#548 11/23/2021 岡田斗司夫『評価経済社会』を読む(その3: 評価経済社会は人間関係断片化社会)

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本日は2021年11月23日火曜日です。勤労感謝の日です。

掃除機や冷蔵庫に洗濯機にスペースパンにフライパンに炊飯用の土鍋に感謝する日です。ココナツオイルやオリーブオイルや菜種油に感謝する日です。

それらを作ってくださった方々に感謝する日です。ありがとうございます。お会いしたこともありませんが、私が生きているのは、みなさまのおかげです。

本日のBlog内容は、岡田斗司夫氏の『評価経済社会』の紹介の第3回目です。この本の紹介の最終回です。

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「評価経済社会とは具体的にどんな住み心地か?」(本書222頁)と、「評価経済社会の中で個人個人が幸福に生きるとはどういうことであるか」(222頁)という問いへの答えを紹介する。

インターネットによって情報が溢れ、情報を出す側も受ける側も相互に影響しあう自由洗脳競争時代において、個人は自分の気持ちに最も近いし共感できる価値観をネット界で探し選択する。

でもって、その価値観を共有する他者をネット界のなかに求める。

「貨幣経済社会においては、何を買うかが最大の関心事でした。これと同様、評価経済社会では、豊富にある価値観や世界観、つまりイメージから何を選ぶかというのが最大関心事になります。そして人々はお互い、どんなイメージを選んだかで相手を値踏みするわけですね。そして、同じ価値観を持つ者同士がグループを作り出します」(227頁)

ただし、だからといって、ひとつの価値観に凝り固まるわけではない。多様な価値観が溢れるネット世界に慣れると、個人は、そこから自分にとって違和感のない価値観を選び、自分の中で「複数の価値観」を並立させる。

それはそうなりますよ。ネットによって、世の中にはいろいろな立場があることを、否が応でも知るわけですから。

たとえば、私なら、政治的には小さい政府派、役人が市民の私生活に干渉することは拒否。役人に何がわかるのか、できるのか。税金は少ない方がいい。他人の金(税金)は無駄に不合理に使われるから。

個人の自由意志尊重。どう生きてもいいのだ。そのかわり、個人は自分の選択の結果を引き受ける。

個人の自由な創意工夫発明によって、社会は発展してきたのだから、個人を抑圧する集団主義、全体主義は大嫌い。天才を認めよ。立派な凡人だけでは人類社会は進化発展しないと思っている。

でも、古き良き伝統的慣習も大事にする。そういう文化装置があるからこそ気づくことも多いから。不合理も敢えてやってみる余裕が大事だと思う。神様がいるかもしれないよ。きっといるんだ。

女だからという理由で損することは拒否するという意味でフェミニスト。だから、セクハラ、DV、性犯罪、女生徒への猥褻行為、女性蔑視をする男は死刑でいいと思っている。

しかし、男としての父としての責任を果たそうとする男性は素直に尊敬する。「男らしさ」は最高の美徳のひとつだと思う。

フェミニストではあるが、男をATMとしか思っていない寄生虫女は嫌い。子どもに自分の夢を託す類の母親は嫌い。夢があるなら自分で実現せよ。子どもは親の夢をかなえる道具じゃない。

寂しい人間は、自分がいかに他人が作ってくれたシステムやモノによって助けられて生きているかわかっていない。インターネットもタブレットもフライパンも冷蔵庫も洗濯機も、すべて他人が作ってくれた。感謝しかない。そういう意味で、この世界は大きなコミュニティだと思っている。

家族というのは、弱ったメンバーをケアするためにある。セイフティネットとして機能しないなら意味がない。家族が互恵的集団であるように、家族のメンバーは努力する。行政を使いこなすことは大事だが、人間には信頼できる仲間集団としての家族が必要だと思っているので、家族は大事にする。

ただし、自分以外の家族を搾取する人間は、特に家族の中だけで威張っている類の人間は排除されても仕方ないと思っている。

つまり、私は原始人的でもあるし、中世的でもあるし、近代的自我を支持するし、科学はどんどん発展せいと思うし、ラディカルな自由主義者であるし、フェミニストだが男らしさには憧れるし、自分は馬鹿だけど真のエリートは大事にせいと思うエリート主義者だ。

矛盾してる?

それが人間存在なんよ。それが複数の価値観の並立よ。

こういう私は、以上のような私の各側面、各要素におおむね賛同している人々のTwitterフォロワーとなり、Facebook友だちとなり、意見交換している。

そうではないTwitterフォロワーにFacebook友達はブロックするなり、ミュートするなり。

このように、複数の価値観が自分の中で並立しているので、自分が属するヴァーチャル仲間集団も複数となる。

退職後の年金生活者なので、時間はあるので、緩くつながった仲間集団をヴァーチャルに往来する余裕もある。

極言すれば、「価値経済社会」に生きる人間は、テキトーに多重人格であることが要求される。

この道一筋とか、ワーカホリックで仕事第一とか、運命共同体的に会社に全エネルギーを注ぐとかという生き方は、産業革命以後の成功者の生き方として有効だった。それは勝者への道だった。

けれども、もう、そこまで自分を会社や賃金労働や専門性に賭けてもpayしない。payしないというより、企業はごく少数の管理職エリート以外は派遣の非正規雇用社員を適宜使いこなすだけ。

この道一筋のスキルもAIがかなり請け負ってしまう。獲得したスキルの賞味期限は短い。

価値観が多様化し、その多様性が日々刻々とネットに溢れている時代に、ある価値観にこだわる生き方は息苦しいだけでなく不利だ。

評価経済社会になる前の「ものが豊かで時間が足りない」時代では成功した生き方が、評価経済社会においては、暑苦しい独りよがりの視野狭窄となる。

強固な価値観を持って生きるのは自由だけれども、それを他人に求める人間は、存在そのものが他人にとってはハラスメントになる。

そればかりでなく、自分自身を追い詰めてしまう。

信念があるつもりで、ただの頑固頑迷だ。変化に流されてみることも大事だ。

つまり、評価経済社会においては、非常に柔軟で、情報に自分を開き、自分を変えることを恐れず、出会う人全てから学ぶ姿勢があるが、決していい加減ではなく、多くの人々が共有する倫理性は体現しているが、いい子ぶりっ子ではなく、いい人であるが、隙のない優等生ではなく、自分の弱みや欠点も正直にさらけだせるが、他人にとって負担にならない程度にさらけ出せる人という点において、他人から信頼=評価を獲得しているタイプの人間が生きやすい。

岡田斗司夫氏は、こういう生き方を、別の本で「いいひと戦略」と呼んでいる。

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評価経済社会においては、企業が「良心的で、ガラス張りの経営で、社会的責任を果たす方向性を持つ」ことが求められるように、個人も、明らかに悪人とか、つきあうのにややこしい面倒くさいタイプは居場所がなくなる。

前の時代なら、地位や金があれば、それでも他人はつきあってくれたろう。

でも、評価経済社会になると、人は自分の生き方や感性を大事にするので、つきあっても不快な人間とは、いくら地位や権力や金を持つ人間であっても、つきあいたくない。

だから、男だから、老人だから、年上だから、上司だから、地位があるから、金を持ってるからという理由では、甘やかされることはなくなり、特別に気も遣ってもらえないことが多くなる。

最近、男性高齢者のヒステリーや暴走や嫌がらせが多いという報道が目につく。孤独な男性のDVや反社会的な振る舞いがよく指摘される。

「評価経済社会」における人間関係に適応できず、イライラしている旧時代センスの男性が多いからだ。

快適に他人と関わりあいたいならば、他人にとって負担とならない人間でいなくてはならない。

これは岡田斗司夫氏は書いてはいないが、評価経済社会においては、女性の方が生きやすいと私は思う。

女性は、おおむね、他人に気を遣いながら生きてる。他人の地雷を踏まないように注意している。一線を越えないように気をつけている。

女性は人間関係を良好に保つために、それなりに、いろいろ努力している。

若くてスペシャルな美人以外は、女性だからといって特別扱いはされない。というより、女であるということだけで軽く蔑んで扱われることの方が多い。だから、そういう扱いをしない人間を見抜く目を女性は養う。それが自己防衛になるので

だから、評価経済社会は、私は女性の時代である気がする。

評価経済社会において弾かれるのは、硬直化していても生きてこれた類の男たちだ。

そして、このことに関連するのだが、岡田斗司夫氏は、評価経済社会において「家族の解体と希薄化」が進行すると予測する。

それは当然そういうことになるだろう。

家族が、そこに属する人間に単一の価値観を求め、閉ざされた空間の中での同調圧力が高いだけの集団ならば、解体は不可避だ。

情報が余るほどに豊かなネット社会において、自分の家族や結婚相手を査定する契機は多くなる。客観視する機会は多くなる。

自分の家族だからといって、聖域化できるはずはない。自分の配偶者だからといって、偶像化できるはずがない。

また、家族や結婚という制度の外で生きている人々のサンプルも、ネットはいっぱい提供してくれる。

岡田斗司夫氏は次のように書いている。

「私たちは、家族や会社・学校といった既存の安定したグループに所属していることを放棄しつつあります。その変化の中で、私たちはかつてのような人間関係を永遠に失いつつあります。しかし、その結果、私たちは「何ものにも自分の人生を縛られない」という自由を得ることになるでしょう。ひょっとしたら、それは高すぎる買い物かもしれません。しかしそれは、核家族で子供の数も少ない現代、大切にそだてられたわたしたちが、ひ弱になったこころのまま幸せに生きていく唯一の方法なのです」(264-65頁)。

離婚は増えはしても減ることはない。自分の人生や自分の気持ちを大事にする現代人にとって、自分を抑圧して不快さを強いる家族はいやだ。

たとえ、それが自分の子どもでも、自分の人生を不快にするならば、嫌だ。

ということで、子ども虐待はさらに増える可能性がある。

ただし、自分から児童相談所に相談に行き、「子どもを育てることができません。このままだと子どもを憎んで殺すかもしれません。子どもを預かってもらえませんか」と、堂々と子どもを児童養護施設に託す母親は、今はまだまだ滅多にいない。

でも、いずれ、そういう母は珍しくはなくなる、と私は思う。虐待するよりマシだ。親はなくても子は育つ。

児童養護施設を描いた漫画で勉強してね。

永田晃一さんの『児童養護施設で育った俺がマンガ家になるまでの(おおよそ)8760日』ね。

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いくら家族が抑圧的でも、家族と離れることができないのならば、自分の心の中で家族の比重を軽くするしかない。いろいろな仲間と関わることで、家族と関わる疲れを癒すしかない。

子どもよりスマホの画面を見ている若い母や父にとっては、ネット仲間とLineでやり取りしている方が、子どもの相手をしているより楽しいし、大事なのだ。

子どもに対してさえ、そうなのだから、老いた親に対しては、さらに関心がほんとうはない。自分が頼んだわけでもないのに、生まれさせられて、親孝行せいなんてのは、洗脳もいいところだろう。

老いた親は、自分の価値観を共有できる仲間をネット世界で見つけるしかないだろう。そこで情報交換するしかないだろう。血縁家族にこだわらずに。

元気な高齢者なら、ネット世界のプチカリスマとして、新しいシニアのライフスタイルを提示できるだろう。

かくして、社会には、家族を含めた人間関係のフラグメントfragment 断片化、細切れ化が激化していく。

しかし、そうした新時代には、それなりの気楽さもあるし、自由もあるし、喜びもある。

新しい時代を迎え楽しむ勇気を持つことを、読者に薦めつつ、岡田斗司夫氏の『価値評価社会』は終わっている。

さて、みなさんは、どう思いますか?

私は、この本は、今を非常に的確に予測していると思う。

私たちは、人間関係の断片化について寂しく思うけれども、その気楽さや自由を楽しんでいる。

たとえば、私と夫が同じTV番組を見ていることはない。食事の時以外は。各々が、自分のタブレットで好きにネットサーフィンをしている。互いが何を考えているか、いちいち説明しあったりしない。

私は夫のことをあまり知らない。友人関係もあまり知らない。それでいいと思っている。

見解の相違は互いにスルーしている。共同生活のルールは守るが、相手に干渉しない。

私みたいな無能な馬鹿と結婚してお守りしてきてくれたんだから、夫には感謝しかない。好きに幸せに生きて欲しい。

片方が病気になった時は、きちんとケアする。ケアし合わない家族は家族じゃない。一方的に誰か(だいたい女だね)にのみ、ケアを押しつけるような家族は解体だ。

私の人生も、知らないうちに、「評価経済社会」によくある人間関係をなぞっている。

私の結婚生活がおおむね平和なのも、私と夫が好きに自分のことに集中できているからだ。相手を自分に合わせる気がないからだ。相手に要求するものが少ないからだ。

子どもがいないということも、私の結婚の単純さと気楽さに寄与している。

親にいちいちうるさく要求し、親の体力と時間を奪う子どもは、結婚生活をややこしく不快にする。でも、産んだのは親だぞ。

産んだら勝ちのケースもあるし、産んだらとんでもなく重荷のケースもあるんだからさ、安易に人間を生産しないでね。

でも産んでしまったら、殺さないでね。前にも言ったように、児童養護施設に委ねてね。親が馬鹿でも、子どもは天才ってこともあるよ。

うーん、人間関係の断片化は理解できるが、子どもの養育にまつわる問題が大きいな。子どもとの関係は、断片化できるのか?

「ひとり遊び」ができる子どもは、知能指数が高く集中力がある。しかし、子猫や子犬と同じで、常に遊んでもらいたがり、ひたすら親の注意を引きたがる子どもも多い。

親が同じでも、子どもって、それぞれ個性があるからねえ。同じ育て方しても、片方は勝手に勉強するが、片方は無為に暮らしている事例はある。

そういう類の「構ってちゃん子ども」の成れの果てが、自分が社会に受け入れられないという孤独感と疎外感で通り魔事件を起こす(のかもしれない)。

子どもも、時代とともに変わる。資質に恵まれた子どもは、親に心理的に見切りをつけて、ネット世界に同志を見つけて生きていくとは思うけれど、それは全ての子どもができることではない。

どうしても、恒常的に動物的にベタベタしたがる子どももいるのだろう。

子どもの問題と並んで、別の問題もある。

人間関係の断片化を楽しめないタイプの人間は、どうするのだろうか。ツインソウルとかソウルメイトとかを求めるタイプの人間はどうするのか。

まあ、ソウルメイトってのも思い込みの幻想ですが、安定と愛着を求める人間も多いし、それは間違っているわけではない。

このことについても、子どもの問題と同じく、岡田斗司夫氏は何も述べていない。

まあ、自分が旧時代的エトスの持ち主と自覚したら、伝統的な結婚して家族を作り、互いに干渉しあって濃厚に家族で結束して生きていけばいいのだ。

そういう人々が消えることはない。多数派ではなくなるにしても。

どちらにせよ、人間関係の断片化を包括し俯瞰できる生の哲学が必要かもしれない。

また、評価経済社会における個人の経済生活について、つまり、個人はどうやって自分を食わせていくのかという具体的方法についても、それも凡人でもできそうな方法については、岡田斗司夫氏は述べていない。

その点が大事なんですけど。

ネットの人脈で、小商とか物々交換とかサービス交換とかするのかな。

自分で考えるしかないか。何でも本に書いてるわけではない。

この本は2011年に出版されているが、この本の元になる本は、すでに1995年に朝日新聞社から出ている。1998年には文庫本にもなっている。今は絶版ですが。

Amazonでもプレミアムがついて、高価格ですが、取り寄せて読んでみた。

すると、中身は2011年版とほとんど変わらない。

つまり、日本でもインターネットが使われるようになった1995年に、すでに岡田斗司夫氏は、これだけのことを予測していた。

すごい。慧眼以上の慧眼だ。

1995年の思考が、今2021年でも古くない!

おそらく、やはり、すでに今は評価経済社会なのだ。

Improve your public image!

評価経済社会は、「良心的企業」や「いいひと」が生き残る。「世界コミュニティに貢献する国家」が真の国防ができる。

超高度情報社会である評価経済社会において、人は道徳的であらざるを得ない。

みんなが鵜の目鷹の目でネット査定しあう社会だからね。

その査定から逃げることはできないのだよ。

たとえば、皇室の女性と婚約しても、借りた金を返さない人間は責められるのだよ。皇室のメンバーでも税金の使い方についてガラス張りを要求されるのだよ。不必要に贅沢にチャラチャラ着飾ってる皇族は、芸能人じゃあるまいし下品だなと批判されるのだよ。

しかし、そういう社会は、名もなき個人にも、自分自身の価値観を発信して影響力を発揮する機会を与える。

超確信犯的いい子ぶりっ子世界。

でもまあ、邪悪さが罰せられもせずに跋扈する社会よりマシでしょ。

そこに希望はあるかもね。

いい子ぶりっ子に疲れたら、人間の邪悪さについて心置きなく語り合うネットグループに加入して、悪魔ぶりっ子して、心のガス抜きをしましょう。

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