本日は2017年6月21日水曜日だ。
なんか台風みたいな日である。
無職のプー太郎ならぬプー子になって嬉しいことのひとつは、大雨だろうが強風だろうが雪だろうが、賃金と引き換えの義務として行かなければならない場所はない!ということだ。
あ、今日は台風みたいね〜〜って言っていればいいんだから。
ところで、今日は昨日の三重大学工学部大学院渡邊明先生ご担当「生産管理論特論1」第11回講義の聴講前に三重県津市のJR駅構内のドトールコーヒー内で読み始め、帰りの近鉄特急の中で読みふけり、帰宅後の就寝前に読了した本について書く。
副島隆彦氏の『ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ」まず知識・思想から』(成甲書房2017)である。
「ニーチェなんかあ〜〜私の人生に関係ない〜〜」
と思う方へ。
いや、他の哲学はどーでもいいからさあ、ニーチェだけは読むといいよ。
なんでかっというと、ニーチェは生きる力になるから。
哲学本だから、じっくり読まないとあかん……と思う必要ない。
哲学だろうが歴史だろうが政治だろうが、テキトーに斜め読みでいい。
わけわからんところ飛ばし読みでいい。
読み方なんて自由だ。
授業であてられるとか、セミナーで発表しなきゃいけないってわけじゃない。
自分の心にビンビン響いてくれば、脳にも響く。
そうすれば生き方が変わる。
そういう言葉に会えればいいんだから。
世の中のインテリさんや知識人さんが、何をほざこうが、関係ない。
読書は自分のためにある。
自分の快楽のためにある。
自分の心と脳が拡がるためにある。
だから、テキトーに読めばいい。
寝っ転がって読めばいい。
私は、いつも寝っ転がって読んでる。
でもって、ニーチェはテキトーに読み散らかすのに非常に適している。
ニーチェは、最初は大学の先生だったけれども、10年ぐらいしか勤めることができなくて、論文ではない文章の塊を、心と脳から言葉が迸るままに大量に書いた人だ。
ほんとに大量に書き散らした。
起承転結だの、序論だの本論だの結論だの注だの参考文献リストだのという論文の形態にこだわらなかった。
そーいう大学産業というか、論文生産管理方式のような小賢しさと硬直性は蹴飛ばした人だ。
だから、私たちもニーチェを自由に読めばいい。
そうすれば、びっくりするから。
こんなふうに考えていいんだ!
私は、今までなにやってんだろう!?
私の脳は縛られていたんだ!
と、驚くから。
で、生きる意欲、闘争心がわいてくるから。
私は、哲学書はニーチェしか読まない。
他のものは読まんでいいと思ってる。
私は、他人に見せびらかすために読むことはない。
「こんなのまで読んでる私ってすごいでしょ〜〜」という虚栄心で読まない。
自分が面白いと感じれば読み続ける。
自分が生きることの糧にならんね〜〜と思うと、古書店にすぐ売却する。
なんかの権威ある賞を取ったから読むわけではない。
「受賞」したような本なら、とりあえずパスだ。
洗脳を一層に強固にするような類のものだから、既成知識産業の維持に貢献するような類のものだからこそ、その本は受賞できたのだからね。
小説なんて、だいたいそうだね。
真にラディカルなものは受賞なんかしない。
ニーチェに深く影響されたアイン・ランドの小説も、無冠だった。
すっごくラディカルで、正直で、真摯で、残酷で、辛辣で、生命力むきだし。
だからこそ生きる力になる。
他の文学作品みたいに決断せずに行動せずにグダグダ綺麗事言ってる臆病さ小心さ狡猾さが、アイン・ランドの小説には微塵もない。
まあ、だからこそ、日本みたいな精神風土では、アイン・ランドは受容され難い。
今は、そんなことはどーでもいいんよ。今は、ニーチェの話だ。
副島氏のニーチェ本は、ニーチェを読んだことがない人が、まずニーチェ探検前のリサーチで読むのにも適している。
同時に、ニーチェが好きで読んできた人にも適している。
ニーチェの人生の軌跡が、ニーチェに寄り添う守護霊のごとく、丁寧に記述されている。
生身のニーチェという人の思考の苦闘が、リアルに感じられる。
とことん思考すること、とことん思考したことを表現することに人生を費やしたニーチェという人の凄さが心に迫る。
凄い集中力だ。
時空を超えた友であり先輩であり師なのだよ、ニーチェは!
こういう人がこの地球で生きていたんだ、私は独りではない!
と、あらためて思える。
ニーチェという人は、いったい何を書いたのかって?
それは、副島隆彦氏のニーチェ本を読んでくだされば、よく、わかる。
が、藤森流に極めて大雑把に、ニーチェの書いたことの要点を藤森語でまとめると、こうなる。
(1) あのね、世の中つーのは、強い奴や生きる意欲の激しい奴が、自分の欲望を実現するべく奮闘努力することに、他の人間が引きずられていくの。それが人間の歴史なの。理不尽だの残酷だのギャアギャア騒いでもしかたないの。
(2) 無茶苦茶に強い自分勝手で才能がある人間がガンガン生きることで、人間の歴史は進歩してきたの。凡人が50億人いたって、数人の天才がいなければ人類社会は進歩しないの。
(3) 人間存在というのはね、そういうもんなの。どうしようもなく獰猛なもんなの。どうしようもなく格差があるの。民主的じゃないの。そーいう無茶苦茶なもんなの。だから、しょうもないこと気にしないで、自分が生きたいようにガンガンと生きていいの。欲しければ奪えばいいの。トンマに奪われる方が悪いの。美味いもん食って好きな奴とだけつきあって楽しめばいいの。
(4) ただし、あんたの充実は、それは闘争の末に獲得するもんであるよ。誰も提供してくれないよ。基本的人権として認められているものではないし、保障もされとらんよ。あんたが自分の手で掴み取るもんなの。
(5) こういう闘争に負けた奴とか、こういう闘争に参入する気力のない奴が、貧しいものや弱いものこそ、この世の真理がよく理解できて学べるなんて御託を考えついたんね。負け惜しみなの。もっともっと本気で闘えばいいのに、闘わずして屁理屈で勝とうとするんだね、こいつら。口ばかり達者のいい子ぶりっこ。「前川ぶりっこ」?
(6) 弱いもの、闘えないものこそ道徳的に正しいのであり善であり、闘争を勝ち抜いて人生を謳歌する者は道徳的に間違っているし悪であるという、わけのわからん発想=奴隷道徳をはびこらせたのは、ヨーロッパではキリスト教。社会主義や共産主義や民主主義は、キリスト教の派生物。奴隷道徳の派生物。ただし、イエス・キリストは、そんなこと言ってないよ。あくまでも教会ね〜〜
(6) 闘わないものや闘えないものの生存と福祉を保障するような社会こそが、道徳的に進化した社会であるという考え方は、社会の活力を潰すし、人間存在の活力を潰すし、人間を堕落させ脆弱に軟弱に卑怯にするの。偽善がはびこり真実が抑圧されるの。
(7) 社会に自分の生存や福祉を保障されることを望むのは、家畜。人畜。畜群。ペット以下。人間は、家畜に甘んじることができないだけのエネルギーを自分の中に持っている。ディオニュソスのようなハチャメチャな活力を。
(8) 奴隷やってんじゃねーよ。自分の中の何者も抑えつけることができないエネルギーを認めよ。よく眠り、よく休息し、よく食べ、よく愛し、洗脳など蹴飛ばして、自分の人生を思いっきり肯定し愛せ。
(9) 他人と比べてどうのとか、規範と比べてどうのとか、自分ではない他人が定めた基準で自分を裁いて萎縮していてもしかたない。自分の運命を愛せ!
(10) どれだけ人類や自分が馬鹿と愚劣を繰り返しても、永遠に繰り返しても、生きることそのものを肯定し、現実を受容し、愛そう。奴隷道徳の綺麗事で現実から逃げるのではなく、自分が生きる現実そのものを受け容れ、そこで生きる自分の苦闘を愛し祝福しよう。そこにこそ、人間の尊厳がある。
副島隆彦氏は、こう書いておられるよ。
第6章263ページにこう書いておられるよ。
「 生の肯定は、人間の厳しい「決意」によるものである。世の中が自分を悪しざまに扱ったからといって、自分の人生を罵り自傷するのは、間違っている。それは不自由で卑しい、奴隷の人間の徴である。自由で埃り高く、勇敢な人間は、たとえ、愛も信頼もなくしたときでさえ自分の人生を愛し、信じる。したがって、ペシミズムとニヒリズムを克服することは、思想の課題ではなく、ひとりひとりの人間の問題である。ニーチェはひとりひとりの人間の価値を、その人がもつ道徳心の高さから測定(評価)することをしなかった。そうでなくて、その人が自分の人生にもつ「アモール・ファーティ(運命愛)」の能力で評価した。「こんなに苦しくても、それでもなお、自分は今のこの人生を生きる!」と言い切ることができる者、自分の人生を前に踏み進むことができる者のみが、永劫回帰 にも耐えることができる」
この文章だけでも、副島隆彦氏の『ニーチェに学ぶ「奴隷をやめて反逆せよ」まず知識・思想から」(成甲書房2017)は、読むべき価値ある一冊であるよ。
楽なはずないでしょーー
この世界は闘争なんだから。
馬鹿や気の弱いのは捨て置かれるんだから。
ほんとうは、そうなんだから。
残酷で獰猛で無茶苦茶なの。
奴隷でいたくないなら闘うのみ。
楽に優しくしてもらいたいなら、奴隷でいろ。クリスチャンでいろ。
もっと、酷い目にあうぞ。
魂まで奪われるぞ。
副島隆彦氏がご著書の中でも大推薦しておられる適菜収(てきな・おさむ: 1975-)氏のニーチェ本は私は全部読んでいるが、こちらから読んでもいいと思います!
私は、2015年にニーチェがアイン・ランドに及ぼした影響について論文を書いた。
クリックしてtoshi08_07fujimori.pdfにアクセス
お気が向いたら、ついでに、こちらも読んでみてください。