斥候みたいな人々であることを知っていた。

私の卒論も修論もマーク・トウェイン(Mark Twain:1835-1916)だからね、キリスト教組織の闇の部分については知識があった。

最近、話題になってるのは「バチリークス」(Vatileaks)だ。バチカンの秘密文書流出事件、マフィアとの関係、ナチスとの関係……ブラックマネーにスイスの銀行との深い絆。

http://www.afpbb.com/articles/-/2881645?pid=9041162

バチカンが何をやってるかわからない類の秘密結社であることは、ほんとは20世紀初頭から世界の常識だった。

まあ、どういうことか1942年昭和17年にバチカンと日本が、英米の猛反対にも関わらず国交締結したとか、どうも日本の皇室とバチカンとは深い関係があるらしいということは、つい最近まで私も知らなかったけれども。

それはさておき、カトリック教会という組織の胡散臭さを知った私から見たら、当時の南山大学の教員の25%を占めた神父さんたちは大いなる観察対象であった。

この人たちは、自分の属する修道会の元締めのバチカンの闇の歴史についてどう考えてるんかしらね…

それと自分の信仰の折り合いをどうつけてるんかしらね……

まあ、食っていくために修道会に入ってるだけかもねえ……

カトリック教会って生活共同体で大家族みたいなもんで、老後も大丈夫だしな……

つまんね〜〜程度の低い世間と関わるより、気楽でいいかもね……

つまり、私が言いたいことは、少しでも物を知った学生からすれば、「教師」というのは気の毒な存在であるということなのだ。

模範にするとか、教えを請うとか、教えられて救われるとか、そーいうもんじゃない。

非力無力な教育サーヴィス労働者なのに、なんかエラソーに清く正しく美しいことを言わなきゃならないって大変よね、それが人間の生き方だよね、そういうのが世の中ね、と教えてくれるという意味で、教師は教えてくれる存在である。

この世界の仕組みの一部を体現してくれているという意味で、本音と建前の二重構造で生きるしかない人間存在のサンプルであるという意味で、教師は生きた教材である。

その意味で、教えてくれる存在なのだ。

親だって、同じ生き方をして社会生活を送っているのだけれども、親は身近過ぎて、客観視できない。

この社会に生きるということは、平和に仲良くね〜〜と綺麗事を言いながら、しっかり闘い続けるということだ。

勝たないまでも負けては絶対にいけないと思って生きるということだ。

そこんとこわからないし見えない思考力も観察力もない低脳が、「それでも先生ですか?」と言う。

もしくは、先に例に出したメイルのように、自分の非力を直視するかわりに関係ない教師に訴えて、あわよくば教師を使役して何かをさせようとする。

自分にできもしないことを他人に求めるんじゃねーよ。

ああ〜うざ。

退職したら、「それでも先生ですか?」と言われないですむ。

ほんと、こいつら全部、火炎放射器(古いな)で焼き払いたい……

とは私は思わない。

「それでも先生ですか?」と言う類の人々は、根深い依存心に巣食われている。

恐怖に満ち満ちた気の毒な人々である。

こーいう人々は、小学校でも中学校でも高校でも、素直な人々であったのだろう。

teacher’s pet でいたかった人々なのだろう。

しょうもな。

その根深い依存心のために、傷つくことも多かったのだろう。

期待はずれが蓄積されてルサンチマンいっぱいなのだろう。

全ては自業自得なのに。

その依存心は、社会人になっても、会社が悪い、政府が悪い、他人が悪い、自分を理解して優しくしてくれない世間が悪いという方向に行く。

そもそも、会社が悪くて、政府が悪いのは当たり前だ。

そもそも、他人があなたに関心がないのは当たり前だ。

ほんとうのほんとうのところは誰でも他人の生き死には関心がないのも当たり前だ。

いちいち言い立ててもしかたないことだ。

歴史を学び、自分という人間を徹底的に直視すれば、そんなことは当たり前のことだ。

この世界は、あなたを安穏とさせてくれる揺籠ではない。

他人は、あなたを安心させて優しく受け容れてくれる幻のママではない。

外部に依存するということは、外部に悪(犯人)を求めるということだ。外部に原因を探すということだ。

そんな類の依存心の進む道は果てしない泥沼だ。

「先生」というのは、その類の依存心のターゲットになりやすい職のひとつでもある。

まっこと賤業ですわ。

もうすぐ賤業にさようなら。

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