本日は2019年9月25日水曜日である。
夫は無事に22日に退院した。
私は、この1年間の疲れが出たのか、最低限の家事しかできない状態だ。
まあ、数日ブラブラしていれば、元気になるだろう。
今日は、9月のはじめに行った関ヶ原について書く。
9月の4日に一泊の伊勢旅行のつもりで出かけた。
私は遠出すると行っても神社仏閣に史跡巡りぐらいしか関心がない。
まずは、三重県の磯部町の伊雑宮(いざわのみや)に出かけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%9B%91%E5%AE%AE
伊勢神宮は混雑しているので行かない。
いいんだよ、この伊雑宮の方が本家なんだから。ここが元伊勢だから。
あいにくと強い雨が降っている伊勢道だったけれど、この神社の駐車場に来た頃には、雨が止んで、太陽が雲間から差し始めていた。
この神社は別格だ。
有名な神社はいろいろある。
でも、行っても何も神気を感じない神社も少なくない。
伊雑宮は、鳥居をくぐった途端に、あれ?と思う。
真夏でも空気がひんやりとしている。
どの神社でも感じることのないほどの神気だ。
この神社では、ペラペラギャアギャアと、しょうもないこと話しながら参拝なんてできない。
この神社は、ご縁をいただかなければお参りできない感じだ。
私は、やっと2013年にご縁をいただけた。
しばらく佇んで、神気を浴びつつ、思うこといろいろ。
社務所で御玉串料を差し上げ、お札(ふだ)をいただいた頃に、またも激しく雨降り。
お昼時になったので、近くの「うなぎの中六」さんでうな丼をいただく。
昔は、このお店は旅館だったらしいが、今は鰻屋さんである。
美味しいです。
ランチ後は、雨の中を伊勢市内に向かった。
ここから翌日に飛ぶ。
翌朝、昨日の大雨のせいで、名阪高速道路が鈴鹿から名古屋まで不通だとわかった。
帰れません〜〜
まあ、昨今はこういうことが多い。天変地異の時代です。
ならば、新名神高速道路を京都方面に向かおうか。
京都方面に向かう途中で、滋賀県に入り、そこあたりで名古屋方面に行くインターチェンジがある。
そこから方向を変えて名古屋に帰ることにする。大回りだが、しかたない。
滋賀県と岐阜県の境あたりを走っていたら、「関ヶ原」という標識が見えた。
お!関ヶ原だ!行ったことないぞ!行こう、いこう!
ということで、関ヶ原の古戦場跡に車は向かった。
関ヶ原は、今は住宅街になってはいるが、かつての戦場を想像させるような視界が開けた場所も残っている。
まずは、開戦地に行く。
宇喜多秀家の陣地があったあたりだ。
関ヶ原の西にあたる。
私は脚が悪いので、300メートルでも歩くの嫌だな〜〜ということで、関ヶ原の北西に位置する石田三成の陣地があった笹尾山に行く。
島左近が奮戦した陣地です。
次に決戦地に行く。
最初は西軍優勢かと見えたが、小早川秀秋は裏切るし、島津は動かないし、名目上の総大将の毛利は動かなかった。
三成さんの部下たちは笹尾山を出て、ちょっと南下して奮戦した。
赤備えの井伊直政とか黒田長政に攻めまくられ、みな討ち死。
次に徳川家康の陣地に行く。
最初に家康が陣を置いたのは、関ヶ原の東に位置する桃配山だった。
それから戦局を見て、家康は関ヶ原のほぼ真ん中に近い場所に陣を置いた。
今は芝生が敷かれている。
ちゃんと広々と残されている。
ここで、徳川軍が陣を敷いて、テントを張ったわけではないにしろ、家康はまあ椅子みたいなもんに座って、刻々と知らされる戦局をイライラと待っていたわけだ。
なんと、島津軍は、西軍不利と見たら、家康の陣地近くを突っ切って逃げた。
お殿様を生き残らせるために多くの兵士が討ち死した。
このときの島津さんの怒りも、260年後の幕末の薩摩藩で弾けたのでしょうね。
関ヶ原の南に位置する南宮山にいた毛利さんも、合戦に加わりもせずに撤退して国に帰った。
長州藩の徳川への複雑な気持ちも、幕末で弾けた。
過去は消えない。
さて、この徳川の陣地のそばに、今は「関ヶ原歴史民俗資料館」がある。
週日なので、入館者は少ない。
それでも、リュックを背負った旅人が、5人ほど展示物を見つめていた。
ご夫婦もいれば、男性ひとり旅の人もいる。
関ヶ原まで来る人は、どちらかというと西軍びいきらしい。
珍しく徳川家康ファンが来ることもあるが、なんとそれは韓国からの観光客だそーだ。
朝鮮侵略した豊臣を滅ぼしたということで、徳川人気だそうである。
なるほどね。
憎っくき宗主国イングランドを太平洋戦争緒戦でぶちのめしたという理由で日本びいきのスコットランド人みたいなものか。
では、私は西軍びいきか、東軍びいきか?
私が「関ヶ原の戦い」に興味があるのは、「義と利が戦えば利が勝ちます」という現実的な法則を教えてくれるからだ。
石田三成はすっごく優秀で有能だけれども、負けた。
道徳的には正しかったけれども、負けた。
味方の小早川や島津や毛利から裏切られた。
彼らは正義よりも、自分たちの生き残りという実利を選んだ。
そんなの当然なのにね。
それから、三成は、天下分け目の戦いだからということで、正々堂々と戦うということで、徳川家康の陣に夜討をかけなかった。
いやいや、卑怯な手を使ってでも勝たないといけないでしょう。
天下分け目の戦いだからこそ。
それから、これはNHKの「偉人たちの健康診断」って番組で指摘されていたけれども、他にも三成はドジった。
https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/
西軍は、大垣城を夕食後に立って、関ヶ原に到着したのが午前1時ごろ。
それから兵士たちは関ヶ原で戦準備に取りかかった。
陣地作りのために立ち木を伐採したり。
住民を叩き起こして立ち去らせて、民家を焼き払ったり。
夜明けまで忙しかった。
兵士たちはクタクタ。眠れず、食えず。
夜が明けたら、いつ開戦かわからないから、待機。
ところが、なかなか戦さは始まらない。
で、開戦したのが午前10時。
西軍の兵士は、開戦後すぐにぶっ倒れた。「低血糖」で。
大将あたりは、なんか食ってたかもしれないけど、末端の兵士は労働していて、ろくに食ってなかった。
ご飯炊いて握り飯作る余裕はなかった。
兵站とか兵士の食事や栄養を考慮しないのは、旧帝国陸軍だけじゃないみたいだ。
戦国時代からかよ。
戦闘は、始まって「2時間」で決着がついた。
小説とかドラマや映画だと半日戦闘が続いたみたいに書いているのが普通だ。
それは新しい資料が発見されて、すでに否定されている。
だから、下の図の時間は間違っています。
開戦は午前10時でお昼までに合戦終了。これが事実。
6時間も戦えるかって!15分でも長いわ。
小早川秀秋の裏切りも、開戦30分もしないうちにサッサと実行された。
小早川さんが、なかなか動かなかったので、徳川軍が小早川さんの陣地がある関ヶ原南方にある松尾山に大砲を撃ったとか銃撃したとかは後世のフィクションだ。
短い合戦だったので、戦死者も意外と少なかった。
ヤバイと思ったら、みんな逃げる。
私が足軽や雑兵なら、「あ、うちの軍は負けそう」と思ったら、即逃げるわ。
あたりまえだ。怖いし痛いよ。
侍大将じゃないからね、体を張ってまで戦う義理なんかないもんね。
だから、関ヶ原を掘っても、当時の遺骨なんか出てこない。
というわけで、三成さんの敗因は、人間は利で動くのが圧倒的に普通であり、食ってないのに戦えないのは当然ということをわかっていなかったから。
優秀なのに、ファンタジー脳。
現代ならば、石田三成さんは国立大学でファンタジー左翼思想に脳をやられた中央官庁の「良心的な」高級官僚なのでしょう。
理屈は通っているけれども、現実や現場では通用しない理屈にこだわる俊才。
2.26事件の青年将校じゃないんだからさあ。
勝ちたいなら夜討朝駆けすべし。
裏切られる前に裏切るべし。
兵士にはちゃんと休息と食事を与えるべし。
何よりも、正義はファンタジーと知るべし。
ところで、関ヶ原の戦いについて書かれた歴史小説は、おびただしくあるけれども、私のオススメは、これ。
山本兼一氏(1956-2014)の『修羅走る 関ヶ原』です。
戦場としての関ヶ原を生々しく描いている。
文体も素晴らしい。
人間描写も心理描写も合戦描写も素晴らしい。構成も巧みだ。
関ヶ原の戦いの事実がほんとはどうであれ、戦場とはこうにちがいない、裏切りと保身が渦巻いた関ヶ原の戦いとは、こういうものだったに違いないと思わせるほど、描写がリアルで、人間がよく描かれている。
真摯に義に生きる武将は、「男はいないのか!!」と悲痛な声で叫ぶ。
いねーよ、そんなもん。
生き残るのは、義よりも利を選んだ方だ。
卑怯な男の方だ。臆病な男の方だ。
ついでに、疲れ切って空腹ならば、どんなに大義に燃えていても戦えない。
食うことと排泄が人間の営みの基本よ。
そこんとこ、よろしく。