[252] ヒラメ受難時代

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本日は2018年2月1日木曜日である。

インフルエンザだか風邪だか寒冷アレルギーだか、わけわからない体調不良が続く。

まあ、でもいいのだよ。

無職のプー子は気楽だ。

ところで、今日は、「ヒラメ」は今と未来の日本では辛いだろうね、という話を書く。

作家の筒井康隆氏が、かつて「年を取っても自分よりかなり年下の人間とつきあいがあるなら、運がいいと言える」みたいなことを、何かのエッセイで書いておられた。

自分より若い人々とつきあえるのは運がいい?

それを最初に読んだときは、私は以下のように思った。

年を取って若い人と関われるということは、新しい情報が得られるから、運がいいのかなあ?

そうなのかな?

私は長年、自分よりかなり若い学生さんを相手にする職業であった。

だからといって特に新しい情報がいっぱい得られた訳ではない。

でもまあ、ちょっとは得られたから、そーいうことがあるから、運がいいのかなあ?

そういう理由ではなく、ズバリ、金や権力があれば、若い人間も寄ってくるであろうから、そういう意味で、若い人々と交際があるのは運がいいというだけの身も蓋もないことであるのかなあ?

筒井康隆氏がどういう趣旨で、そのようなことを書いたのかわからない。

ただ、今の私は、それは「ヒラメへの戒め」かもしれないなあ、と思っている。

ヒラメというのは、「上にはいい人間」の比喩だ。

魚のヒラメは、頭部の側面に目がついていない。

ヒラぺったい頭部の上に目がついていて、上しか見えないみたいな形状だ。

だから、その連想から「年上や目上への対処ばかり考えて、目下や年下には無神経な振る舞いをする人間」の意味で「ヒラメ」は使われてきた。

そういう「ヒラメ的人間」は、私の世代や、私より年齢が上の世代には多かった。

それは合理(利)な生き方でもあった。

学校では、「先生のお気に入り」teacher’s pet やるほうが得だ。

職場では、「上司に媚びへつらう」ass kisser or brown noser やるほうが得だ。

学校でも職場でも「ヒラメ」は多かった。

利益がある行動が選ばれるのは当然だ。

ヒラメ人間は、若い頃は熱心に目上にへつらい従い、年齢を重ねたときは、今度は自分が媚びへつらわれる立場になる……

はずであった。

今度は、自分が若い人間に好き放題のことを指示し、好き放題に振り回せるはずだった。

ところが、社会が変わってしまった。

相手が学生であろうが、部下であろうが、無用心に適当なことを口走っていると、パワハラやセクハラと非難されるようになった。

21世紀になって、その傾向は顕著になった。

20世紀の大学教授は、女子の大学院生にお茶の支度をさせながら、男子の院生たちと先にセミナーを開始して平気であった。

ネチネチと気に入らない学生を虐めるのも平気であった。

今の時代にこんなことしたらセクハラとかパワハラとして学内の人権委員会に訴えられる。

大学院生にとっては、大学院の指導教授に媚びへつらっても、今では大学の専任職など得られないのだから、もう我慢する必要などないのだ。

職場でも、同じことだ。

今のように終身雇用制が崩れて、職場に非正規雇用や任期制雇用が増えると、上司の言うことに素直に従っていれば、安泰というわけではない。

どのようになるかわかったものではないのだから、理不尽な業務命令に従うメリットがない。

こーいう時代になると、「ヒラメ」は辛い。

自分はヒラメで生きてきたのに、自分にヒラメ活動をしてくれる人間がいなくなってしまったのだから。

かつては姑に絶対服従だったのに、自分が姑になったら嫁に気を遣わねばならなくなったという大正生まれや昭和初期の生まれの女性と同じ状況だ。

最近は、「切れる高齢者」の問題が大きいそうだ。

これは、時代の過渡期の現象のひとつだろう。

自分は子どもの頃からヒラメやってきたのに、歳をとった自分に誰もヒラメしてくれない!!

自分は努力して年長者をお守りしてきたのに、今の自分を誰もお守りしてくれない!!

これでは、自分は損ばかりではないか!!

という被害者意識から、哀しくも切れる高齢者が多いのではないか。

前提として、若い人間は自分に気を遣うべきだ、自分は尊重されるべきだ、自分はお守りされるべきだと思っているのだから、ごくあたりまえに普通に対処されると大いに傷つくのだろう。

その点、ヒラメで生きてこなかった人間は強い。

年上であろうが年下であろうが、目上であろうが目下であろうが、どちらも大差なく同じ他人である。

どちらも自分の価値判断から関わるかどうか判断して選んで交際する他人である。

他人が私をお守りする義務はない。

誰にお守りされずとも平気であり、それがあたりまえの常態であり、自分の面倒は自分で見るものである。

そう思い定めてきた人間は、今のような時代になっても平気だ。

これからの時代は、個人の尊厳がわからない人間や、序列優劣で人間関係の結び方を変える人間=相手によって態度を変える人間や、他人に自分へのお守りを期待する人間=精神的に自立していない人間にとっては、一層に生きづらくなる。

今は、皇室のプリンセスでさえ、結婚相手は自分で調達してこなければならない時代だ。

宮内庁の国家公務員がプリンセスにふさわしい相手を調べ上げて見繕って準備してくれるわけではない。

だって、しょせん他人のことだもの。

プリンセスであろうと、自分で必死に考えて観察して調べて覚悟して決めなきゃ。

プリンセスだからといって、頭が悪くてすんだ時代は終わったのだ。

「まあ、世渡りの便宜上、ヒラメのふりはしても、本気でヒラメをやっていると、まずいですよ〜〜年を取ると非常に生き難くなりますよ〜〜年を取れば、年下の人間の方がどんどん増えてくるんだから、ヒラメでは世の中は渡れませんよ〜〜ヒラメやってくれる年下の人間に依存するような幼稚な人間では楽しくないですよ〜〜それでは幸せとは言えないでしょう?」

と、言うつもりであったのかもしれない、筒井康隆氏は。

つまり、「年を取って、自分よりかなり若い人とつきあいがあるのは運がいい」というのは、「他人に負荷をかけるような人間になっていないということだけでも運がいい」という意味なのかもしれない。

自分より若い人とつきあえるということは、若い人から見て関わっても不快じゃない人間であるということだ。

加えて、若い人たちに知識なり情報なりカネなり、何がしか与えるものを有していて、かつ自立したキャラの持ち主ということになるだろう。

まあ、それなら、確かに「運のいい人」であろうね。

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