本日は2018年2月20日火曜日である。
無職になって、そろそろ11ヶ月経過だ。
いくらなんでも心身の疲労も取れてくる頃だ。
そろそろ再起動しなくては。
Reboot! Reboot!
「明日死ぬと思って生きよ、永遠に生きるつもりで学べ」
マハトマ・ガンジーさんのお言葉だそーです。
今日は、唐突に太宰治の短編小説の「駈込み訴え」を題材に、「生活を支えるカネを稼ぐ人間」の偉さと孤独について書く。
あ、この短編はKindle でただで読めます。
版権切れてるんで。
私的には、この短編小説は太宰治の傑作だと思っている。
ユダというのは、ご存知、イエス・キリストの12人の弟子のひとりで、イエスを警吏にチクって裏切って、イエスが磔になった直接の原因になった人物だ。
旧約聖書と新約聖書で構成されているThe Bibleの新約聖書つーのは、イエスの弟子とか弟子の弟子による、各自のイエスの人生目撃談とか教え解釈談とかが集まったものだ。
日本人からすると、聖書ってなんかなあ〜〜敷居が高いなあ……と思うけれども、
旧約聖書はユダヤ民族の神話と伝説と歴史のコレクションで、新約聖書は「大本教お筆書き」みたいなもんだと思えばいい。
思っていいのか?
いいんだよん。
新約聖書は、「在りし日のイエス先生」とか、「私の中のイエス・キリストの生涯」とか、「僕がまた聞きしたイエスという人」とか「ヨハネの妄想」とか、そんな文章の寄せ集めであるので、気楽にペラペラ斜め読みすればいいのだ。
記述が一貫していなくて、それぞれが福音書とか言っちゃって、テキトーに書いてるんで、そのテキトーに書いてあるものが、そのまんま集められているんで、逆説的に、これ本当に起きたことなんだろうなあと思わされる。
マタイさんからは、イエスはこう見えました〜〜
マルコさんからは、イエスはこう見えました〜〜
ルカさんは、イエスについてこう聞きました〜〜
イエスさん死後の布教活動はこんなんに困難でした〜〜
ヨハネさんは、イエスさんの支配する歴史がこうなると思っています〜〜
というノリの本が新約聖書である。
と言ったらクリスチャンからぶっ飛ばされるか。
でも、私はちゃんと身銭切ってイスラエルに行って、ベツレヘムもゲッセマネもシオンの丘も「嘆きの道」も、キリストが磔にされたゴルゴダの丘跡地に立つ聖墳墓教会にも行ったんだぞ。
500円玉貯金が100万円になったら、今度は旧エルサレムやヨルダン川西岸地区だけではなく、新約聖書に描かれた場所のあちこちに行ってみるつもりなんだぞ。
旧エルサレムに行ったことないような神父や牧師より、ある意味もっと真面目だぞ。
ともかく、新約聖書は、捏造ならば、もうちょっとうまく物語を作っておくでしょう〜〜という感じ。
イエス・キリストという人物がいて、その人物に12人の男たちが纏わりついていたのは史実なんだろうなあ、と思わされる。
で、ユダがイエス・キリストを裏切った経緯も、それぞれの弟子や弟子の弟子が記述している。
でも、なんか、よくわからんのよ。
ユダがなんで裏切ったのか、よくわからない。
そこを太宰治さんが太宰さん流に補足説明したわけです。
ユダは商人の家で育ったので、経理に明るく、世間知らずじゃない。
年齢は34歳でイエスと同い年で若くて元気であった。
で、イエスと12人の弟子の伝道旅行に必要な宿泊や食事の手当を担当した。
清貧な宗教伝道の旅であっても、カネは必要だ。
ユダはテキトーに商行為をしたり、寄進を募ったりして、現金を得て、一行の食費や宿泊費を賄った。
他の弟子には、そういう才覚がない。現実的には役立たず。
教祖さんのイエスさんは大工だったんだから、当時のハイテク技術者なんだから、なんか作って売ればいいけれども意味不明なこと口走っているだけだ。
一行の暮らしを支えるユダにねぎらいの言葉ひとつかけない。
自分は心尽くして、身を粉にして、師のイエスに不自由がないように努めているのに。
貴重な高価な香油をイエスの頭に無駄にぶっかけた若い美しい女性(マグダラのマリア)の愚かな行為は褒めるくせに。
なんだ、あの女には香油で足を洗わせているぞ。
なんだ、師イエスも美しい女にはデレデレの普通の男かよ。
挙げ句の果てには、会食の席(最後の晩餐)で、「お前は私を裏切り官憲に売るであろう」とユダは、イエスから名指しされた。
なんだ、いったいこいつは?
誰のおかげで食っていられるんだ?
神の子って言ってるくせに、メシも食うし水も飲む。
もう知らない!
どれだけ尽くしても、どれだけ愛しても、イエスは僕に冷たい。
僕の貢献を認めない。
お前なんか、無能で非力な口舌の徒じゃないか。
結局は、この世の中を良くすることなどできない。
イエスは人心撹乱&扇動を目論んでいるとして、官憲から睨まれているが、実際は何もできはしない。
こんな詐欺師は官憲に突き出すべきだ。
で、イエスの顔を知らない官憲に、「私がキスする男こそイエスだす」と言って、ユダはイエスにキスする。
で、イエスは捕縛される。
弟子たちは、怖くて、ついつい「私はその男のことなど知らない」と言って逃げる。
で、イエスは重い十字架を背負わされてゴルゴダの丘で磔刑される。
事が終わって、ユダは悔いて悔いて、首吊り自殺する。
という説もあるし、報奨金で土地を買ったけどその土地に墜落して、内臓が全部出ちゃう死に方をしたという説もある。
太宰治の「駈込み訴え」は、官憲に訴えるユダまでしか描かれていない。
太宰治は、ユダの寂しさ、憤懣、イエスを慕うがゆえの嫉妬を、うまく描いている。
さすが、売れっ子作家になっても死ぬまで、実家の長兄から仕送りをしてもらっていた津軽の大地主のボンボンだけのことはある。
これ事実。
太宰治の実家の津島家の研究をなさっている方から実際に聞いたのだよ、私は。
太宰治は、ずっと実家から経済的支援をされていたニートであった。
文学活動であれ、布教活動であれ、啓蒙活動であれ、どんなに志の高い行為でも、カネの裏打ちがなければ維持も保持もできないということを、太宰治は知っていた。
自分が妻子抱えて悠長な文筆活動やっていられるのは、実家の津島家の援助があるからこそだということを、太宰治は認識していた。
だからこそ、財務担当のユダに同情できたのだ。
実はユダほどイエスのことを「実質上」大事にした弟子はいなかった。
命の次に大事なカネの工面をイエスと弟子たちのために引き受けたユダは偉かった。
イエスも他の弟子たちも無神経といえば無神経で傲慢だ。
神の教えより、今日のご飯だ、今日の寝る場所だ。
つまんない美女より、自分の生活の下部構造を支える人、経済を支える人の方が大事だろ。
そーいうことを忘れて蔑ろにすると、磔にされるよん。
私は2017年の晩夏に訪れたイスラエルは旧エルサレムを思い出す。
イエス・キリストが十字架を背負って引きずられていったとされる道が残っていて、観光客はその道を辿りながら、「この地点がイエスが母マリアと再会したところです!母と息子は、群衆に遮られつつも、互いの目と目を見交わしたのです!」とガイドさんの説明を聴く。
道のここかしこに旅行者の若者たちが、スマートフォンで聖書のページを開きながら、道路に座り込んで祈りを捧げている。
自分の不如意な人生とイエスの受難を重ねているのだろうか。
旧エルサレムは、キリスト教テーマパークのような趣であるが、世界中からクリスチャンを集める聖地だ。
ほんとに敬虔な祈りを捧げる人々ばかりであった。
その祈りの中身はいろいろであったろう。
しかし、財務&兵站担当だったユダに同情的な私は、ニーチェ愛読者の私は、その人々を眺めつつ思った。
キリスト教は、ものすごい現実逃避と自己欺瞞の巨大な歴史的政治的精神的装置であるなあ……と。
しかし、この現実逃避と自己欺瞞はたまらなく甘美なのだろうなあ……と。
人はパンのみに生きるにあらず。
そんなことわかってる!
だけど、パンは大事なんよ。
私は、財務&兵站担当だったユダに薔薇を捧げます。
ユダさん、さっさと実家に帰って商人やっていれば良かったのに。