本日は2021年9月9日木曜日です。
Twitterでは、ジョージ・ソロスだのビル・ゲイツだの才能豊かな人々によって仕組まれた、下級市民の人口削減を目的とするウイルス攻撃プランについて暴露tweetが投稿されている。

事実かどうかはわからない。
こんなに才能豊かになると、人類の未来や世界の行く末に思いをはせることが多くなってしまって、大義のためにはアホは大量に処分しないとあかんわ…と責任感を持って、考えてしまうのですかねえ?
もしくは、アホな下級市民の被害妄想の犠牲者ですかねえ、この方々は?
よくわからない。
世界の行く末は未来の人間が考えればいいことなのに。人類の未来より自分の足元を見る方がいいのに。すでに老人なんだからさ。
それとも、本物のソロスさんもゲイツさんも爬虫類人に乗っ取られて、もはや人類ではないとか?
こんな噂もある。
ヒラリー・クリントンたち特権的上級市民がアドレナクロム抽出のために大勢の子どもに性的虐待を含めた虐待をして、子どもたちが拷問で苦しんでいる現場を撮影したフィルムを、証拠チェックで見たエリート捜査員たちの半分以上が、ショックで自殺したとか。
https://summary.fc2.com/summary.php?summary_cd=100627967
事実かどうかはわからない。
そうかと思うと、女性の友人知人が、有名大学の教授たちの昔からのセクハラ行為について噂する。
某超有名私立大学の男子学生のサークルが集団強姦をしたニュースがあったけれど、あんなの氷山の一角だと噂する。
実は、国立大学の理系研究室の方がセクハラは酷いと、上野千鶴子氏が書いてる。
https://www.asahi.com/articles/ASP855TKNP82PLBJ009.html
こういう言い方をするのは問題かもしれないが、いわゆる下級国民の中でも下層の人々が、弱いもの虐めしたりの犯罪事例は、あまりショックではない。
「頭も悪いし人格も低劣なんだよね」と思うだけだ。彼らや彼女たちは頭も育ちも悪過ぎて、自分が何やってるのか分からないんだよねと思う。
被害者の人はほんとうに運が悪かった、お気の毒だった、そんな連中がいるような町にいちゃいけなかったと思う。ほんとだよ。
柄の非常に悪い町ってのは、あるからさ。
だけど、世界の上級国民や、日本の超有名大学教授のようなプチ上級国民とか、日本の上級国民予備軍の超有名私立大学の学生が、卑劣で邪悪なことしてるという話には、いやああああああな気持ちになる。
この種の人々は、頭が悪いわけではない。才能もあるのだ。自分がやってることが悪いことだとわかっている。でも、平気で心も痛めず、酷いことをするのだ。
知能や才能が、道徳性や他人への想像力に結びつかないという点に、私は、いやあああああな気持ちになる。
脳と心って直結していなくて、なんか分離してるらしいということに、いやああああな気持ちになる。
こういう状態、知能や才能と心が分離しちゃってるということは、知能や才能と霊性が両立し難いということなのかなあと、いやあああああな気持ちになる。
偏見と言われるかもしれないけれども、私は欧米人でも白人種は才能と人格が一致する度合いは少ないんだろうと思ってきた。
合理性とか功利的であるとかは知能や才能がある印だけれど、その合理性や功利的であることによって、ある種の白人がしてきたことは、科学の発展であり、植民地支配であり、帝国主義だった。人種差別であり、搾取であり、日本への原子爆弾二発投下だった。
だから「頭はいいけど、この人たちの精神は獣以下かもな」と思ってきた。
獣は腹が膨れれば、それ以上は殺さないというから。
人間は、必要もないのに殺す。
で、特に明治以降の日本人は、この種の白人に近いほど、上等で優秀とみなされてきた。
「論語」読みよりも、英語やフランス語やドイツ語を勉強して欧米の学問をすることが、高尚だとみなされてきた。
で、知能高く才能があって、人格は狡猾で搾取的なのが、高等ということになってきた。
要するに高学歴サイコパスが、エリートのありようなんだよね。
だから、政治家とか大企業の社長とかがサイコパスなのは自然の理なんだよね。
でも、そういうサイコパスが偉業を成し遂げることも多くて、「才能と人格は別に考えて、人格に問題があっても才能のある人の才能や業績は尊重する」ということが、良識になってきた。
東南アジア研究で有名な京都大学教授の矢野暢(とおる)という人物が1993年に、自分の弟子で秘書でもあった女性からセクハラで告訴されて、大学を辞めた事件があった。
この告訴は、日本の象牙の塔のセクハラ事件として日本で初めての大事件に発展した。
矢野暢氏は女性の敵のシンボルとなった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E6%9A%A2
矢野暢氏は、その後は日本での居場所がなくなり、ウイーン大学の日本研究所に招聘されたかしてウイーンで亡くなった。自殺という説もある。
私は、この事件が起きる4年くらい前に、矢野暢氏の実物を見たことがあった。私が36歳くらいだったろうか。
ノーベル文学賞を受賞した英国人小説家を招いたシンポジウムが名古屋のホテルで開催されたので、聴きに行ったら、そのシンポジウムの司会者が矢野氏だった。
その時の印象は悪かった。目がキョトキョト落ち着かない人物だった。一見上品そうだけど、いかにも京都大学有名教授らしい端正な顔つきだったけど、人相は悪かった。発散するものが濁ってた。
名誉欲とプライドと傲慢さに固まった顔つきだった。
だから、数年後にセクハラ事件で大騒動になった時は、驚かなかった。いかにもやりそうだわああ……と思った。
そのときに、評論家の誰だったかなあ、誰かが「こういうことと、彼の学問的業績の価値をゴッチャにしてはいけない」と発言した。その発言は無視された。
その評論家の意見もわかる。まあ、下半身のことで、上半身のことまで判断してはいけないということだ。
まさに人格で、才能を査定しちゃいけないということだ。
「いい人」だけど、「どうでもいい人」もいるわけだから。
だけど、才能があることが、人格下劣でいい理由にはならない。
「僕は頭がいいから、その頭脳明晰さで社会に貢献するから、庶民の女の何人でも強姦したっていいじゃないか」は通用しない。
たとえプロのセックスワーカーの女性相手でも、強制性交はだめだ。
みんな人格がある。
自分自身に人格がないからといって、他人にも人格がないと思っちゃだめだ。
そういう理屈が、道理が理解できる知能を持ちながら、そーいうことやるって、これはいったいどういうことなんだろうか?
下半身のすることだから、は理由にならない。下半身に何があるというのか?悪魔でも住んでるの?悪魔って肛門近辺が好きなの?
才能と人格は別とは、よく言われることだ。私自身も「人格的にはダメだな、この人は」と査定してる複数の知人がいて、しかし、その知人sの才能は凄いと認めていたりする。
しかし、そういう知人sとは、個人的には絶対に親しくはならない。
私は、その才能ある知人sの才能に用事があるのであって、その知人sの人間そのものには用がないからだ。時間を割くのも、もったいなくていやだ。
私も性格が悪いな。
ということで、今日は、「突出した才能の持ち主に、なぜに人格はクズが多いのか?」について、考えた。
結論は、まだ出ません。