本日は2017年1月28日土曜日である。
土曜日だけど、午後に1年生必修受験のTOEIC IPテストが実施されるので、試験監督で出勤する。
2月2日の最終講義の準備は全くできていない。
忙しくてできなかった。
これから数日間でやらねばいけない。
どうしよう……
と、いつでも余裕のないアホな私だ。
先週に、同じく退職する同僚2人の最終講義があった。
45分ずつの最終講義であった。
ふたりとも自分が研究していることではなく、「来し方を振り返る」という趣の講義であった。
今日は、そのひとりの最終講義について書く。
この同僚は、福山市立大学設置委員会のメンバーを務めた。
開学前から、福山市立大学の立ち上げに非常に尽力した。
開学後も「主任教授」として、大学行政に大いに関わった。
教務委員や入試委員や図書館長を務めた。
どれもこれも、要職である。
この3つを引き受けるのは、とんでもないことである。
この3つを1人の人間に任せるのも、とんでもないことである。
任せた奴の気が知れない。
よほど酷薄なサディストであろう。
何よりもとんでもないのは、大学を最初から作り上げることである。
これは、実に実に実に大変なことである。
しかし、大学人ならば、やってみたいことの1つでもある。
学部のコンセプト作り、カリキュラム作り、担当教員の選定、文部科学省との折衝。
大学人には、自分なりの「理想の大学」のイメージがある。
ただ、それはイメージでしかない。
形にして運用するのは、それとは別のことだ。
都市経営学部の教科内容などのシステムは、みな、この教授が決めたようなものだ。
であるからして、この教授の都市経営学部への思い入れは並大抵ではない。
ということで、最終講義の内容は、自分の学歴職歴留学内容の紹介と、いかに都市経営学部が作られ、開学にあたっては実に多くの人々の尽力があったことを語り明かすというものであった。
福山市立大学の前身は福山市立女子短期大学であること。
福山市立大学を作るにあたっては、福山市立女子短期大学を閉学にしなければならず、退職していただく教員が多かったこと。
そのために短大内にはいろいろ問題が起きたこと。
それでもセンターという組織を作り、できるだけ多くの短大の教員のポストを確保したこと。
いろいろあったが、短大の学長以下、福山市立大学の設立のための多大なる努力を続けたこと。
大学の建物の建設が遅れて入試には、他の公共の建物を使ったこと。
入試の日に雪が降ったこと。
後期入試は2011年3月12日であり、あの震災の翌日であったこと。
これらのことは、私は洩れ聞いてきたことだが、学生たちは知らないことばかりであったろう。
自分の在籍する学校の由来、沿革を知っておくことはいいことだ。
大学だってカネだって、湧いて出てくるものではない。
誰かの労力によって生まれる。
自分たちが寄って立つ場所は、自然発生したものではなく、他人が時間と体力を使って整えたということは、了解しておかなければならない。
いくつになっても、そういう想像力のない人間もいるが。
ともかく、この教授にとっては、福山市立大学都市経営学部は、一種の自分の作品であった。
一種の自分の子どもであった。
であるから、勤務ぶりは非常に勤勉であった。
事務職員がすべきことまで率先してしていた。
教務委員であり、入試委員であり、図書館長であるのだから、忙しいに決まっている。
財務大臣と外務大臣と文部大臣を兼ねているようなものだ。
ひとりの閣僚にそんなことさせる総理大臣がいたら狂人だよね。
ほんと。
確実に、この教授は都市経営学部において最も働いてきた教員であった。
その激務がたたり、過労で倒れて休職した。
ゆえに、自分が情熱込めて作ったカリキュラムのハイライトとも呼ぶべき「卒業研究」6単位の演習科目を担当できなかった。
卒論指導を一度もしていないのだ、この教授は。
ゆえに、この教授は、自分が作ったカリキュラムが、どのような4年生を生み出し、どのような卒業研究を生産させたかを、身をもって思い知らされていない。
卒論の電子データを提出させれば、それでいいではないか、わざわざ紙媒体で提出させる意味はあるのかと教授会での質問に、この教授は答えた。
「紙媒体で提出させるには、儀式的な意味合いがある!」と。
儀式って何だ。
未だに卒業研究論文は、まずは紙媒体で提出し、次に要旨を電子データで提出し、次に本論を電子データで提出する決まりだ。
くだらないご大層さだ。
ご大層に儀式にこだわるということは、実体が空虚であるからでもある。
空虚でもいいのであろう。
どっちみち、この教授の脳の中にあるのは、幻想の自分が設計した理想の大学なのだ。
イメージなのだ。
ゆえに、少しでもシステムを変えるような案には教授会でも頑強に頑固に反対してきた。
開学後に英語科目の責任者として私が、いろいろ苦情を言うと、「英語の科目設定には最初から無理があるとわかってます。失敗だとわかっています」と言った。
答えになっていない。
失敗とわかっているものを私に担当させたのか。
私がどれだけ大変でも、それはどうでも良かったのであろう。
さすが、自分が教務委員に入試委員に図書館長を押し付けられるという理不尽に抵抗しなかっただけのことはある。
こういう人物は、他人にも理不尽を無自覚に押し付ける。
たとえば、この教授は、自分の科目関連の非常勤講師を一度は自費で接待してご挨拶しろと命じた。
福山市にはそんな予算がないので、集中講義に来た先生とか非常勤講師を自費で接待しろと言った。
最初は、教務委員としてこの同僚が接待していたのだが、自分ばかりが自費でなぜ?と考え直したらしい。
普通ならば、じゃあご接待なんて分不相応なことはやめようと思うはずだ。
ところが、この同僚は、それを他の年下の同僚にさせた。
私も、英語の非常勤講師の方々の接待をした。
自費で。
まあ私自身が英語担当の非常勤講師の方々を把握しておきたかったので、この同僚に言われなくとも私はそうしたろう。
しかし、それを教授会で決めるというのは、脳がおかしい。
この同僚の意味のない頑固さというのは病気である。
こう変えよう、こうしたら金もかからず変えることができると提案しているのに、なにゆえか絶対に変えようとはしなかった。
無理もない。
都市経営学部のカリキュラムや運用方法は、彼自身が作ったのであるからして、変えるのは自分の非を認めるようなものだった。
最初の設定がおかしいのだから、どんどん改良すべきだという意見が出ると、この人物の抵抗はすごかった。
「そういうことは言うものではない。変えるのならば我々が退職してからにしてくれ」と会議の席上で言ったこともある。
ほんとうだ。
大事なのは自分のプライドであり、面子であり、現実の改善ではないのだ。
しかし、この教授が「誠実」に働いたことは確かである。
それは事実だ。
誰よりも働いた。
誰よりも時間と体力を大学運営に注いだ。
最終講義の日のこの教授は、過ぎし日々の充実を振り返ることができる歓びを噛み締めているようだった。
私は、その最終講義を聴きながら、思った。
おそらく、太平洋戦争敗戦後に、開戦を決め、敗戦必至となっても降伏を決定しなかった政治家や軍人たちを眺めた日本人の気持ちは、今の私の気持ちと似ていたのだろうと。
一生懸命やった。
誠実に努力した。
とんでもなく努力した。
しかし、結果はアホだった。
太平洋戦争というか大東亜戦争では300万人の日本人が死んだ。
福山市立大学では6年間が失われた。
その結果、都市経営学部から他大学に移る教員は後を絶たない。
早期退職者も少なくない。
これについて、責任者たちを責めても虚しい。
この人たちは、この人たちの主観としては、懸命に誠実に事にあたった。
それ以上のことはできなかった。
それを責めてもしかたない。
で、私はさらに思った。
自分自身の能力から判断して、きちんとできないことをやるはめになる事態は回避するべきだ、と。
どれだけの迷惑を他人にかけるか想像するだけでも恐ろしい。
いくら善意でも、志があっても、努力しても、結果が出なければしかたないのが、プロの世界だ。
厳しい。
「能力」というのは、良い結果を出せるということだ。
これには運も関与してくる。
過程が大事である、というのも事実である。
「一生懸命やったんだから、いいじゃないの~~手を抜いたりさぼったりしたわけじゃないんだからあ~~」と言うことで、結果を出せなかった自分や他人を慰めることはできる。
しかし、多くの人間を巻き込む「公共事業」では、それは許されない。
だから、「公共事業」に関わる場合は、自分に問わねばいけない。
それを遂行できる能力と運を私は持っているだろうか?と。
個人の人生のことではないのだ。
多くの人々の運命を巻き込む公の仕事ならば。
私は私の能力にふさわしくヒラ教員で終わって良かった。
大きな大きな迷惑は他人にかけずにすんだ。
良い結果が出せないのならば、どんな善意があろうと、志があろうと、努力しようと、しかたない。
小学生の運動会じゃないんだからさ。
しかし、実際の世の中は、自分が「公共のことに関与できる能力と運を持っているだろうか?」と問うことなどないような能天気な人々が、政治とか行政とか経営に乗り出していくのであろう。
それぐらいに無神経で無責任で理不尽が平気な人間でなければ、何もできないのかもしれない。
それもこの世の真実なんだろうな・・・
だからさ、みなさん、政治家とか市長とか(起業したのではないサラリーマン)社長とか、あてにしてはいけないですよ。
何も考えなかったからこそ、その立場に立っている可能性があるから。