本日は2016年12月30日金曜日だ。
年賀状書いてない。
歯が痛い。
脚は不調。
肩も背中も首も痛いような凝ってるような。
Facebookの投稿を読んでると、年末休みに入って疲れが出たのか、身体の不調に悩まされている人が多い。
痛いから病院に行ったら背骨の一部が折れてた(!)とか、腰痛とか、医師から検査が必要と言われたとか。
詳しく検査したら、みんな、どっか病気持ちに違いないよ、40歳も半ば過ぎてくると。
みなさま、ご自分のお身体を大切に労ってさしあげてください〜〜〜
細胞のひとつひとつに愛と感謝を注いでください〜〜
といっても、人間の身体に細胞っていくつあるんだ?
200兆ぐらい?
それはさておき、本日は、「還暦も過ぎると、いろんな人の人生を眺めることにもなるんで、やっぱり結果って出るよね〜〜」という話だ。
私の20代や30代は、驚きっぱなしだった。
私が生まれて育った家庭というのは、実に単純で正直で素朴な人々で構成されていたので、世の中には、全く正直でなく、無駄に複雑で、洗練されてはいないが、すれっからしの人々が多いということに驚いたのが、20代や30代だった。
10代の頃は、私自身が脳足りんで、そういうことにも気がつかなかった。
しかし、じょじょに気がついた。
この世の中には、平気で嘘をつく人間がいる。
呼吸するように嘘ばかりついている人間がいる。
別に他人を貶めることなどしなくても生きていけるのに、他人を貶める嘘をついては保身を図る人間がいる。
いくらでも裏切ることができる人間がいる。
異様に口は達者だが、その口から吐き出されるおびただしい言葉の中になんの真実性もない人間がいる。
もっと異様なのは、この種の人間たちには、自分がそういうことをしているという自覚が全くない、ということだ。
彼らや彼女たちは、自己欺瞞の天才である。
無自覚な偽善の塊である。
赤裸々に自分を見つめるとか、自分を突き放して眺めるとか、そういうことは一切しない。
できない。
自分自身に嘘がつけるのだから、他人に嘘をつくことなど簡単だ。
自分自身に嘘をついているということは、現実認識がおかしいということでもある。
自分自身を突き放して見ることができない人間が、現実を把握することなどできるはずがない。
必ず非現実的になる。
どうしたって、「夢見る夢夫さん」になるし、「夢見る夢子さん」になる。
打算的に狡猾に動いているようであるが、実態は夢夫さんで夢子さんだ。
この種の人間は、ほんとうに大学というところに多く棲息している。
「ふりして」通用する場所だからかなあ。pretenderいっぱい。
なにゆえか、そのような人々は私に非常に反感を持っていたようだ。
ストレートにあからさまに攻撃的ではなく、私に面と向かうのではなく、陰湿に隠微に攻撃をしていた。私に関する嘘を垂れ流していた。
嘘と言っても、犯罪的な類のものではなく、小心翼々とした類のものであったので放置した。
とはいえ、当時は、私も随分と傷ついた。
奇妙な人々だと思った。
私は、彼らや彼女たちに関心がない。
なのに、なんで彼らや彼女たちは私に「マイナスの好奇心」を持つのか?
しかし、私は彼らや彼女たちと派手に喧嘩とか口論をしたことはない。
私は平和的な人間だから。ほんと。
言ってもしかたないことは言わない人間だから。ほんと。
会議などで言うべきだと思うことはハッキリ言っていた。
しかし、個人的には関心がなかったし、忙しかったので、構ってはいられなかった。
気にはなったが、基本的にはどうでもよかった。
私の美意識からすると、みんな不細工だったし。
私は関心が無くなると名前も忘れてしまう。
ひどいと言えばひどい。
失礼といえば、ひどく失礼だ。
すみません。私は正直だから。
やっぱり、今となっても私は、「ああいう人々は、どうしたって他人に悪意を持つのであるから、あれはあれで放置しておくしかないのであって、私の姿勢はあれはあれで正解であった」と思う。
仲良くなる気にもなれない、つまらん人間というのは存在するものだ。
ともかく、そういう類の人間に大量に遭遇したのが、私の20代と30代であった。
実に単純に素朴に育った私は、その20年間に「人間について」大いに学ばざるをえなかった。
奇妙な人々の心理について、考えざるをえなかった。
おかげで、40代に入ってからは、非常にラクになった。
私は43歳の時に大阪の桃山学院大学に移ったのだが、「絶対に信用してはいけないタイプの人間」と大量に出会った20年を経過していたので、もう「奇妙な人々」に悩まされることはなかった。
そのような人間がいたとしても、「ああ、あのパターンだな」と分類できたし、対処方法もわかっていたから。
58歳で、新設の福山市立大学に移ったときも、「奇妙な人々」に悩まされることはなかった。
初対面の挨拶をすれば、「関わっていい人」と「絶対に信用してはいけない人」の区別はついたから。
それほどに、20代と30代に遭遇した人々の幾多のパターンは私の心に深く深く刻み込まれていたから。
トラウマと呼ぶべきか。
桃山学院大学でも、福山市立大学においても、私からすれば「絶対に信用できない人間」であることが明々白々である類の人間に、騙されている同僚たちが不思議だった。
「なんで、わかんないのかなあ?」と私は不思議だった。
他愛なく騙されている同僚たちが不思議だった。
みんな国立大学とか有名大学を出た優秀な人たちなのにねえ……
お勉強はできるのに、すっげえ幼稚なんだ……
馬鹿かもしれん……
いや、知らないんだな……幸福な人たちなんだ……
還暦になった頃になると、面白いことに、かつての私を悩ました類の人々の「その後の結果」を噂に聞くようになった。
やっと、あいつらも気がついたか、である。
そして、福山市立大学も6年目となると、騙されていた同僚たちも、ようやく気がつくようになる。
やっぱりね〜〜〜である。
I told you!である。
と言っても、私は「こんな人の言うことなんか信用しちゃダメ〜〜!!」なんて言ったわけではないけれども。
ただ委員会や教授会で、「他愛ないなあ……こんな奴の言うことを間に受けて……」と心の中で言っていただけであるが。
やっぱり、苦労ってするものよね。
私の20代と30代は、大変だった。苦しかった。
だけれども、あの20年のおかげなのだ。
いかにまともに見えようと、もっともらしいことを言っていようと、いかに「いい人」に見えようと、世の中には絶対に信用してはいけない類の人間がいるということを知ったのは。
そして、そのような人間の人生には、必ず「結果」というものが出るということも知った。
やったことしか返ってこないもんね。
嘘で固めた人生には、嘘しか返ってこないよ。
虚栄で固めた人生には、虚栄しか返ってこないよ。
世の中は不公平に見える。
悪は栄え、善は踏みにじられるように見える。
要領と偽善と欺瞞と虚飾とお体裁だけが通用するように見える。
でもね、けっこう、「正義」というものも垣間見えるんだよね、これが。
世間は馬鹿だから10年や20年は騙されるけれどさ、30年は騙せないんだよね。
だから、みなさん、小狡いこと考えずに、真っ直ぐに生きてもいいんですよん。
自分の素朴さや正直さや単純さを恥じることはない。
時間が、あなたの味方をしてくれるから。