本日は、2017年9月12日火曜日である。
ヨルダン・イスラエル旅行の(2) を書くつもりが、変なこと書きます。
カルヴィニストというのは、Calvinistであり、カルヴィニズムCalvinismを信じる人間のことだ。
カルヴィニズムというのは、キリスト教の考え方の1つで、「人間の運命も救済も全知全能の神が決めている」という考え方だ。
16世紀のスイス人神学者のジョン・カルヴァンが提唱した考え方だ。
別に奇異でも何でもない発想だ。
もし、全知全能の神がいて、人間が神の僕(しもべ)ならば、人間の人生の全ては神に決定され予定されているのは当然だ。
キリスト教では、新約聖書に書かれているように、死んでも、いつか選ばれた人間だけは救済され復活し、永遠の神の国で生きるということになっている。
この「救済」も神が選び決定するのも当然だ。
人間に自由意志なんてないのだからさ。何をしても、あらかじめ神が決めているなら、そうでしょう。
自由に選んでいるつもりで、見えない力(神)に導かれているわけでさ。
だから、カルヴィニズムは決定論とも予定説とも呼ばれる。
本気で本気で神を信じるならば、こーいう発想になる。
旧約聖書的発想であるという意味において、キリスト教の先祖返りみたいな発想だ。
本気で神を信じていた中世ヨーロッパ世界は、とりあえず停滞の時代だった。
そりゃそーよ。全ては神が決めてるから今の環境があるのならば、その環境を受け入れてただただ運命に従順に生きていくのが人間なんだからさ。
改善も改革も革命も維新もない。環境への不満は、それは神への反逆になるんよ。
だから誰も環境を変えない。
アホか、神がいるのかわからんでしょーーいるかいないかわからん神のことは置いといて、改善できることは改善しましょ、というのが、ぶっちゃけて言えば近代精神だ。
人間には理性があるんだから、理性の行使によっていい社会を構築しましょというのが、西洋近代啓蒙思想の肝だ。
この近代精神の本質は、啓蒙思想の本質は、ほんとは無神論だ。もしくは不可知論だ。
いるかいないか証明できない存在のことは、とりあえず論議するのはやめましょうという立場だ。
ともかく、この社会に起きることは、すべて人間に責任があるんだから、人間が何とかしましょ、何とかできるように頑張りましょう〜〜というのが、18世紀以来の近代主義者だ。
私は、アイン・ランドを愛するぐらいなので、ずっと近代主義者であった。
しかし、10年くらい前から、私の中で、じょじょに「西洋近代啓蒙思想なるものへの疑惑」が生まれてきた。
常に常に改良改善って面倒くさいよね〜〜〜別にこのまんまでもいいんじゃないの〜〜
どう変えても大差ないことも多いし……変革とか改革って、ただの空騒ぎに終わることが多いし……
小賢しくいろいろいじくっても、前の方がマシだったってことになるんじゃないか……
と思うことが多くなってきた。
そう思うようになったのは、自分の人生を振り返ってみると、自分で選んで構築してきたとは思えないからだ。
自分が全く「近代」やっていなかったと、気がついてしまったからだ。
よく考えたわけではなく、行き当たりばったりでしてきたことが、何となく上手くいっただけのことだと気がついてしまったからだ。
自分が食べてこれたのは、能力があったからでもなく、努力したからでもなく、単なる幸運だったからだと気がついてしまったからだ。
運だけ良かったと、気がついてしまったからだ。
運って何?
人間の努力や思惑や資質とは関係なく、運が良ければ結果として上手くいく。
運というのは、理不尽でデタラメで気紛れで不条理だ。
つまり運は人間の外部にある。
人間が決定できない。
運とは、神みたいなものだ。
たまたま私は 運という神に似た何かに救済されただけだ。
感謝感謝だ。
しかし……なんで、私は運が良いのか?
それに値するとは思えない馬鹿なのに。
そう思うようになって、私はどんどん近代主義者ではなくなりつつあるところだった。
その私の傾向が、とうとう、今回のヨルダン・イスラエル旅行によって、強化されてしまった。
前々から私の中に生まれていた「西洋近代啓蒙思想なるものへの疑惑」が決定的になってしまった。
ヨルダンの砂漠を見つめながら、私は思った。
世界ってすごい。
こんな広大な砂漠がある。
人間が一生かかっても、この砂漠のことは把握できないんだろう。
毎日毎日この砂漠を眺めているだけで人生が過ぎていっても、いい。
それはそれでいい。
この砂漠に生きる人々が、アメリカ人みたいに生きる方が幸福とは言えない。
顔だけ出してあとは衣装で包んで素肌をさらさないイスラム教徒の女性が抑圧されているとも言えない。
こーいう衣装の方が面倒くさくなくていい。シンプルでいい。
同じ伝統や習慣や慣習がずっと続くのが悪いわけじゃない。
イスラム教のことは知らないので、イスラム教徒の発想がカルヴィニズムのように予定論であるか決定論であるかは、私にはわからない。
でも、ともかく自分たちが生きる砂漠を支配する絶対的な神がおられるのだから、その神の掟を守って生きていけばいいんだ、神に全てを委ねて、グジャグジャ余分なこと考えることは無意味だ、と思っている姿勢は、カルヴィニズムに近い。
そのシンプルさ、大いなるものへの疑いのない従順さ。
ヨーロッパからは消えたカルヴィニズム的心性が、現代の21世紀の中東には残っているのではないか。
これを後進性とか野蛮とか遅れているとか言えないのではないか。
人間って、結局は、わけのわからない大いなるものに左右され、でもそれを受け容れて、ただただ生きていくだけでいいんじゃないのか。
欧米世界になんか関わらない方が、このアラブの人たちは幸福だったんじゃないのか。
ジープで砂漠を走らなくたって、駱駝でいいじゃないか。
驢馬に揺られてでいいじゃないか。
・・・・・・・・・
まさか!
私が反近代主義者になるなんて!
今の私は、いわば「21世紀のカルヴィニスト」だ。
最近も、自分のこういう傾向を意識させられる事が起きた。
それは、私が読んでる某神道系霊能者のBlogに書かれていることに関することだった。
そのBlogには、どうにも奇妙なことが書かれていた。
人名ははっきり書かれていないのだけれども、今の首相の安倍さんか小池百合子さんか小泉進次郎さんが、総理大臣であれば、日本の未来は大丈夫で国体も守られるみたいなことが書かれてあった。
はあああ?
普通ならば、この霊能者ってダメだね〜〜〜アメリカのネオコンの回し者かね〜〜〜で終わりだけれども、私は以下のように考えたのだ。
これは、どういう意味かな?
この3人が政治家として優れているという意味だろうか?
それは考えられない。
それとも、他の人間よりはマシという意味だろうか?
それはありえる。
それとも、この3人は運が強いから、その運の強さで、この3人のすることは結果的に日本にプラスになるってことだろうか?
それなら、もっとありえる。
安倍さんは私が出た大学の偏差値より低い偏差値の大学をパッとしない成績で出て総理大臣になったもんな。
運はすこぶる強いだろう。
小池さんも運は強そうだ。
進ちゃんは、偏差値すっごく低い大学出て、親のコネでアメリカの名門大学の大学院に入り、アメリカで有数のシンクタンクの研究員になった。
強運である。
トップに立つ人間は、運だけは強くないと困る。
アホでも無知でも幼稚でも嘘つきでも卑怯でも売国奴でも運は強くないと困る。
戦後日本の繁栄を思うと、昭和天皇は類稀なる強運の方であったと思う。
普通ならば、あの方は戦犯として処刑されても不思議ではなかった。
運が強いというのは、その人間の言動が、たまたま良い状況を招いたという結果論的なものだ。
すっごく優秀で善意でも結果が悪いなら運が良いとは言えない。あくまでも結果だ。
大英帝国の礎を築いたと言われるエリザベス1世は運だけは強かった。
本人は英邁でも何でもなかった。
臆病で優柔不断で何も決断判断できなかった。
ただ状況が彼女に都合よく変化しただけだ。結果として。
つまり、そういう意味で、あの霊能者は安倍さんや小池さんや進ちゃんを肯定してるのかなあ?
本人たちの政治家としての資質はどうでもよくて、運だけはいいから、ということなのかなあ?
そうなると、選挙なんて無意味だな。
本物の霊能者に運の強い人間を選ばせりゃいいわけでさ。
と、ここまで考えて、私はギョッとした。
自分が西洋近代啓蒙思想の根幹たる個人の理性の発露による議会制民主主義を否定するようなことを思ったことに。
しかし、「21世紀のカルヴィニスト」になった自分のありように、変な解放感を感じている私なんである。
あ、写真の月は、ヨルダンの夜の空にあった月です。