[166] ちっぽけな成功体験でも成功体験だ

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本日は、2017年5月20日土曜日だ。

この文章は、4月に書いて、下書きに保存していて、忘れてしまったものだ。

自分で獲った餌をどこかの枝に突き刺して保存したつもりで忘れる百舌(百舌)だな、私って。

駄文ではあるが、せっかく書いたから公開しておく。

今年の4月あたりに、Facebookの投稿に、「大人の自殺者は減っているけれども、子どもの自殺者は減っていない」という記事が紹介されていた。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/04/20/suicide_n_16133662.html

この投稿に対して、いろいろなコメントが書かれていた。

「統計はいい加減である。不審死は自殺とカウントされない。遺書がなければ自殺と認定されない。毎年3万名が自殺すると言われてきたけれども、ほんとうは10万名くらいだろう。身元不明の自殺者は、死そのものが知られていない」とか。

確かに、確かに。

実質は緩慢な自殺であるような変死は多いだろう。

統計は事実の一部しか示さない。

こういうコメントもあった。

「抗うつ剤に依存して自殺するケースは、自殺者数にカウントされないのではないか。病死として判断されるのではないか」とか。

確かに、確かに。

薬害は多いのであろう。

だけれども、他人任せの患者があかんわ。

医者はビジネスだから、なんでもやるわさ。

なんで、他人が処方した薬なんか素直に延々と飲んでいられるのか不思議だ。

薬なんて、もともとが飲まないほうがいいんだから。

副作用があるに決まっている毒なんだから。

話を元に戻す。

子どもの自殺の数は減らないとかについてだけれども。

子ども時代って、だいたいが死にたいもんよ。

子どもって、周りが気をつけていないと、わりと簡単に死んじゃうよ。

あの子たちはこの世界の新参者なんで、生きていること自体が、相当にきついのだよ。

何も感じていないサルに見えて、すっごく傷つきやすいのだよ。

だから、子どもの一定数は、自殺する。

そーいうもんよ。

私も死にたいことばかりだった。

勉強もできてスポーツ万能で、いつも学校の花形で、ピアノもすぐ弾けるし、親はPTAの会長で……学校は小学校から名門私立校で、キャンパスは美しく清潔で快適で……というガキもいるだろうけれども。

が、普通の子どもにとっては、学校生活はストレスフルだ。

私は、普通以下の子どもであったので、学校生活にしろ何にしろ、非常に不快で重荷であった。

私は子ども時代に帰りたいと思ったことは一度もない。

冗談じゃない。

学校そのものが、建物は古くて汚くて臭い。

トイレは暗くて汚くて臭い。

掃除したって綺麗になりはしない。

汚れた雑巾で廊下をなぞっているだけ。

そこに毎日通わねばならない。

給食は必死に速く食べねばならない。悠長に食ってちゃいけない。

同級生たちは、育っている家庭の問題をそのまま反映してる。

意地悪だったり、小うるさい。

ひっきりなしにキーキー喋っている。

男の子は、ドアの開け閉めについても、ほんとうに鈍感で乱暴。

無神経と無作法が短パン履いていた。

女の子は、小学校低学年から、まるで「団地の奥さん」だった。

「団地の奥さん」というのは、すでに死語だな。

要するに昼日中から複数で立ち止まって延々と何時間も、しょうもない話をしている昔の専業主婦たちのことだ。

昔は、そういう風景を、あちこちで見かけた。

いまどきの主婦は、そんな優雅なことはしていられないが。

共働きが普通になった主婦には、そんな暇はないが。

学校の先生は、親ほど理不尽ではないけれども、まあプチ理不尽だ。

大人は、みんなウザイのだ。

わけのわからない怒り方をする生き物であった。

ともかく、私の子ども時代は、「冒険」の連続であった。

そういうストレスフルな日々のなかで、 小さなストレスにいかに立ち向かってクリアしていくかの 冒険の連続。

こういうことは親に言ってもダメだ、自分でちゃんと先生に言いに行くんだ。でも、職員室に行くの嫌だなあ。でも、行かなきゃ。

で、職員室に行って、ちゃんと先生に説明できた。良かった!できた!

ちょっと喧嘩して、3日間仲良しの何とかちゃんと喋っていない。何とかちゃんとは、これからも仲良くしていたい。私が悪かった。でも、謝るのいやだなあ。どうやって謝ろう。

その鬱屈と躊躇(ちゅうちょ)に勝って、ちゃんと謝ることができた。また仲良くなれた。良かった!謝るのって簡単だ!意外と簡単だった。これからは、自分が悪かったと思ったら、すぐ謝ろう!

大晦日なのに、家の障子紙(そういうものが日本の住居にはかつてあった)が古くて汚れてる。貼り替えないといけない。でも、親は忙しそうだ。私で張り替えることできるかな。

和紙と糊を買ってきて、ゆっくりゆっくりやったら、貼り替えることができた!私でもできた!!不恰好だけど、できた!

これから毎年暮れになったら、障子の張り替えは私がする!家の中を綺麗にできるんだ、私でも!

学校の帰りにお腹空いたから、「寿がきや」のインスタントのうどんを買ってきた。ところが袋に入った麺の一部が黒くなっている。

これは何?黴(かび)というものらしい。どーしてくれるの!食えんじゃないのよ。私がお小遣いで買ったんだぞ。

こーいうもの売ってちゃいけないと思う。ここの会社に手紙書いて、黴のはえた麺入りの商品を送っておこう。私は「寿がきや」が好きなのに残念ですと書いて送った。

そうしたら、私が学校にいる間に、「寿がきや」の社員の人が自宅に来て謝り、代わりの商品を置いて行ってくれた。オマケもつけて。何も知らない母親はビックリして慌てたそうだったが。

やっぱり、言うべきことはきちんと丁寧に言うべきだな。泣き寝入りしちゃいけない。

私にとっては、何でもない小さなことが、全部が非常に難しいことに思えた。

ひとつひとつ試みていくことだけで、非常に緊張し疲れた。

ない勇気を振り絞ってするしかなかった。

でも、これらの実にささやかなことができると、嬉しかった。

長じて、もっともっとややこしい問題が出て来た。

その度に、私を支えてくれたのは、幾多の「成功体験」だった。

「成功体験」というのは、ささやかなものでいい。

ちっぽけでいい。

オリンピックに出場したとか、すごい大学に現役で合格したとか、コンクールで優勝したとか、そんなご大層なことでなくていい。

自分としては回避したいストレスから逃げずに、クリアした、真正面から迎え撃った。

これが、私の成功体験。

そういう類のセコイ小さな小さな小さな成功体験でも、塵も積もれば山となる。

ささやかでちっぽけでも成功体験は成功体験だ。

成功体験は、自信を育む。

自分を頼む気持ちが習慣になる。

そんな自信でも積み重なれば、確信になる。

逃げなければいい。

堂々と迎え撃てばいい。

大丈夫だ!

不器用でも不細工でもカッコ悪くても鈍臭くても、ひとつひとつ丁寧にやって行く。

時間かければ、できる。

そうすれば、必ず突破できる。

この世の中は、自殺したくなるようなことばかりだ。

それでも、自分で選んで生まれたのではないから、自分で勝手に死んじゃいけない。

確実に絶対にいつかは死ぬので、慌てることはない。

それまで、いろんなストレスに挑む。

私にとっては、トイレの天井の電球を交換することさえ、できるようになれば成功体験だ。

餃子を綺麗に焼き目をつけて、フライパンにこびりつかせずに焼くことができるようになるのも、成功体験だ。

21年間の単身赴任生活を大断捨離して、名古屋に引っ越しを完了させたことも成功体験だ。

何しろ、私は、幼い頃には「知的障害児かもしれない・・・」と親を本気で心配させた。

それぐらいに、不器用で何もできない。

でも、他人と比べてもしかたない。

自分の人生だもの。

自分ができるようになればいい。

他人が10歳でできることを、64歳でやっとできるようになっても、いいんだ。

できるようになったという成功体験は、私のものだ。

これから、もっともっとシンドイ辛いことも起きるのだろう。

回避できないなら、丁寧に付き合う。丁寧に乗り越える。

ということで、自殺したい人へ。

ひょっとして、あなた、ご自分のことをえらく大層な人間だと考えてきて、ささやかなことを蔑(ないがし)ろにしてきたんじゃないですか?

と問いたい。

この世に流通するアホな幻想ではなく、他人との比較ではなく、自分の人生と自分の実感を大事にしてください。

頑張って生きてきた自分を認め受け入れ、愛(いと)おしんでください。

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