本日は2018年11月5日月曜日だ。
もう11月に入ってしまった。
今日は、夫の病室に出勤せずに、睡眠薬がわりに風邪薬を飲み、午後3時近くまで眠っていた。
ちゃんと一昨日の11月3日土曜日には病室出勤を休んだのに、本日5日の朝は、身体のあちこちが痛くてベッドから起き上がることができなかった。
夫が緊急入院してから、3週間が経過して、私の疲労も溜まっているらしい。
11月7日水曜日には9日の大腸ガンS状結腸の腫瘍を腹腔鏡で除去する手術に備えて病室を移動する。
消化器外科の病室に移動する。
明日火曜日は海外旅行用の中サイズスーツケースを病室に運ぶ。
翌日水曜日の病室移動のために、この3週間以上の入院生活のために病室に持ち込んだものをスーツケースにパッキングする。
ポータブルプレイヤーとか湯沸かしティファールとかパソコンにiPadに、タオル、下着、靴下、書籍、着替え、靴、シャンプー、洗面道具に紙オムツと、いろいろあるよ。
ミネラルウォーターもあるな。
しかし、本日のブログ記事のポイントは、病院のことじゃない。
人間は病気のみにて生きるにあらず。
私も、ガンのことばかり調べるのにも飽きて来た。
入院しちゃった以上は、入院した病院の人材やシステムに任せるしかない。
幸い、夫の入院した病院の大腸ガン手術数は、結腸ガンに限れば名古屋で1番多い。
ちゃんと『週刊朝日』のネット記事に載ってたぞ。
病院のウェブサイトでも確認したぞ。
年に10回ぐらいしか手術しない(外科医とは呼べない類の)外科医に手術される災難は回避できる。
いや、そーいう外科医もいるらしいよ。
とはいえ、夫の手術前に、ちゃんと麻酔医は手術室に手術が終了するまでいるのか、麻酔医がいくつもの手術の掛け持ちではないのか、術後に患者に出る症状や現象はどういうものであるかとかは確認はする。
Facebook友だちの心理学者&オペレイション・ナース(通称オペ看)によると、麻酔医が足りなくて、麻酔医の待機なしで手術をする例も多いそうである。
いや、ほんと。
冗談じゃないって。
外科医の見栄で、できもしない手術をする例も多いそうである。
ほんと。
僻地の病院の例じゃないよ。
みなさん、ちゃんと本気で調べて入院してくださいね。
油断しちゃダメだし、やれるだけのことはして、言うべきことは言うべし。
日進月歩の医学の世界にいるのに、勉強していない医師や看護師ばかりの病院もある。
相手は神様じゃないから、お任せしちゃダメ。
疑問符が頭の中にいくつもいくつもついたら、転院も考えるべし。
下の本は、桜の花出版の医学情報は、ほんとに編集者が調べて、医師たちから聞き出した情報からできているので、ある程度は信用できる。
と、現役のお医者さんから聞き出しました〜〜
つまり病院から宣伝費取って作ってる本じゃない。
紳士録とはわけが違う。
なんとか納得できる病院に入り、お任せすると思っても、ちゃんとしっかり観察すべし。
疑問はしっかり理性的に指摘して、誤魔化せない患者と家族だなと思ってもらうべし。
自分や家族の命が関与している時こそ、ガンガン「近代人」をやるべし。
近代人って何?
近代人とは、「人間社会は人間が変えることができると信じて実行する人間」のことだ。
自分の言動で状況を変えることができると信じてそうする人間のことだ。
状況を良くすることはできるし、その責任は人間にあるし、自分にあると考える人間のことだ。
状況を変えるのは自分以外の何か大きな力だと思い込んで座して待つだけのような無意味なことはしない人間だ。
当たり前?
それが当たり前じゃないんだな。
近代人なんて、2018年の日本でさえ、あんまりお目にかかれない。
だいたい日本自体が近代じゃない。
日本の光景が近代じゃない。
構築性ほとんどない。
でたらめにできた腫瘍だらけみたいに汚いのが日本の街並みだ。
日本の街の景観の非構築性の醸し出す汚さの話は別として、私の大学教員生活で、最もむかつき、精神衛生上悪かったことは、前近代人の同僚たちとの折衝だった。
たとえば、最後の勤務先であった地方の公立大学でのこと。
「前例がないから無理」
「制度的に不可能」
「それはそういうものだから変えることはできない」
最後の勤務先の教授会において、こう言い張って何も変えようとしなかった強烈に頑固頑迷な管理職がいた。
人柄が悪い人物ではなかった。
ただ、近代人ではなかった。
できたばかりの大学に前例なんてあるか。
前例は作るものだ。
制度的に無理?
制度を作ったのは人間だ。実行して問題があれば、ガンガン変えればいい。改変すればいい。
人間社会のルールで、変えることができないルールなど、何もない。
それが近代人の思考の前提だ。
この同僚は経済思想とか西洋近代思想を専門としていた。
なのに、この人物にとっては、制度は変えることができない天与所与のものだった。
制度やシステムは、人間が生きやすく社会が円滑に営まれるために構築するものである。
と考えるのが、西洋近代啓蒙思想である。
しかし、その同僚というかアホ上司は、西洋近代思想の研究者なのに、西洋近代の根本が身についていなかった。
ただの精神的田舎者だった。
こういう例は大学において少なくない。
自分のことを分析できない科学者。
想像力のない文学研究者。
目的合理的に動かない社会学者。
学んだことが、血肉になっていない研究者。
大学という機能集団において、学生の教育上意味がないことはドンドン捨てていい。
教職員が怠惰に暮らすために大学があるのではない。
ドンドン改良を重ねるのは、当たり前のことだ。
同じカリキュラムで6年間なんてありえない。
しかし、変えることに対する抵抗勢力は多い。
ただ変えたくない。
ただ現状維持でいたい。
何のために?
いやあ〜〜私の肝臓が悪くなった原因は、明らかにあの中世的ありようへの怒りの蓄積だったと思う。
今でも、私は怒っている。
怒りすぎて、私は、その西洋近代啓蒙思想の専門家にして中世封建時代の精神で生きている同僚の出身大学のゼミの担当教授だったというアダム・スミス研究の泰斗の頭まで疑うようになった。
その泰斗は、ホッブスの翻訳でも知られているし、近代啓蒙思想の極北たるマルクス主義の研究者でもあったらしい。
会ったことはないが、その泰斗の写真を新聞などで見ると、私は心の中で叫んでいる。
お前の弟子は近代人じゃないぞ!
すごい中世封建時代人だぞ!
馬鹿だぞ!
ものすっごく迷惑したぞ!
私の最後の勤務先の創立以来の6年間の不毛さは、お前の弟子のせいだったぞ!
あんたの弟子は、あんたのゼミ出身であることを名誉に思い自慢してたけれど、嗤わせるわ、ほんと。
一体あんたは何をゼミ生に教えたんだ?
あんたの学問なんか、ナンボのもんじゃ!
弟子のひとりですら、近代人にできなかったんだから、あんたの近代への理解も上っ面なんだろ。
八つ当たり〜〜♬♬
というわけで、ちゃんと自分の生活から、身の周りから、構築しましょう、近代人やりましょう、という話でした。
自分が選択した言動によって状況を切り拓きましょう、という話でした。
自分が動かないと、何も変わりません〜〜という話でした。