#547 11/22/ 2021 岡田斗司夫『評価経済社会』を読む(その2: 評価経済社会とは自由洗脳競争社会)

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本日は2021年11月22日月曜日です。

岡田斗司夫氏の『評価経済社会』の紹介の続きです。

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前回は、今までのところの歴史の諸段階について確認しました。

今日は、いよいよ岡田斗司夫氏の言う「評価経済社会」がどういう社会かについて、藤森流に紹介します。

その前に、私たちが立ち会っている「モノが不足して情報が余ってる新しい中世」の時代について、もうちょっと確認します。

いつの時代でも、生きて行くことは、人間にとっては大変だけど、歴史の段階には、その段階を特徴づける悩みがある。

最初の狩猟採集社会における人間の悩みは、食べ物を確保できるか、だ。

次の農業社会における人間の悩みは、定住し収穫を得て食うことの前提となる農作業の厳しさと、それにまつわる人間関係だろう。

次の封建時代と言いますか、中世においては、エネルギーが枯渇していて、すべてが停滞していて、ギリギリ食べていけるけれども、競争はないけれども、怖いのは病気であり死だ。天国に行けるかどうかだ。

産業革命の科学時代の悩みは貧困だ。貨幣獲得競争に負けることだ。

もちろん、ついこの間までの、今でもその残滓はいっぱい残っている「モノが豊かで時間が足りない」時代を生きる人間の悩みは、貧困だけじゃない。

近代は、神に自分を委ねるのではなく、外部に絶対者を夢想するのではなく、自分で自分の人生を構築することが推奨された時代だ。自分で自分の人生を構築すること、それが近代的自我だ。個人の尊厳ある人生だ。

とはいえ、自分で自分の人生をプロデュースするといっても、その時に完全にオリジナルな人間像ってイメージするのって無理でしょ。

自分ではない他人の成功者を真似することを目指してしまうでしょ。つまり他人の生き方をなぞってしまうでしょ。

無から有は生まれないんだからさ。真空の歴史から100%新しい何かが立ち上がることはない。

ほんとうに自分独自の人生ってありえない。独創的に見えても誰か他人の生き方のパッチワークだ。

だから、「モノが豊かで時間が足りない」近代の悩みは、貨幣獲得競争に負けることと、自分という主体性がいつも揺らいでいること。

つまり、成功者みたいになれないこと。

だけどさ、今とこれからの時代の「モノが不足して情報が余る時代」には、そういう成功者の裏側も見えちゃう。

たとえば、私が岡田斗司夫氏の書くものは面白い!とFacebookに投稿すると、岡田氏の人格的に問題のある点をネット世界は、ふんだんに知らせてくれる。特に下半身系の問題ね。

成功者=人格者じゃないことは自明の理です。

そもそも「人間はかくあるべき」という理想はぶっ壊れているのが、今の時代だ。

いや、理想がぶっ壊れたんじゃない。情報の氾濫により、「理想」の虚構性が暴かれてしまった。

英雄なんていない。非の打ち所がない人間はいない。

清純が売りの女優さんは枕営業いっぱいしてきたかもしれない。爽やかイケメン俳優は強姦魔かもしれない。

最近も、日本人の心の奥の聖なる家族の長女が性欲に翻弄されて詐欺師と結婚した。

人間だもん。それはいいのよ。

ただ、幼稚な綺麗事を小学生みたいに言っていないで、自分の欲望について堂々と記者会見で宣言すれば、あっぱれだったけど。

「私は隣に座ってる男が下品な詐欺師だって知ってます。こいつがロイヤルホストの虚栄心の強い男だって知ってます。母親ともども、こいつは私のカネ目当てだって知っています。ほんとに、くっだらねー男です。でも、私はこいつが好きなんです。はい。趣味悪いです。はい。私に男を見る目なんてありません。まともな男なんて生育歴の中で、私は身近に見たことありませんから。そこはお察しください。ただ、私は、こいつと性交しまくりたいんです。だから結婚します。こいつとの性交に飽きたら、また帰ってまいります!みなさまのご心配、お心遣いに感謝いたします!ありがとうございました!」って言えば良かった。

あのお姫様は、もっと自分をプロデュースしなきゃ。いくらでも勝ち目はあったのになあ。あまりに頭が悪過ぎ。

私なんか、1980年代の終わり頃に、女子学生さんに「先生が結婚した決め手は何でしたか?」と問われて、正直に「性的好奇心」と答えたら、とんでもない顔をされたけどね。

何の話か?

そうそう、ネット世界の情報氾濫のために理想の虚構性がバレたという話です。

ネットの真実暴き性により、私たちはいろいろ知ってしまった。

無難どころか嘘であるようなことや、毒にも薬にもならないどーでもいいことを、いかにも真実であるかのように意味ありげに話すTVのコメンテイターやタレントがしているような「クソどうでもいい仕事」(bullshit jobs)は高収入。でも、介護や保育分野の待遇は悪い。

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いわゆる「成功者」は、「クソどうでもいい仕事」(bullshit jobs)をしている人々なのだ。

この世界で必要な仕事essential workの待遇は悪い。「お母さん業」なんて無給でっせ。24時間労働で無給。そりゃ疲弊して、子どもを虐待もするわさ。

今までなら隠されてきたことを、神話の幻想でしかないことを、ネット世界は暴いてしまう。タブーは消えた。

子どもの頃から気遣われ大事にされて育った若い人たちは、クソどうでもいい仕事とわかってしまうと、クソどうでもいい仕事をやれない。できたとしても苦しみながらだ。生活費のために、嫌々ながらだ。

で、うつ病になっちゃったりする。引きこもりになったりする。

「クソどうでもいい仕事」って辛いもんね、ほんとに。

私も55歳あたりから、今の日本の大学で教えることの無意味さに苦しんだ。大学教員も詐欺師みたいなもんだ。

理想がぶっ壊れていくと、無規範anomyな社会になると、もともと資質の悪い人間はさらに劣化して邪悪になる。

児童や生徒に性的虐待をする猥褻教員なのに懲戒免職にならない。教員免許も取り上げられない。

いじめが原因で生徒が自殺したのに、それを絶対に認めず保身に走る類の教員も教育委員会も全く罰せられない。

生活苦の女性教員がソープランドでちょっと働いたくらいの程度で、懲戒免職にするのに。

男が必要とするからセックスワークは存在するんだぞ!

生徒見殺しが許されて、セックスワークが許されない。どうかしてる。

こういう不条理があからさまに暴かれても、事態は正常化しない。実質犯罪者たちが跋扈している。

そういう状況が見えてしまうと、まともな人ほど次のように考えるようになる。

最低限食べるだけのお金があればいいや、意に沿わない仕事に就くのは苦しいからいやだ。世間に素直につきあってると知能指数が低くなる。もっと自分を大事にしよう。

それを実行する人間は、時間はあるようになる。その時間をどうするか。

自分自身を充実させるために使う。

かつては消費やモノで自分自身を充実させる時代だったけれども、今とこれからは、自分の心の充実が優先される。

ボランティア活動でも創作でも研究でも、習い事でも、芸術活動でも、趣味でも、恵まれない人々への支援活動でも。

勉強するのは、出世のためじゃない、就職のためじゃない、常に自分を向上させるためだ。

その時の強力なツールは、いうまでもなくインターネットだ。

高度情報化社会とは、情報の量が増えるだけではなく、ひとつの情報に対して解釈が無限に流通する社会だ。

同時に、マスメディアから一方的に情報を受けるのではなく、個人が不特定多数の人間に発信できる社会だ。

SNSやブログやYouTubeは、普通の庶民が情報を広く発信できる装置だ。

ネット内では誰もが情報発信者であり、誰もが情報を受ける側でもある。

影響力と評価を交換し合うのがネット世界だ。

かつては一方的に庶民は洗脳されていた。支配者から、宗教から、メディアから、教育機関から。

でも、今は「自由洗脳競争社会」になりつつある。

ネットを使って誰もが自分の「影響力」を競う時代だ。

総理大臣より、話の面白いお兄ちゃんYouTuberが、影響力がより大きい時代になった。

自動車の買い替えのときに、夫がもっとも参考にしたのは、自動車の機能について報告する無名のYouTuberたちの意見だった。自動車会社のパンフレットや仕様書ではなかった。それらYouTuberたちの中には、明らかに自動車会社の工作員たちもいたけれども。

ネット世界で低い評価を与えられ、批判され否定されると、社会的生命が絶たれることも起きる。だから悪いことはできない。情報氾濫のネット世界は、人々を道徳的にする効果もある。

自動車を暴走させて歩行者を殺傷しても逮捕されなかった上級国民は、ネット界で晒され、ついには自分が起こした交通事故の責任を認めた。

旭川市立北星中学校の元校長や教頭や担任教員は、その無責任な言動がネットで晒されて、顔も住所も暴露された。

今までなら、彼らは自分たちの悪行を隠蔽できたのに。

大手メディアが報道しなければ、起きなかったのと同じだったのに。

ネット世界の情報の交換によって、事実が明らかになったり、世論が分裂したり、多様化したり、良識の線に収斂されたり、そのネット世界の動向に大手メディアが影響されて動き始めたり。

かくして、「様々な価値観・世界観が様々な人々の要望に応えて存在する世界」が出現している。

こういう状況になると、どうなるか?

「巨大な資本で人やモノを買収する代わりに、強力な「影響力」で人やモノを動かす。これからの「モノ不足・情報余り」の社会は、お金よりも「評価(イメージ)」、つまり「影響力」によって物事が動きやすい時代なのです」(本書194頁)

これが「評価経済社会」だ。

藤森流に言い替えると、こういう時代には、以下のことが起きる。

(1)企業にせよ公的機関にせよ、やってることが旧態依然で評価(public image)が悪くなると、優秀な人材が来なくなる。結果として利益が上がらなくなるし、成果が出ない。こういう場合、待遇を良くしても無意味だ。待遇がいいからという理由で参入する人材は、それだけのことしかできないし、しない。自分が入った企業や公的機関の評価を高めるような生産性の高いことはできない。

(例)公務員やTV局員など。最近、国家公務員のキャリアが役所を辞めることが多いのは、官公庁や官僚に対するpublic image評価が低くなったからだ。税金泥棒と言われては、やる気が失せる。

TV局は少数の例外を除き、下請けの制作会社をこき使い中抜きし、国民の知能指数を下げるようなことしかできない。

(2) 企業も公的機関も、カネ出してもいいよと思ってくれるサポーターが出てくるほどの、人々に高く評価されるような事をすることを表明し、具体的に動き、その成果を公開報告できるようにならないと、発展しない。儲ければいいのではなく、みなに支持される価値観を提示し、実践し、成果を公開する組織が発展するし、その結果として利益が得られる。

ただし、その評価public imageは現状維持ではなく、常に更新進化し続けなければならない。「この企業や公的機関をサポートすることが、自分の人生を意味あるものとする行為のひとつだ」とサポーターが思えるような随時更新進化。それもガラス張りの更新進化。

収益の何%かを寄付するだけじゃダメ。その行為は、評価public imageを高める戦略の一部でないと。

(例)ユニクロが商品の原材料である綿花を、ウイグル人の人権を侵害する労働よって得てきたことがアメリカで問題視されたが、今後は、こういう事実が明らかになれば、ネット世界で情報拡散し、ユニクロで買い物しない人間は増える。ただでさえ、モノに執着しなくなっている消費者は、宣伝費をかけても、安易に購入しない。私はユニクロは買わない。

そういえば、山陽商会などの日本のアパレル業界が新疆綿(ウイグル地区の綿花から得るコットン)は使用しないと声明を出した。

「この商品を作ることは世界コミュニティの役に立ってるし、あなたがこの商品を買うことは、その志の実践に協力することになります」という評価の高い「物語」を提示しないと、人は買わない。GODIVAのチョコレートではなく、フェアトレイドfair tradeのチョコレートを買う消費者は、そういう志を企業に求めるようになる。

(3) 政府や国も評価public imageを向上させないと、優秀で志のある人ほど国政に参加する気は消える。政治家に問題があるとネット世界で、そのマイナス評価は氾濫する。

国際関係でも、評価されている国であれば、国際社会で発言力を高めることができる。いくら国内が繁栄していても、それだけでは評価されない。世界に貢献していることをアピールすることによって、高い評価public imageを獲得することが国益となる。

(例) かつてのアメリカは、自由と民主主義という大義実現のリーダーとして、国際社会における評価public image が高かったことが、第二次世界大戦後の世界の覇権国になれた理由のひとつだった。

しかし、ネット世界の発展により、その黒歴史や闇が、陰謀論を超えて世界中に知れ渡った。世界覇権国としてのアメリカの凋落の理由はいくつかあるが、評価public imageの悪化も大きな理由だ。

日本は、どういう国として、この世界に貢献したいのか、日本の評価public imageを高めるのが、軍事力とともに、日本の安全保障の大きな要になる。

中国がほんとうに世界覇権国になりたいのならば、自国の評価public imageを高めないと無理だろう。人類社会に貢献できる価値観を示し、実践して、その成果を公開しないと、世界のリーダーになれない。

今の世界に「遅れてきた帝国主義」のイメージを支持する人は誰もいない。「中華帝国」の幻影を追う人々以外には。

優秀な中国人は、中国の評価public imageを向上させることについて、すでに考えていると思う。日本人みたいにボケッとしてないもん。

さて、では、このような「評価経済社会」において、私たちの生活や生き方はどう変わると、岡田斗司夫氏は予測しているだろうか?

まあ、ここまでは私も納得できたけど、「評価経済社会」における個人の在り方については、疑問もある。

それも、次回のBlogで。To be continued!

では、私はこれから以下の電子ブックを読了します。

ああ!思い出すなあ、2016年の夏。『シン・ゴジラ』見たさに8回も映画館に出かけた夏。

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