本日は、2018年4月27日金曜日の早朝だ。
相変わらず体調は良くないし脚も痛い。
後頭部隆起硬直もあって、これは腸骨支持点の硬直から起きていて、放置すれば脳卒中とか脳溢血で死ぬ。
やりたいことがいっぱいなんで、とりあえず背中で両手を組む運動をして、脳の血管が切れるのを遅らせる。
でも、今日はちょっと機嫌がいいのです。
外務大臣の河野太郎氏が、アメリカ留学時代に読んだAyn Rand(1905-1982)のThe Fountainhead(1943) を、愛読した小説として紹介しておられた。デジタル毎日新聞のインタビューで答えていらした。
と、Facebook友だちの元同僚が、昨日教えてくれたのである。
https://mainichi.jp/articles/20180416/mog/00m/010/006000c
うわお〜〜ありがとうございます。
うわお〜〜アイン・ランドの『水源』を読んだ政治家が日本にもいたあああ〜〜♬♬
日本の国会議員って、与党も野党も、読書の習慣なんてないんじゃないかと思ってたけれども。
嬉しいな嬉しいな!
結局、私を喜ばせるのは、アイン・ランドなんよね。
福澤諭吉さんも、もしThe Fountainheadを読んでいたら、絶対に好きになったに違いない。
『水源』は、自由と独立自尊を愛する人々の物語だもの。
なんで、唐突に福澤諭吉さんか。
私が最近、石井利明氏の『福澤諭吉フリーメイソン論……大英帝国から日本を守った独立自尊の思想』を2回読んだからだ。
で、amazonに以下のようなブック・レヴューを書いた。
(ブックレヴュー転載 始め)
世界の中の日本という視点から生きた福澤諭吉の生涯の軌跡を描出!
本書は、知っているようで知らない福澤諭吉の真実の姿に肉薄している。
慶應義塾大学創立者であり、日本の実業界にも大きく足跡を残した明治の社会啓蒙家としての福澤諭吉だが、ほんとうは何をしたかったのか、何をしたのか、よくわからない。
1万円札の肖像の人なのだから偉い人なのだろうけれど、どう偉いのか、よくわからない。
その福澤諭吉の偉大さを、幕末明治の日本史と世界史を背景に解き明かしたのが、本書である。
能力ではなく身分や家柄で役職が決定されることが多い幕藩体制を憎んでいた諭吉。
父から密かに伝えられていた科学や蘭学への志向を隠して尊王攘夷の風潮に距離を置いていた諭吉。
田舎侍の発想を超えて世界に開かれる和親開国こそ日本の生きる道と信じた諭吉。
そのような新しい日本に寄与するために英語を学んだ諭吉。
長崎を中心に形成されていた西洋の学問を学ぶ人々のネットワークに入った諭吉。
ヨーロッパのフリーメイソン人脈と結ぶ日本人ネットワークに入った諭吉。
ロシアからスパイにならないかとリクルートされた諭吉。
海外渡航の機会を掴み、西洋事情を学びそれを書いて売って巨万の富を築いた諭吉。
その金でアメリカで洋書を3000両も買い込み英学校を設立した諭吉。
アメリカのユニテリアン(思想的にはフリーメイソンと重なる)ネットワークそのものであるハーヴァード大学に近づき、人材を日本に招聘した諭吉。
英国の苛烈な植民地支配をヨーロッパへの船旅から見聞し、日本をインドのようにしないためには、アメリカのフリーメイソンから学ぶべきだと考えた諭吉。
アメリカ独立革命の立役者ベンジャミン・フランクリンのように生きようと志した諭吉。
真の国防のためには、まず経済力だと考え、民間の企業経営者たちが切磋琢磨し情報交換する結社が必要と考えて交詢社を設立した諭吉。
しかし、日本は自由と平等と市民社会の成熟へと向かわなかった。
日本はドイツ的後進性に傾いた。
模範としようとしたアメリカも帝国主義の様相を濃くして行った。
21世紀の日本も世界も、福澤諭吉が求めた社会や人間のありようを、まだまだ実現していない。
本書は、福澤諭吉という非凡な人間の「同時代を飛び抜けていた志」の実現過程とその苦い挫折を簡潔に提示している。
フリーメイソン陰謀論とか、薩長の青年武士たちの情熱と志で成就した純粋日本人製明治維新とか、そーいう幼稚な世迷言のデタラメ歴史をまだ信じている方々へ!
是非とも、本書『福澤諭吉フリーメイソン論』をお読みください!
世界の中で日本の歴史も動いていたのだよ。力作です!
(ブックレヴュー転載おわり)
要するに、石井利明氏の福澤諭吉論によると、諭吉さんは、フリーメイソンリーの自由と平等と友愛の思想を日本に根付かせることによって、日本をして、西欧の実質的植民地に甘んじない独立国家になさしめ、かつ日本人のコスモを上げようとしたということだ。
諭吉さん自身は、そんなことを書き残してもいないし、フリーメイソンだの、ユニテリアン(キリスト教の中の理神論派)だのと自分の思想の起源について書き残しているわけでもない。
理神論つーのは、「神の活動は宇宙の創造に限られ、それ以降の宇宙は自分で生成発展する」という考え方だ。
ぶっちゃけて言えば、この世のことは人間に責任があるよん。人間の理性が決めるのよん、という考え方だ。
もっとぶっちゃけていえば、神は人間にこの世のことは放り投げたんだよ、だから奇跡は起きません、予言も与えられません、私らでやって行くしかないのだよ、という思想だ。
これがユニテリアン。
どうよ、神様拝んでなんもしない人間を生産してきた伝統的キリスト教よりマシではないか。
石井利明氏は、諭吉さんの生涯に起きた事実と、「公的自伝」の記述から、書かれていないことを推測し、その推測を補強する事実を集めて、諭吉さんはフリーメイソンとユニテリアンの思想を生きたのだと述べる。あの19世紀の日本において。
で、諭吉さんはフリーメイソンだったんだけど、その理想は日本で花開かせることはできなかったんだ、と結論づける。
そりゃね、ヨーロッパ発のフリーメイソンの思想はヨーロッパでさえ、花開いてないんだからね。
奇妙な方向に花開いちゃって、ヨーロッパは移民との軋轢で荒廃しつつある。
平たく言えば、人間の歴史は、諭吉さん的に自由と独立自尊を求める生の哲学と、人類を奴隷化し支配する死の哲学の闘争だ。
自由主義/フリーメイソン/ リバータリアン/ ニーチェ対と、イエズス会/ 共産主義/全体主義/集団主義/統一教会/ネオコンの闘争だ。
ほんと、この闘争に尽きる。
自由か支配か。
「いいじゃん、私ひとりでも何とかなるし、できるさ。他人がどうのこうのじゃない。私がどうするかだ!」と思う人間もいれば、
「なんで、私の思うように動かないんだ、こいつら。馬鹿ばっかだな。どうやったら、私にとって都合よく動かせるかな、こいつら」と思う人間もいる。
一見、後者の方が強そうに見えるけれども、支配したい他人の存在を前提としていることにおいて、後者の方が他人に依存性が強い。
他人を道具にしか思ってないということは、道具となる他人を必要としているという意味において、弱い。
まあ、そうは考えさせないように、この世の中には、一見絶対的に正しいけれども、だから何だよ?と思わせる言説で満ち溢れておりますが。
人間はひとりで生きてるんじゃないよ、とか。
皆様のおかげで生きてます、とか。
正しいよ、それは。
が、そうした言説が、いつからか、人間はひとりで生きているのではないから、自分が生きたいように生きてはダメという抑圧に変わった。
皆様のおかげで生きているのだから、皆様のご意見が大事なのだから、あんたの意見はどうでもいいの、という全体主義に変わった。
しかし、人間存在は、何をどう言っても、個人でしかない。
誰の人生も代替できない個別のものだ。
その個別の人生が充実しなければ、人類全体とか、社会全体の繁栄とか幸福はありえない。
つまり、個人が自分の人生を選択し、選択できるし、そういう充実した個人として他者とつながって行く社会でないと息苦しい。
だから、自由と平等と友愛なんだ。
フリーメイソンリーは、神の代理人と言い張るバチカン支配に対立するので、バチカンから大いに憎まれ弾圧された。
教会なんて、自分たちに依存し崇め奉る奴隷に依存してたんだからね。
奴隷の奴隷だわ。
支配者って、被支配者の奴隷だもん。
ヘーゲルさんが言ってますが。
だから、ニーチェさんはキリスト教は邪教だと示したんよ。
そういうキリスト教の言うような神は死んだ、いないんだよ、と言ったんよ。
でもって、その自由か支配かの戦いは、21世紀も続く。
私たちの人生においても続く。
ということで、みなさま、19世紀の日本で、自由と平等と友愛を生きようとした福澤諭吉さんを描いた石井利明氏の『福澤諭吉フリーメイソン論』をお読みください!
違う日本近代史が見えてきますよ!
ただし。
誤字校正ミス脱字が気になる人は、そーいうことが気になって仕方ない方は、読まない方がいいかも。
出版不況で、プロの校正者を頼む予算もなかったのかも。
せっかく内容がいいのに、私みたいに杜撰な大雑把な人間でさえ気づくほどに校正ミスが多いのだけが玉に傷。
でも、こんなもんかなあ。
途中から、「あ、まただ!」と、校正ミスを発見するのが楽しみになったほどだ。
いっぱいの校正ミスなど吹き飛ばすんだよ、この福澤諭吉論は。
ということで、校正ミスを探す楽しみもありますよん、石井利明氏の『福澤諭吉 フリーメイソン論』には。