[342] 砂嵐を自分の物語にすること

投稿者:

本日は2019年元旦火曜日でございます!

明けましておめでとうございます!

May 2019 bring a lot of inspiring and moving moments to all of you!

大晦日の夜は、おせち料理代わりの大量のおでんを作りながら、チラチラ紅白歌合戦を視聴していた。

松田聖子さんとユーミンが歌っていたので、それだけで満足だ。

ヴィジュアル系アーティストって老けるの早いね〜〜

属国ソングUSA歌った子たちの田舎のヤンキーオッサンぶりも驚いた。

若いアーティストでも面白い才能の人たちもいたよ。

「獣ゆく細道」というのを歌っていた椎名林檎&宮本浩次のパフォーマンスは、インパクトあった。

宮津玄師はLemon歌ってた。Flamingoの方がいいのになあ。

お楽しみ欅坂46は、あの憑依姫のテチがいなくて残念だった。

あの狂った子がいないとダメだ。

乃木坂46は、いつのまにか高級クラブの厚化粧お姉さん集団みたいになってた。

キラキラ輝きながら素敵な歌を歌い踊っていた時は受賞できなかった。

どうでもよくなってからレコード大賞を2年連続受賞か。

人生って皮肉なものです。

次回の紅白歌合戦に出場するのは、小柳ルミ子とユーミンと中島みゆきと松田聖子とピンクレディーだけでいいわ。

おでんも美味しく作れたぞ!

ところで、おでん食べながら見ていたテレビ番組の中で言っていたのですが。

泣いている赤ちゃんに、昔のアナログテレビ放送の終了後の画面のYouTube場面を見せると、泣き止むそーだ。

昔のテレビ放送って夜の12時とか過ぎると放送終了になり、画面がザーッと砂嵐みたいになって、砂嵐のような音を立てた。

これ見せると赤ちゃんが泣き止む。なぜか?

この砂嵐の音が胎児が子宮の中で聞こえる音に似ているので、赤ちゃんはなんか安心して泣き止んで眠るんだそーだ。

このザアアアアアアア〜〜という耳障りの悪い音が。

ほんまかいな。

ひょっとしたら、砂嵐の音だけではなくて、あの砂嵐だかなんだか知らないが、あの画面自体が、胎児が子宮の中で見ていた風景なのではないか。

だから、「あ、僕、まだママのお腹の中にいるんかな。寝ようかな」と思うんじゃないの。

と、勝手な想像をするのはなぜか。

あの砂嵐画面って、物の概念が脳の中にないときに、目も開いてないときに、赤ちゃんが見ている風景に似ているのではないかと私は思うから。

私は18歳くらいになるまで、たまに急に奇妙な状態に陥った。

突然に周囲の物の形がグニャグニャに溶けてしまい、自分が何か誰かもわからず、ただただグニャグニャが見えるだけの状態に陥った。

家族や人と一緒にいるときに、そういう状態になったことはない。

だから、そういう状態になったときに自分がどういう具合に他人から見えたのかはわからない。

多分、突然フリーズしてボケッと静止していたに違いない。

そういう状態になっても長くとも数分もすれば元に戻ったので、私はそういう状態にたまに陥ることを誰にも話さなかったし、気にもしなかった。

そういう状態を「離人症」(りじんしょう) depersonalizationと呼ぶと、大学4年くらいの時に知った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A2%E4%BA%BA%E7%97%87

wikipediaには、「離人症とは、自分が自分の心や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるような状態を感じること。その被験者は自分が変化し、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる」と書いてある。

ともかく、自分自身と世界がグニャグニャになっているけれど、それを意識し眺めている自分はいる。

その眺めている自分から見える世界が、あの砂嵐画面に似ている。

と、思う。

私の場合、生まれてから脳に入れたさまざまな概念によって意味を持って構築された世界が、元のなんの脈絡のない起源的世界に戻りやすい脳をしているのだろう。

脆弱というか、柔軟というか、アナーキーというか、原始人以前の原始人というか、いい加減な脳だ。

こういう軽い離人症気質の私は、だから、「この世界はヴァーチャルリアリティ」という仮説に非常にシンパシーを感じる。

だからMatrixみたいな映画にいたく心を揺さぶられる。

ほんとの世界は、私が見たあの砂嵐。

そこに人間は、机は机、椅子は椅子、自分は自分という概念とその形を学び、脳の中に意味を持つ世界を構築して行く。

それは仮想現実という人工物構築物。

ほんとの世界では私は砂嵐を眺めながらボケっとしているだけなのかもしれない。

認知症という脳の病気は、こういう仮想現実の人工性構築性がじわじわ崩れて行く過程なんじゃないか……とも思ったりする。

なんてことを思ったのは、私の父方の、私より年下の従姉妹が認知症で施設に入居したので今後は年賀の挨拶は出せませんという賀状を、従姉妹の家族からもらったことの影響か。

彼女の親は94歳で、脳も身体もいたって健在なのに、娘の方が認知症とは。

他人事ではないぞ。

私も危ないぞ。

しかし、まあ、この世界が構築的な人工的なものなら、それはそれで希望がある。

どうせ仮想現実ならば、真実はただの砂嵐ならば、リアルな現実なんて存在しないならば、それはそれで面白い。

自分で強引に世界を自分に都合よく認識してしまえばいい。

わざわざ悪夢を見ることはない。

人間の脳が壮大なる仮想現実を引き受けるだけのキャパシティがあるなら、私たちは自分の望む自分と世界のありようを広大に捏造してみればいい。

砂嵐を自分の物語に変えてしまえばいい。

でも、なんで人々は悪夢を選んでしまうんだろう。

なんで、自分虐待物語を選んでしまうのだろう。

もしくは、なんで他人が作った物語を、自分の物語だと勘違いするのだろう。

ホラー映画やホラー小説が人気がある理由と同じかな。

恐怖を、別の恐怖で抑えるのかな。

癒しhealingとしての恐怖。

恐怖をもっと突き抜けて、生きていることそのものの歓喜の物語を作っちゃえ。

ところで、泣いている赤ちゃんは、「ピアノ売るなら電話してちょーだい」というタケモトピアノのコマーシャルソングでも泣き止むそーだ。

エンジンの重低音も、赤ちゃんが泣くのを止めることができるそうで、ホンダはエンジン音を出す装置を入れたぬいぐるみを開発中という噂も聞いた。

ほんまかいな。

どちらもfacebook友だち情報である。

ここで、唐突に、今朝、音読していたニーチェの『ツアラトゥストラはかく語りき』の新訳の一部を引用する。

「ニーチェの真意に最も近い全訳」だそーだ。

これは読まねばなるまい!!

「大地に忠実であれ、そして天国の希望を説く者を信用するな!彼らは、それを知っていようといまいと、毒を盛る輩なのだ。

彼らは生命を蔑む者だ。麻痺しゆく者、自家中毒患者なのだ。大地は此の類の人間のせいで疲れている。それほど生命を蔑むのであれば、現世から去っていくがいい!

嘗ては神への冒瀆が最大の冒瀆だった。然し神は死んだ。同時に此の瀆神者も死んだ。今最も恐るべきは大地を冒瀆する事、究明できないものの内臓を大地の志よりも尊重する事だ!」

(ニーチェ『黄金の星はこう語った』上巻 2018改定 小山修一訳 p15-16 Also Sprach Zarathustra)

https://amzn.to/2Tnofbz

21世紀は真実暴露の時代。

ニーチェの日本語翻訳にも陰謀と謎と政治が絡んでいるようだ。

ニーチェが言うごとく、天国のことなんて考えてもしかたない。

生きているときは生き生きと、自分が手にしている仮想現実を自分自身の物語に構築して、そのヒロインやヒーローを生きること。

無料でできるぞ。

2019年の私のミッションはふたつ!

治療中の夫の伴走と応援団。

ニーチェとアイン・ランドについてより深く考えて書くこと!

さて、のんびりとした元旦の時間が過ぎて行く。

みなさま、2019年も本Blogを読んでやってください。

いつも、ありがとうございます。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中