本日は2018年12月3日月曜日である。
昨晩は「M-1グランプリ 2018」がTVで生放送されていたらしいが、見落とした。
でもまあ、すぐにYouTubeで視聴できるし。
2018年のグランプリは、まだ20代の「霜降り明星」というコンビが受賞して、賞金1000万円を獲得した。
私としては、連続決勝進出なのに、ずっと準優勝だった「和牛」に受賞してもらいたかった。すっごく面白いからねえ!
でも、「霜降り明星」みたいな若くて、あっけらかんと陽気で軽やかでパワフルなのが出てくると、「和牛」の巧さが重く感じられちゃうんだよね。
重くなっちゃダメよ。たとえデブになっても軽くないと。
「霜降り明星」の丸い方が「せいや」で、背の高い方が「粗品」だ。
せいやは、1992年生まれ近畿大学卒。
粗品は、1993年生まれで同志社大学中退。
せいやが、賞金の使い道は?と訊かれて、「大学の時の奨学金を返済したい」と言っていた。
賞金半分の半分以上は奨学金返済に使われるんだな。
いや、ほんと借金は早く返した方がいいよ。
でも、不思議なことに、翌日のワイドショーの紹介では、賞金の使い道は「祖父母にクルーズ旅行をプレゼント」になっていた。
なんで?
「日本学生支援機構」から苦情でも来たのだろうか。
「うちの取り立てが厳しいみたいじゃないですか」って。
だって、事実でしょ。取り立て厳しいでしょ。厳しいというより非合法でしょーが。
取り立てを外注していて、外注された機関が、法的には返済半額でいい保証人に全額返済を請求してきたでしょーが。
https://www.asahi.com/articles/ASLBY56YWLBYUUPI003.html
どうせ、「日本学生支援機構」なんて、文部科学省の役人の天下り先のくせに。
それはさておき、漫才というのは、ほんといろいろ教えてくれる。
1970年代の横山やすし・西川きよし時代とは全く違うのは当然だ。
1980年代末からのダウンタウン時代とも違う。
漫才に要求されるものが、単なる「お笑い」ではなくなってきた。
というか、観客の求める笑いの質が違ってきた。
最近の漫才を見ていて私が昔の漫才とは違うなあと思った点を以下にメモしてみる。
(1)まず、シモネタはダメ。下品であるのが人間存在ではあるけれども、下半身系ネタはダメ。
(2) 相方をどついたり、ひっぱたいたりするのはダメ。昔、男女の漫才で、男性が女性を突き飛ばすのがあったが、これDVでセクハラで、今なら絶対に許されない。反対に女性が男性をどつくのもダメ。暴力はダメ。
(3) 相方を馬鹿にするような差別ネタもダメ。チビ、ハゲ、デブ、ブス、貧乏、出自をネタにするもの全部ダメ。むきだしの悪口雑言ダメ。
(4) あからさまな社会風刺はTV局が制限するけれども、全く社会風刺がないのも知的水準が低い感じでダメ。どこかに知的鋭さがなければいけない。だから社会政治情報に疎いのもダメ。
(5) ヴィジュアルな時代なので、観客からして「見にくい=醜い」のもダメ。美男美女じゃなくても、「感じが良い」容姿でないとダメ。お洒落でセンスが良くて、かつユニークでないとダメ。昔風「お笑い芸人」の泥臭い感じはダメ。
(6) TVは全部を映し出してしまうので、漫才をしていない時の表情、姿勢も映し出される。その表情や姿勢に暗さや重さや屈託が見えるのもダメ。負けたときに、いかにも悔しそうな苦い顔つきを晒してはいけない。これは演技ではできない。常に演技をすることはできない。自分のコスモを上げるしかない。
(7) ネタに啓蒙的な点もないといけない。なんとなれば、観客はお笑いに対して、新しい風や発見や認識も無自覚に求めている。楽しみつつハッと気づかされたい。押しつけられるのは絶対に嫌だし、上から目線も嫌だが、「そうか!なるほどね!」と知らされたい気持ちはある。まさに、RPG role playing gameであるのが現代の漫才だ。
(8) Summing up! そうなると、現代の漫才は、おふざけに見えて倫理的であり、かつ高度に知的で、楽しませて教えるperforming artであるべきということになる。かつ、それを実践する漫才師は、常に自分のコスモを上げる求道者であり、同時代の観察者&探検者でなくてはいけない。
まったく………
こんなにややこしいことになった漫才って大変。
漫才師も大変。
大昔の、不良少年でも、落ちこぼれでも、下品でも卑しくても、学歴もコネもなくても、面白ければ食ってゆけるから、漫才師になろう〜〜っていうノリではいられなくなる。
非常に頭を使った感性総動員のネタ(performing artのrole playing gameのシナリオ)を作る頭脳が必要となる。
即興のしゃべくりだけでは通用しない。
自由奔放に放言すると、誰かの地雷を踏むことになりかねなくて、SNSあたりで炎上する。
こうなると、ネタ構成は実に実に骨が折れるぞ……
同時に自分という人間のコスモを上げないといけない。
キャバクラでお姉ちゃんのスカートの中に頭を突っ込んでちゃいけない。
疲れるから頑張るために覚醒剤を買いました〜〜だと逮捕される。
親族が生活保護を受けるがままにして一切援助しないなんてことがバレると、後でどう頑張っても、もうほんとうには第一線には立てない。
今の時代は、漫才師に卑しさを赦さない。
ささいな犯罪なんかいいじゃないの〜〜と赦さない。
大変だ……難儀だわ……
これだけの難行苦行だから、女性は手を出さない方がいいと思う。
これは、オタクの半分狂人じゃないとできない偉業よ。
だけど、あくまでも醒めていないとできない偉業よ。
女性がこんなもんに脚を突っ込んだら、美容にも精神衛生にも悪いよ。
ネタ作りという大衆娯楽創造活動に、自分のコスモを上げる求道者であることの両立。
どんなにネタ作りに頭脳を使っても、自分のコスモを上げて精神性を高めても、あくまでも現実の大衆娯楽界で大衆の支持を受けること。
なんという難行苦行だろうか。
うっかり、コスモを上げてると、他人の苦労の上に花開いているエンターテインメントをお気楽に口開けて享受している怠惰で無能な観客なんか相手にしていたくなくなる。
だけど自分の仕事はあくまでも大衆娯楽を提供すること。
その大衆娯楽はさり気ない啓蒙装置でもないといけない。
現代の漫才と漫才師は、大いなる矛盾を生きなければならない。
大衆とともに、大衆の中で生き、しかし大衆と同じ水準にいてはいけない。
だから、才能ある漫才師たちは漫才から離れ、漫才から逃げて、タレントになる。
無理もない。
漫才ネタ作ってるよりも、バラエティーショーに出演して司会者をヨイショしつつ、くっちゃべってるか、旅行番組かクイズ番組に出演して稼ぐ方が、はるかに簡単だ。
いや、ほんと、私はつくづく思うのよん。
一線に立ち続けている漫才と漫才師こそ、私の師匠だと。
ちなみに、私が好きなのは、「サンドウイッチマン」です。
あのコンビは、現代の漫才と漫才師の矛盾を前向きに生きてる。
今のところは。
立派だ!
この二人、前世は同じお寺で修行した僧侶仲間じゃないのか?
僧兵仲間だったかも。
格闘技でもあるもんなああ、漫才って。
山田五十鈴論面白い!彼女の三味線をライブで聞けなかったのが悔しい。
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コメントありがとうございます。山田五十鈴さんの生舞台を見たことがないのは、私も同じです。杉村春子さんはありますが、晩年の「女の一生」は、ちょっと見ていてきつかったです。舞台って、老いてもできますが、やはり年齢は出ます。歌右衛門も晩年の舞台は、けっこう見るにはきつかったです。
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