快楽主義と神経過敏は啓蒙思想の成れの果て

本日は、2017年7月19日水曜日である。

先日、The Wall Street Journalの日本語版を読んでたら、以下のようなニュースを見た。

http://jp.wsj.com/articles/SB10387820417957044660204583266973099959046

アメリカで、ゲームをやるために仕事辞めて引きこもって親と同居する若い男性が増えているという記事である。

この記事の最後は、同じくゲーマーが多い日本では、そういう現象がないとか書いてある。

いやいや、日本でも類似現象はある。

私のゼミ生のひとりは、ガキの頃からゲームばかりで、大学生になったら、世界中のゲーム愛好家といっしょに戦争ゲームに興じ、自分は司令官として作戦指令をしてた。

指令も簡単な英語でなんとかなるそうである。

インターネットでつながりながら世界中のゲームオタクと情報交換。

それでも、彼は単位はちゃんと取って、複数のコンピューターを駆使して、ゲームをしながら、卒論も書いた。

テーマは、Cyber Warsとかの新しい戦争形態についてだった。

趣味を卒論にしたんだな。

で、就活はいっさいしなかった。

family businessを受け継ぐとか言ってたけれど、よく知らない。

貴族でも財閥の御曹司でもないのに、自分の食い扶持すら稼がずにゲームに夢中になっているという生き方は、この世界の文明の到達点として、当然にありうる。

今の世界の先進国の人間観や社会観は、18世紀の啓蒙思想を基にしているので、だいたいが以下のようなものだ。

 人間は、生まれながらにして法(神?)のもとに平等である。

生まれながらに自由と生命を守り、幸福を追求する権利がある。

この権利は誰からも奪われない!

好きなことして生きていいのだ!

国家は、個人のそれらの諸権利を保障するためにある!

それらに権利を犯す政府は取り替えられるべきだ!

こんなこと言うとぶっ飛ばされるが、この近代市民革命を生んだ啓蒙思想って、なんという世迷言であろうか。

世迷言というか、非現実的だ。

人間は、法のもとでも神のもとでも平等じゃない。

貨幣のもとでも平等じゃない。

成金が1億円払っても、入会できない特権的クラブもある。

自由や生命が守られる権利も、幸福を追求する権利も、そういう「言葉」があるだけのことだ。

ましてや、そんなものを守ってくれる政府なんて存在しない。

政府は為政者と国会議員と国家公務員のためにある。

ほんとはね。

一応、そういう建前で政府が運営されています〜〜〜というだけのことだ。

高校生なら騙されても、いくらなんでも30歳過ぎて、そんなこと信じていたら白痴だ。

建前と現実を混同させるのはガキの頭だ。

しかし、一応、法律には人間の権利を守るべきと明記されているので、カネと暇をかけて裁判闘争すれば、建前を言い募る方が勝つ。

セクハラされたら、女性の人権が侵されたことになるので、訴える。女性が勝つ。

これは実に素晴らしいことだ。

が、ただ、それだけのことだ。

勝ったとしても、死刑どころか懲役にもできず、せいぜい数十万円の賠償金しかとれない。

セクハラをする男は延々と生産される。殺しても殺しても生まれてくる。

セクハラだと女性が思えばセクハラなんで、セクハラのタネは尽きない。

神経過敏な女性からすれば、「痩せたね〜〜」と言われてもセクハラだ。

汚ったない顔で歩いている男は、存在そのものがセクハラだ。

私が、何を言いたいかと言えば、現行の文明社会は、「あなたは好きに生きていいのよ。その権利は守られるから」という建前で成立しているということは、当然に、好きに生きるという快楽主義が肯定され、快楽主義は快不快にこだわることなんで、どうしても神経過敏になり、そーいう神経過敏が肯定されるってことだ。

そういう社会では、当然に、「ゲームがやりたいから仕事しないで親に食わせてもらう成人男性」が生産されるってことだ。

「ゲームがやりたいから仕事しないで親に食わせてもらう成人男性」というのは、人類が作り上げてきた文明の結果なんよ。

アメリカの若い人とか、ヨーロッパの若い人って、エネルギーないもんなあ〜

先進国で気楽に快適に育てられたので、幻想の中で生きていて、貧乏人のくせに、王子様か王女様のつもりだ。

その程度の若い凡人たちが、好きに生きよと言われたら、快楽に走るに決まってる。

発明とかイノヴェイションなんてしやしないよ。

ゲームに夢中になる。

家を出て外に行けば、不快な現実ばかりだ。

ゲームの世界みたいに、サッと結果は出ない。

ゲームのキャラクターみたいに現実の他人はカッコ良くないし、消せない。

すっごく不快になる。

「現実はそういうもんでしょ。いちいち傷ついているあんたが悪い。あんたのことなんか世界は知らない。鈍感に無視するのも生きる技術だ」なんて、誰も言ってくれない。

言ってくれる人がいても、意味わかんない。

で、ゲームやるために仕事を辞めて引きこもる。

親の家に同居すれば、住居費と食費はタダで、(当分は)生きていくことができる。

「現実逃避しているだけだ!」とか「働かざるもの食うべからず」とか「自分の食い扶持ぐらい稼げない人間はクズだ」とか、今時は、親も言わない。

ましてや教師や他人は言わない。そんな親切はない。

親も、啓蒙思想が生んだ快楽主義と神経過敏を、人間の権利=人権と教えられてきたから、子どもに言えない。

「成人のあんたを食わせる義務はないから、出て行って」と言えない。

あとは野となれ山となれ白骨死体となれ、と子どもを捨てることができる根性のある親ならば、そういう類の子どもには育たない。

まともな親ならば、学校で綺麗事を教えられて脳をやられかけている子どもに言うべきだ。

「現実の世の中はダブル・スタンダードで動いている。人権人権と言っていても、そんなものは現実には存在しない。絵に描いた餅である。自分のことは自分で守るべく全力で生きよ。権威者はすべて疑え。社会も国家も学校も裁判所も病院もすべて疑え。誰の信者にもなるな。ただし、こういうことを世間で口に出してはいけない。言ってもわからない人々に言うだけ時間の無駄である」と。

まあ、親が死んだら、「人権教」のNPOとか福祉団体が役所に掛け合ってくれて、生活保護給付金が受け取れるようにしてくれるから、引きこもり無職のゲーム中毒男も、なんとか餓死はしないですむよ。

いい時代だね〜〜

しょうもないわ……

現代は、もう確信犯的に快楽主義と神経過敏で、ギャアギャアと「私の好きにさせろ〜〜私を傷つけるな〜〜」と言い立てる奴の勝ちだ。

人権思想の根源は啓蒙思想でさ、

啓蒙思想の根源はキリスト教だけどさ。

ということは、今の社会の腐った軟弱さの元凶はキリスト教なんだ。

キリスト教が、実は神経過敏な快楽主義の変形だってことは、すでに19世紀にニーチェが言っている。

あ、キリスト教というビジネスと、イエス・キリストは別物だということは、念のために書いておこう。

あのわけのわからんお経と葬式仏教と釈迦が別物であるように。

もし、あなたが現実から逃げずに無駄に神経過敏にならずに、健康に健全に生き生きと適度に野蛮に生きたいのならば、キリスト教を「弱い意気地なしの言い訳弁護教」であり、啓蒙思想も人権も社会主義も共産主義も、キリスト教の別派だと洞察したニーチェを読むといいわよん。

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ま……

やっぱり、西洋文明の終わりも近いんかね。

いよいよ健全に野蛮なアジアの時代だ〜〜〜〜!!

二極化

本日は2017年6月7日水曜日である。

Facebookをチェックしていたら、Facebook友だちのひとりが、以下の記事を投稿していた。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51910

大学を出るまでは問題なかったけれども、就職しないまま、自宅でできる仕事もしないまま、かといって結婚して自分を食わせてくれる男を捕獲することもなく、そのまんま自宅で「家事手伝い」しているうちに、40代や50代になっちゃったという女性が増えているという記事である。

私は驚いた。

こーいう広義の意味あいの長期の「引きこもり」というのは、男性だけだと思っていた。

もともとが人間の基本形は女性なんで、男性は、染色体だか遺伝子だか知らないけれど、生き物としては「仕掛品」(しかかりひん)が多い。不良品が多い。

不良品になりやすい。ぶっ壊れやすい。

男は、当たり外れが大きい。

ピンとキリしかいない。

だって、犯罪者だって男性が多いでしょう。

綺麗事を言うのやめようよ。

「引きこもり」も「犯罪者」も人間の不良品なのは事実なんだから。

と、思ってきた私は、女性にも引きこもりが多いと知って驚いた。

ええええ? なんで?

私が知っている「女性の引きこもり」の例は、ひとつだけある。

「無駄に繊細で人目を気にするプライドは高いが怠けもんで臆病で頑固なブス」の事例である。

大したブスじゃない。

女は美女でなければいけないと思い込んでる頭のおかしいブスだ。

ブスであるという劣等感のために自尊心が極度に低くて、引きこもりとなった。

就職できたのに、数年もしないうちに辞めてしまった。

この事例については、まったく同情しない。

ブスだと自分で思うのならば、美容整形でも美容鍼灸でも舌はがしでも何でもして綺麗になって、街に出ればいいのだ。

でも、そうしない。

人生を舐めているとしか言いようがない。

「ありのまま」で世の中を渡って行ける人間なんていない。みな努力してる。

醜いならば、他人からして見にくいならば、見やすくなるように努力すればいい。

話が逸れた。

40代50代になっても働かずに自宅で親に食べさせてもらっている女性の話であった。

まあ、死ぬまで働かなくても食うに困らないなら、それはそれでいいんじゃないの……生き方は人それぞれだし。

と、私は思った。

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しかし、問題は、こういう「困った娘さん」は、必ずしも財閥のご令嬢とか、金融資産最低1億円はある(日本では220万人いるよ、2014年時点で)家庭の娘さんではないということだ。

経済的に余裕のない家庭の娘さんが多いということだ。

遺せる資産のない親の娘が多いということだ。

国民年金保険ばかりでなく、民間の個人年金保険に入り、娘を払込人&受取人にして多額の掛け金を払うことができる余裕のない親の娘が多いということだ。

で、そういう親御さんが役所に相談に行くそーだ。

「私ら夫婦が死んだら、うちの娘はどうなるのでしょうか」と。

知らんがな。

あんたらが育て損ねた娘さんの面倒まで、なんで行政がしないとあかんの〜〜

と、私が役所の担当者ならば、つい言いそうである。

しかし、そこは、役所の人は、「まあ、親御さんが亡くなったら、どっかのNPOにでも頼んで、ついて来てもらって、ご本人が生活保護受給申請でもなさるしかないですね……」と、こっそりと親切に答えるのであろう。

まあ、ありがちなことですね。

こーいう大卒女性の引きこもり家族に限って、経済的に余裕があまりないというのは。

経済的に余裕がない家庭の人間ほど、もっと経済的に余裕がなくなる方向に行くんよ。

不思議にも、そうなりやすい。

貧乏だから金についてリアルに考えるとは限らない。

貧乏だからこそ、金について甘く杜撰になりやすいという逆説もある。

財閥のご令嬢は信託財産もあるし、閨閥結婚や政略結婚をする。

こーいう金持ちの家に生まれ育つと、金の威力については遺伝子にしっかり刻まれるんで、金がない状態などに絶対にならないように生きる。

「お金で幸せは買えない」なんて世迷い言は頭をかすめもしない。

そもそも金のない人間と関与しない。

貧乏が伝染したら困るもん。というような小心な理由でもない。

もともと貧乏な人々が目に入らない。

目に入っても救いようもないし。

一方、金融資産1億円を形成保持できたぐらいの庶民の子どもは、そういう遺伝子を受け継いで、たくましくも自分も金融資産の積み上げに勤しむ。

こういう人々は、用心深く頭を働かせるので、「振り込め詐欺」に騙されることもないし、投資話に騙されることもない。

そのための勉強や情報収集も怠らない。

もともとが遺伝子が強いというか、タフなんで、親子ともども獰猛に社会で渡り合える。

世間に負けない。世間なんか馬鹿だと正しく見抜いている。

なんで、40代や50代になるまで親の世話になっていられるかといえば、親も子も遺伝子が弱いんよ。

優しい。いい人。無駄に傷つきやすい人。

ちょっとしたストレスや、ちょっとした冷遇や、他人の悪意に打たれ弱い。

「だから何だ!」と、怒鳴れない人。

親も「働くのは辛いことーー」と思ってきたので、娘の無職状態を受け容れてしまう。

頭が悪い親だと、娘をプリンセスみたいに大事に育てちゃうからね。

不幸で馬鹿な女が息子を(貧乏)王子様に育てるのは、あまりに陳腐な現象なので、ここではとりあげない。

頭が悪くて善良な人が親になると、暇つぶしの方法がわからなくて、育児に過剰に充填しているうちに、成人した子どもまで過剰にケアしてしまう。

貧乏人が何を勘違いしてるの?

ちゃんと地に足をつけて生きないとダメでしょ?

非現実的なのはダメでしょ!

と、親類ですら誰も真実を親切に言ってくれない。

他人に親切に真実を言う義務もないし。

私も、姪が幼児期から子どもにタブレット与えてゲームさせるがままにまかせてることについて何も言わないもの。

「あああ……ものを考えることができない人間にさせてる……子どもは親を選べないからなあ……かわいそうだなあ……」と眺めているだけだ。

まあ一度だけは、「絵本の読み聞かせとかしてるよね? 小さい時からタブレットやスマホなんか持たせると馬鹿になるよ」とは言ったけれども。

ということで、どんどん、個人も、家族も二極化していくんよ〜〜〜

先日も名古屋市内で乗ったタクシーの運転手さんが言ってた。

「いやあ、僕は最近、怖いです〜〜いろんなお客さんに乗っていただきますが、差がすごいんです。二極化してます。かわいそうだなあ……こうやって愚かさが代々伝わっていくんだなあ、と思わせる家族の方々をお乗せすることもあれば、もれ聞いているだけで僕が勉強になるような話をしている家族もおられます。これでは、どんどん差が広がるだけですね〜〜馬鹿はどんどん馬鹿になり、賢い人はどんどん賢くなるんですね〜〜〜」と。

うん。このまま行けば、超特権的支配層が、ものを考えない人畜牧場を統制する社会になる?

人畜牧場の人類は、パンとサーカスを与えられて飼育される?

支配層と人畜集団の間にいる「ものを考える人々」は、どんどん孤立化する?

そんなの、ローマ帝国時代から同じだよ。

二極化が進行しているんじゃない。

あらかじめ、ずっと、人類は二極化されてきた。

その事実に、かなりの人々が気づいてきたんだ。

そこに希望がある。

まずは、あたりまえだと思ってることを疑うことから。

社会が悪い。時代が悪い。政治が悪い。悪人が悪い。心無い人々が悪い。

そんなもん、未来永劫ずっと悪いわ!

良くなるのを待ってたら、人類の時代が終わるわ!

自分の人生なんだから、自分で責任を持って必死になって自分を幸せにするの。

必死であたりまえだ。

こーいう言説も疑いつつ、必死で生きよう〜〜

私は、これから必死に夕ご飯を作る。

ちっぽけな成功体験でも成功体験だ

本日は、2017年5月20日土曜日だ。

この文章は、4月に書いて、下書きに保存していて、忘れてしまったものだ。

自分で獲った餌をどこかの枝に突き刺して保存したつもりで忘れる百舌(百舌)だな、私って。

駄文ではあるが、せっかく書いたから公開しておく。

今年の4月あたりに、Facebookの投稿に、「大人の自殺者は減っているけれども、子どもの自殺者は減っていない」という記事が紹介されていた。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/04/20/suicide_n_16133662.html

この投稿に対して、いろいろなコメントが書かれていた。

「統計はいい加減である。不審死は自殺とカウントされない。遺書がなければ自殺と認定されない。毎年3万名が自殺すると言われてきたけれども、ほんとうは10万名くらいだろう。身元不明の自殺者は、死そのものが知られていない」とか。

確かに、確かに。

実質は緩慢な自殺であるような変死は多いだろう。

統計は事実の一部しか示さない。

こういうコメントもあった。

「抗うつ剤に依存して自殺するケースは、自殺者数にカウントされないのではないか。病死として判断されるのではないか」とか。

確かに、確かに。

薬害は多いのであろう。

だけれども、他人任せの患者があかんわ。

医者はビジネスだから、なんでもやるわさ。

なんで、他人が処方した薬なんか素直に延々と飲んでいられるのか不思議だ。

薬なんて、もともとが飲まないほうがいいんだから。

副作用があるに決まっている毒なんだから。

話を元に戻す。

子どもの自殺の数は減らないとかについてだけれども。

子ども時代って、だいたいが死にたいもんよ。

子どもって、周りが気をつけていないと、わりと簡単に死んじゃうよ。

あの子たちはこの世界の新参者なんで、生きていること自体が、相当にきついのだよ。

何も感じていないサルに見えて、すっごく傷つきやすいのだよ。

だから、子どもの一定数は、自殺する。

そーいうもんよ。

私も死にたいことばかりだった。

勉強もできてスポーツ万能で、いつも学校の花形で、ピアノもすぐ弾けるし、親はPTAの会長で……学校は小学校から名門私立校で、キャンパスは美しく清潔で快適で……というガキもいるだろうけれども。

が、普通の子どもにとっては、学校生活はストレスフルだ。

私は、普通以下の子どもであったので、学校生活にしろ何にしろ、非常に不快で重荷であった。

私は子ども時代に帰りたいと思ったことは一度もない。

冗談じゃない。

学校そのものが、建物は古くて汚くて臭い。

トイレは暗くて汚くて臭い。

掃除したって綺麗になりはしない。

汚れた雑巾で廊下をなぞっているだけ。

そこに毎日通わねばならない。

給食は必死に速く食べねばならない。悠長に食ってちゃいけない。

同級生たちは、育っている家庭の問題をそのまま反映してる。

意地悪だったり、小うるさい。

ひっきりなしにキーキー喋っている。

男の子は、ドアの開け閉めについても、ほんとうに鈍感で乱暴。

無神経と無作法が短パン履いていた。

女の子は、小学校低学年から、まるで「団地の奥さん」だった。

「団地の奥さん」というのは、すでに死語だな。

要するに昼日中から複数で立ち止まって延々と何時間も、しょうもない話をしている昔の専業主婦たちのことだ。

昔は、そういう風景を、あちこちで見かけた。

いまどきの主婦は、そんな優雅なことはしていられないが。

共働きが普通になった主婦には、そんな暇はないが。

学校の先生は、親ほど理不尽ではないけれども、まあプチ理不尽だ。

大人は、みんなウザイのだ。

わけのわからない怒り方をする生き物であった。

ともかく、私の子ども時代は、「冒険」の連続であった。

そういうストレスフルな日々のなかで、 小さなストレスにいかに立ち向かってクリアしていくかの 冒険の連続。

こういうことは親に言ってもダメだ、自分でちゃんと先生に言いに行くんだ。でも、職員室に行くの嫌だなあ。でも、行かなきゃ。

で、職員室に行って、ちゃんと先生に説明できた。良かった!できた!

ちょっと喧嘩して、3日間仲良しの何とかちゃんと喋っていない。何とかちゃんとは、これからも仲良くしていたい。私が悪かった。でも、謝るのいやだなあ。どうやって謝ろう。

その鬱屈と躊躇(ちゅうちょ)に勝って、ちゃんと謝ることができた。また仲良くなれた。良かった!謝るのって簡単だ!意外と簡単だった。これからは、自分が悪かったと思ったら、すぐ謝ろう!

大晦日なのに、家の障子紙(そういうものが日本の住居にはかつてあった)が古くて汚れてる。貼り替えないといけない。でも、親は忙しそうだ。私で張り替えることできるかな。

和紙と糊を買ってきて、ゆっくりゆっくりやったら、貼り替えることができた!私でもできた!!不恰好だけど、できた!

これから毎年暮れになったら、障子の張り替えは私がする!家の中を綺麗にできるんだ、私でも!

学校の帰りにお腹空いたから、「寿がきや」のインスタントのうどんを買ってきた。ところが袋に入った麺の一部が黒くなっている。

これは何?黴(かび)というものらしい。どーしてくれるの!食えんじゃないのよ。私がお小遣いで買ったんだぞ。

こーいうもの売ってちゃいけないと思う。ここの会社に手紙書いて、黴のはえた麺入りの商品を送っておこう。私は「寿がきや」が好きなのに残念ですと書いて送った。

そうしたら、私が学校にいる間に、「寿がきや」の社員の人が自宅に来て謝り、代わりの商品を置いて行ってくれた。オマケもつけて。何も知らない母親はビックリして慌てたそうだったが。

やっぱり、言うべきことはきちんと丁寧に言うべきだな。泣き寝入りしちゃいけない。

私にとっては、何でもない小さなことが、全部が非常に難しいことに思えた。

ひとつひとつ試みていくことだけで、非常に緊張し疲れた。

ない勇気を振り絞ってするしかなかった。

でも、これらの実にささやかなことができると、嬉しかった。

長じて、もっともっとややこしい問題が出て来た。

その度に、私を支えてくれたのは、幾多の「成功体験」だった。

「成功体験」というのは、ささやかなものでいい。

ちっぽけでいい。

オリンピックに出場したとか、すごい大学に現役で合格したとか、コンクールで優勝したとか、そんなご大層なことでなくていい。

自分としては回避したいストレスから逃げずに、クリアした、真正面から迎え撃った。

これが、私の成功体験。

そういう類のセコイ小さな小さな小さな成功体験でも、塵も積もれば山となる。

ささやかでちっぽけでも成功体験は成功体験だ。

成功体験は、自信を育む。

自分を頼む気持ちが習慣になる。

そんな自信でも積み重なれば、確信になる。

逃げなければいい。

堂々と迎え撃てばいい。

大丈夫だ!

不器用でも不細工でもカッコ悪くても鈍臭くても、ひとつひとつ丁寧にやって行く。

時間かければ、できる。

そうすれば、必ず突破できる。

この世の中は、自殺したくなるようなことばかりだ。

それでも、自分で選んで生まれたのではないから、自分で勝手に死んじゃいけない。

確実に絶対にいつかは死ぬので、慌てることはない。

それまで、いろんなストレスに挑む。

私にとっては、トイレの天井の電球を交換することさえ、できるようになれば成功体験だ。

餃子を綺麗に焼き目をつけて、フライパンにこびりつかせずに焼くことができるようになるのも、成功体験だ。

21年間の単身赴任生活を大断捨離して、名古屋に引っ越しを完了させたことも成功体験だ。

何しろ、私は、幼い頃には「知的障害児かもしれない・・・」と親を本気で心配させた。

それぐらいに、不器用で何もできない。

でも、他人と比べてもしかたない。

自分の人生だもの。

自分ができるようになればいい。

他人が10歳でできることを、64歳でやっとできるようになっても、いいんだ。

できるようになったという成功体験は、私のものだ。

これから、もっともっとシンドイ辛いことも起きるのだろう。

回避できないなら、丁寧に付き合う。丁寧に乗り越える。

ということで、自殺したい人へ。

ひょっとして、あなた、ご自分のことをえらく大層な人間だと考えてきて、ささやかなことを蔑(ないがし)ろにしてきたんじゃないですか?

と問いたい。

この世に流通するアホな幻想ではなく、他人との比較ではなく、自分の人生と自分の実感を大事にしてください。

頑張って生きてきた自分を認め受け入れ、愛(いと)おしんでください。

プー子から見える風景 (3) 下から目線はラクだ

本日は、2017年4月24日月曜日だ。

退職して、約4週間が過ぎつつある。

定年退職して何もすることがなく寂しいとか、暇を持て余して不善を為すとか、そういう事例を聞く。

そういう人って、現役時代から何もしていなかったんじゃないの。

そういう人って、職場でも不善を為していて、密かに迷惑がられていたんじゃないの。

生きて暮らしていくだけでも、結構やることばかり、考えさせられることばかりだけどね〜〜

でも、若い方々は、しっかり働いてください。

人間は食っていくためにカネのために働く。

これは辛くて悲惨で貧しいことに見えます。

が、普通の人間は、働くことによって学び、社会に参加し、そのことによって他の人々と繋がるのでありますよ。

半強制的に勤労せざるをえないって、ありがたいことだ。

嫌が応もなく学習させられる。鍛えられる。

そりゃ、貴族に憧れる気持ちはわかる。

(ほんとは、わからんけどね、私は。一度もないもんね、貴族に憧れたことなんか)

先祖代々の資産があって、家作があって、働かないですむのは、羨ましいでしょう。

(ほんとに私は羨ましくない。家作なんか管理が面倒くさそう)

でも、何もしないで食って行けるのは呪いだ。

よほどの才能の持ち主でないと、そういう立場でいると腐る。

試されない魂に、試されない身体に、試されない知力。

働かないで食っていける立場でもさあ、頭が悪ければ、児童ポルノDVDなんか集めて、小学生の女の子に性的虐待するぐらいのことしかできない変態になる。

大方の人間は、享楽や遊興程度のことで人生という時間が潰せるほど、いくらなんでもそこまで頭が悪くない。

働かないですむ立場を活用して、政治運動だの社会的活動だの慈善活動に集中できるような頭脳や気力や体力を持つ貴族ならいいけれども、大方の人間は、そこまで資質に恵まれない。

だからさ、大方の人間にとっては、働かざるをえなくて、それで勉強するというのが、一番いい。

働けるって恩寵だ、ほんとに。

働いていれば、何らかのスキルや知恵は身につく。

働くことによって、社会と他人と繋がることができる。

労働は、必ず誰かの役に立っている。

自分自身のためにもなるし、他人のためにもなる。

働けるってクールだ。

アルバイトを入れての勤労期間46年、正規雇用の立場での勤労期間31年を、良かったなと思う。

時にグチグチ愚痴りながらも働いてきて良かったなと思う。

働ける場があって、ありがたかったなと思う。

働くのが辛いときは、下から目線になってみるといいかもね。

自分が何もできない知らない無能の脳足りんだと認める。

無能の脳足りんなんで、仕事ができないのは当たり前だから、時間がかかるのもあたりまえ。

で、無能の脳足りんだから、不注意で不用心に決まっているので、失敗するのあたりまえ。

だから、しつこく念を押す。

カッコよくスピーディーに見せようとしない。

私は亀です、ノロマです、でいい。

どうせ、休日になっても、無能の脳足りんだから、享楽遊興に勤しむぐらいしかやれることもない。

ならば、週日にできないことを休日もタラタラやってていい。

こういう下から目線になるとラクよね。

私は、勤めの最後の1年間は非常に精神的にラクだった。

それは、遅ればせながら、自分がしてきたことに対する幻想が全部ぶっ壊れて、無能で非力な自分自身を認めて受け容れることができたから。

無能で非力なんだから、じっくりゆっくりやっていこうと思えたから。

無能で非力でも、時間をかけて念を入れれば、何とかなるだろうと開き直れたから。

できれば、30代で知りたかったな、こういう下から目線の生き方。

自分に見栄なんかはらなきゃよかったな。

もっともっと早くに、それに気がついていたら、もうちょっと丁寧な実質のある生活ができたのにな。

でもまあ、過ぎたことは、どうでもいいよん。

今は、楽しい。ラクだ。

無能で非力な自分の真実に気がついたあとだったので、無職ライフは嬉しい。

この徒手空拳ぶり、この何にもない状態こそ、私のありのままの正直な姿。

そこに、じわじわと学び、何かを加えていく。

することいっぱいだ。

プー子から見える風景 (2)

本日は4月7日金曜日だ。

金曜日の夕暮れは、なにやら空気がどんよりと鈍く緩んでいる。

人々の週日の労働の疲れと、週末を控えた解放感と安堵感が、集合的に集まって上空に昇り、空気を重くしているようだ。

不思議だ。

出勤しなくてすむ無職になっても、月曜日は開始〜〜の気分になるし、木曜日は疲労が溜まってくる感じになるし、金曜日の夕暮れは解放感があるし、週末は嬉しい。

慣性の法則ですかねえ。

プータローならぬ無職のプー子になってから、食材の買い出し日は週末ではなくなった。

週末は、どこもかしこも混雑する。

天変地異やテロや通り魔について考慮して、混雑は避ける。

右脚が不自由なプチ身体障害者としては、人様の邪魔にもなるので、混雑は避ける。

ゆえに週日の夫が仕事がない曜日に依頼して、マーケットまで乗せてもらう。

私は運転免許は持っていない。

私が若き日に運転免許を取らなかったのは、父が「あんたは無駄な集中力があるからダメ」と言ったからだ。

私から見ると、私と同じくらいにアホっぽく見えた妹には許可したのに、私には許可が出なかった。

今思うと、父はさすがに親だった。

子どものことは良く見ていたようだ。

私は、確かに何かに気をとられると、意識がそれだけに集中されてしまう。

周りが消える。

まあ、プチ発達障害の自閉症スペクトラム系は、運転なんぞしない方がいいかも。

私が人工知能による自動運転自動車に乗れる日がくるんかしらん。

歩いいて20分くらいのところに大型スーパーマーケットがあるにはある。

右脚をかばいつつ、そこまで歩いて、重い荷物や買い物カートを引きずって帰ってくるのは、非常に難儀だ。

そうまでして行っても、そこの食材は???だ。

なんで、命の次に大事なカネ出して、あんなの買わねばいけないか。

だから、タクシーさんの替わりを夫にやってもらって、某マーケットまで買い出しに行く。

夫に「あんたが名古屋に帰ってきてから食費がかさむ。エンゲル係数が上がる」と言われつつ。

福山の時は、イトーヨーカ堂のネット注文配達サーヴィスを活用させてもらっていた。

あれは助かったです。

お野菜は、「東京アイン・ランド読者会」のメンバーで、Facebook友だちの農家の方からテキトーに送っていただいていた。

これは名古屋に帰ってきても継続してお願いしている。

野菜の新鮮さが違いますからね〜〜〜

それはさておき、週日のお昼前とか午後に食材買い出しに行くようになって、あらためて気がついた。

高齢化高齢化と言われるが、ほんとうに高齢者ばかりだ!!

マーケットのお客さんたちも。

バス停で待っている人々も。

町を歩いている人々も。

ほんとに高齢者ばかりだ!

と、自分のことを棚に上げる私。

みなさん非常に元気である。

颯爽と町を歩いておられる。

私が乗せて行ってもらうマーケットは、名古屋ではそこそこ高級らしい。

名古屋では高級住宅街地域の中にある。

売っているお魚がいいので、私はそこに行く。

福山でも、脚が悪くなる前は、福山の飲食店が顧客である魚屋さんまで私はテクテク歩いていた。

瀬戸内海の海の幸が豊富な福山市でも、大手スーパーマーケットの魚はあかん。

お肉も、いいお肉専門店を求めて、テクテク歩いていた。

私は食うことには、プチこだわる。

つまらんこだわりだ。

すみません。

ともかく、そこのお魚はいいのだ!

ところで、高級マーケットだからして、お客さんたちが駐車している自動車が高級だ。

日産Cubeなんかに乗っているのは我が家だけだ。

日産Cubeは、外国人から見ると、すっごくダサい醜いデザインなんだってね。

そうかなあ。安くてシンプルでいいじゃん。

若い時に、私は夫に言ったそうだ。

「私がエラくなったら、ベンツをキャッシュで買ってあげるね!」と。

昔から、できもしないことを口走る私であった。

その高級マーケットの駐車場で高級な車から降りてくる奥さんたちは、奥さんではなく「マダム」風だ。

いっしょに来るご主人も、ノーテンキに無駄に身綺麗でお洒落だ。

加山雄三かよ。

たかがマーケットに来るのに、なんでそこまで?って感じだ。

雑誌から抜け出したみたいにファッショナブルに決めたご夫婦もおられる。

女性たちは、みな60代や70代くらいだが、お化粧もバッチリしておられる。

「アメリカ映画みたいだね〜〜」と私は感心する。

アメリカ映画に出てくる中高年のマダムの感じね。

「婦人画報」や「家庭画報」ほどclassyではないが。

しかし、60代や70代になっても、迫力のない重みのない風格のない、デブでも軽そうな奥様とご主人様ばかりだ。

これも、アメリカの上層中産階級の高齢者みたいだ。

平和と繁栄の時代に育ち老いた上層中産階級の人々は、「嬢ちゃんオバアチャン」で「オジイチャン坊や」になるんかな。

あの地域のあたりは、明治生まれの御先祖さんが頑張って資産を作って、その恒産で食ってきた人々が多く住むから、ああいう感じの高齢者が生産されるのかなあ。

立派なオバアチャンやオジイチャンにはなれないようだ。

タラタラと選び、フワフワとマーケット内を彷徨っておられる。

私はサッサカ選んで、サッサカとレジに並び、レジで精算してもらっている間にも、サッサカと買ったものを買物袋用のバッグに詰め込む。

まだまだ時間に追われる現役賃金労働者だった頃の癖が抜けない。

こういう高齢者の子どもの子どもが、「ゆとり世代」で今や社会の第一線で働くようになっている。

うーん、なるほど。

これからの少なくとも15年間から20年間は、日本にとって厳しい時代だ。

高齢者も、上層中産階級といえども、ぼんやりとフワフワと「嬢ちゃんオバアチャン」や「オジイチャン坊や」やってられなくなるだろう。

厳しい日々を自力で生き抜いた老人のみが持てる重みと迫力を、アメリカの先住民族の老人のような風格を、日本の高齢者も持たざるをえなくなるのだろう。

米軍からシリアがミサイル攻撃され、北朝鮮も軍事的制裁を受けるかもしれない。

中国の習近平さんが、その気じゃなくても、中国の人民解放軍の海軍がどう動くかわからない。

日中の軍事的衝突も起きるかもしれない。

日本って小さな島国じゃないもんね。

いっぱいの島で構成された国だから、その島の基点から200海里=370.4キロまでの排他的経済水域を入れたら、実質の領土は世界第六位の大国が日本らしい。

その排他的経済水域の海の下には資源がいっぱい。

その資源を活かすことができれば、エネルギー大国になれるんだ、日本は。

日本人が思っているより、日本は「約束された繁栄の地」だ。

中国人も韓国人も、日本が嫌いと言いつつ、いっぱい来るもんね。

だから、まあ軍事的侵略もありうるだろう。

いろいろなことを想定して、ババア時代を生き抜こうと心をあらたにした週日の午後のマーケットでありました。

縄文人で生きる

本日は2017年4月4日火曜日である。

432ヘルツにしたピアノ名曲集をiTuneから購入してiPadで聴きながら書いている。

普通はガチャガチャかしましく弾かれる傾向が強い多いモーツアルトの「トルコ行進曲」でも、432ヘルツだと、非常に柔らかい。

緊張が解けていく優しさだ。

432ヘルツの基本音調ねえ。

ドイツの教育家のシュタイナーが言ったそうだ。

http://oka-jp.seesaa.net/article/416393394.html

「432ヘルツではない基本音調の世界は悪魔を勝利に導く」と。

現代世界の基本音調は、440ヘルツなんだそーだ。

ロック音楽なんか代表だそーだ。

440ヘルツは魂に悪いらしいよ。

ということは、全てに悪影響があるよ。

アメリカのショッピング・モールで地元の高校生が集まってジャカジャカ悪さをするんで、試しにクラッシック音楽をモールのBGMにしたら、アホ馬鹿高校生がたむろしなくなったそーだ。

そのとき使用したクラッシック音楽の音調は432ヘルツだったのかもね。

だから、アホ馬鹿高校生が正気に戻ったのかも。

ヘルツHerzと言われても、私はサッパリわかりません。

432ヘルツの音は人間の身体の多くを占める水分にいい影響を与えるそーである。

ほんまかいな。

でも、なんとなくいいんじゃないの……これは……と感じると私は何でもやってみる。

やってみて長続きすれば、私にとって良いことだから、続ける。

長続きしなければ、私にとっては必要ないことだから、やめる。

違和感というほどのものでもなく、なんとなくピンとこないね……となれば、物にも場所にも人間にも近づかない。

私は、すこぶる知能指数が低い。

考えるのは苦手だ。

今まで生きてきて、熟慮の末に決めてきたことなど、ほとんどない。

決めるときは、瞬間的だ。

決めるのに長い時間がかかっているようでも、心の奥底では答えはすでに出ている。

決めて失敗だったと思うことはあっても、まあ、長い目で見れば、これで良かったんだろーと思う。

確かに数年後に振り返ると、あれで良かったと思う。

つくづく自分のことを原始人だと思う。

感覚的なことは、ガキの頃から好みは出来上がっていた。

どんな絵が好きか、どんな音楽がいいか、どんな文学作品がいいか、どんな料理がいいか、どんな部屋がいいか、どんな衣類がいいか、どんな人なら関われるか……

感覚的なこと、美的なことについては、芸術方面については、最初から好みが決まっているのだから、特に勉強する必要ない。

楽器はひとつもできないけれど、自分が弾きたいわけではないから弾けなくていい。

要するに右脳的なことはいいから、私は自分に足りない左脳的なことをしないといけない、と思った。

だから、好きでもないし向いてもいない語学とか、理屈っぽいことを敢えてやろうとしてきた。

もともとがダメな左脳を鍛えようと思って、職種もそのようなものを選んできた。

しかし、もともとが原始人だから、うまくいかなかった。

「なんか、どうでもいいよなあ〜〜こんなこと、私程度がグチャグチャと小賢しく小利口に計算してもなあ〜〜しょうもないよなあ〜〜」と、どうしても思ってしまう。

私が今年の3月31日までいた業界は、左脳優位系人々で構成されている。

お勉強のできる、口の達者な計算ばかりしている人々で構成されている。

現代世界の現代社会は、そういう人々が多い業界ほど、そうでない人々が多い業界より優れているし上品ということになっている。

言葉の巧みさと屁理屈と打算と保身と言い訳と責任回避で構成された業界だ。

ほんとうは、こういう業界の方が卑しいしゲスである。

しかし、現代世界の現代社会は、「言葉の巧みさと屁理屈と打算と保身と言い訳と責任回避能力に秀でて、卑しさとゲスさ」がプラスされれば、無敵なんである。

官界、政界、財界、医療界、学界……

どんな業界にせよ、職を得て食ってこれたことは感謝している。

しかし、はっきり言って、つまらん業界だった。

歓びのない業界だった。

真心とか至誠とか情熱とか人間的魅力とか迫力には、出会えない業界だった。

そんな原始的なものには出会えなくて当然か。

まあ、そう言っている私自身に、真心とか至誠とか情熱とか人間的魅力があるのか?

原始人といえば、日本人の45%とケルト人(アイルランドとかスコットランドとかウエールズの先祖、先住民のこと)には、氷河期前の人類の遺伝子が残っているそうだ。

日本列島の太平洋沿岸とアイルランドとかブリテン島の北部にいた人類だけは、氷河期でも生き残ったとかで。

同じ東アジア人でも、この古い氷河期前の人類の遺伝子は中国大陸や半島生まれの人々にはないそーだ。

ほんまかいな。

まあ、おそらく、私もこの旧人類原人といいますか、原始人といいますか、石器時代人といいますか、縄文人の遺伝子の持ち主なんだろう。

なんとなれば、この遺伝子の持ち主は、デジタル的に物事をとらえるのではなく、論理的な積み重ねから物事を理解するのではなく、アナログ的に、大雑把に、本質的に把握するそーだから。

私でんがな、それは。

たまに夫が私に言う。

「あんたは狡い。何も考えずに勘だけで生きてきたアホのくせに、得ばかりしてる」と。

そーでもないっすよ。

原始人が現代社会で生きてくるのは大変だったんすよ。

ともかく、原始人としての、縄文人としての素地で生きていけるようになった今は、ホッとしている。

自宅は私の洞窟だ〜〜

洞窟でも水洗トイレでウォッシュレットがついてなくてはいけない、ひ弱で根性なしの縄文人でございます〜〜〜

 

プー子から見える風景 (1)

本日は2017年4月1日土曜日である。

本日から正真正銘の無職である。

プータローならぬ「プー子」になった。

Facebookの自己紹介の勤務先を「自営業 フリーター」にした。

また、見栄をはっちゃって。

ただの無職じゃ。

うわあ〜〜それにしても嬉しい。

4月になっても福山に戻らなくていいんである。

入学式やオリエンテイションに出なくていいんである。

「あれしろ」「これやれ」という仕事指令メイルは来ないんである。

ほんとは昨日の3月31日で退職だけれども、いち早く3月25日に名古屋に戻ってきてから、実質的「プー子」ライフ1週間経過。

いいんかしらん。

働かずにメシ食ってていいんかしらん。

貧乏性の私は、罪の意識に襲われる。

「長い間、働いてきて、お疲れさま!」と、友人知人に言われる。

そう言われると、ただ働いてきただけで、実質的に何か意義あることをしたわけではないので、ちょっと辛い。

と思いつつも、始まったばかりの「プー子」ライフは快適だ。

まず、時間ができるから、働かなくて疲れないから、料理ができる。

お野菜いっぱい摂取しましょう〜〜♬

下の写真は、菜花瞬間蒸しだ。

クックパッドに載っていた。

フライパンを相当に熱してオリーブオイル入れて、そこに菜花をぶち込んで、そこに熱湯をぶち込んで、蓋して蒸して、できあがり。

超簡単で美味しい。

明日出勤しないですむから、ニンニクいっぱい使いましょう〜〜♬

明日出勤しないですむから、天気なんか台風でも雪でも富士山噴火でも何でもいいですがな。

外食しようにも、大阪や福山に単身赴任が21年間だったので、そもそも最近の名古屋のレストランについて知らない。

福山のように安くて美味しいレストランがどこにあるのか知らない。

外食しないですむのは、私のような、元が引きこもり性分のひとり遊びしかできない不器用派にはいい。

しかし、「プー子」になると、感じ方が違ってくるものだ。

NHKのニュースを眺めつつ、のんびりお家夕ご飯なんて、なんて優雅にババアチックなの!

感動してしまう。

ニュースに映し出される若い労働者諸君の姿に、「ありがたいなあ……」と思う。

みなさんが働いて「長期掛け金」を払ってくださるので、私の年金も支給されるのであります。

6月にしか振り込まれないけど。

4月と5月分が、6月に支給されるんだってさ。

年金って、2ヶ月に一度支給されるんだってさ。

で、支給される15日に年金を銀行口座から下ろして、高齢男性は風俗に遊びに行くんだってさ。

いい話だわ……

元気でいいわ……

2ヶ月に一度の悦楽。

そう言えば、昔の教え子で、絶対に需要がある業界だし、消費者は正確な情報を切実に求めているからという理由で 、「風俗店情報雑誌」の編集者になろうとして、内定までもらったのに、ならなかった人がいる。

なんでか?

親御さんがカンカンに怒ったから。

「親類に言えるか!編集者は編集者でも風俗店情報誌なんて!」ということで。

まあ、親御さんのお気持ちもわかる……

が……絶対に需要があり、消費者は正確な情報を切実に求めているから、と考えたご子息はエライですよ。

年金の話に戻る。

年金は、年金といえども、少額といえども、不労所得よ。

憧れの不労所得〜〜〜〜♬♬

「プー子」になってこそのワクワク感。

それはさておき、NHKニュースに映し出される保育園の入学式の映像に、「ありがたいなあ……」と思う。

こうやって、若いご夫婦がお子さんたちを産み育ててくださるので、日本にも未来がある。

労働者の再生産ができる。

私なんて一匹も産んで育てられなかったですよ。

申し訳ないです。

一度も妊娠しなかったんだから、しょーがねーよ。

産婦人科って行ったことないもんね。

保育園ができると騒音が嫌だとか言って、保育園建設に反対する老人がいるそうだが、意味わからん。

お前ら、はよ死ねや。

「プー子」になると、朝なんか、たれたれ新聞を読んでいられる。

朝刊に挟まれた大量の広告の一枚一枚を無意味にチェックする私。

「広報なごや」なんて、名古屋市が名古屋市民全所帯に毎月配布する情報紙なんて、初めて読んだ。

そういえば、福山の自宅にも、市が発行する広報紙が配布されてたな。

読んだことなかったけれども。

いろんな催し情報に、無料法律相談所紹介に、福祉情報満載。

「市営住宅 入居者の先着順募集」

「民間賃貸住宅高齢者向け優良賃貸住宅入居者募集」

「特別養護老人ホーム入居者募集」

「国民年金の学生納付特例制度」

「ひとり親家庭等生活支援事業」

「DV被害者のためのサポートグループ事業参加者募集」

「児童手当の申請忘れずに」

「児童扶養手当支給月額の変更」

児童手当と、児童扶養手当は 違うのか?

「里親募集」

「産婦健康審査の助成開始」

「ボランティア市民後見人候補者養成研修説明会」

うわああ〜〜〜勉強になるわああ!!

いろんな福祉制度がある。

こういう情報を活用してこそ住民税を払う価値がある。

が、タップリ住民税を払っている人間は、こういう地方自治体の広報紙を読んでいるような暇はない。

そういうもんよね……

まあ、富の再分配にも、いろいろな方法があるものだ。

公務員批判は世に多いけれども、行政って、いろんなことやっているんだね……

「プー子」になって、初めて見える風景いろいろ……

「プー子」ライフは始まったばかり。

ジャンクフード天国

本日は、2017年3月27日月曜日である。

25日土曜日に福山から名古屋に帰ってきた。

これで当分は福山に行くことはない。

31日の大学での「離任式」は欠席だ。

行く気力なし。

いよいよ本格的に名古屋定住生活だ。

それにしても、疲れた疲れた疲れた疲れたくたびれた。

2月の下旬からずっと続いていた研究室と福山の自宅退去引っ越し作業は、まだ完全には終わっていない。

名古屋の自宅の一室には梱包が解かれていない段ボール箱が、まだ残っている。

まあ、それにしても終わったんだよね、終わった。

ほんとに終わった。

25日土曜日の午後1時頃に名古屋に戻ってから、名古屋駅に迎えに来てくれた夫に頼んで行ったのは、熱田神宮近くの「カーマホームセンター」だ。

なんで、カーマホームセンターか。

名古屋が誇るB級グルメというか、限りなくジャンクフード的ラーメン店「すがきや」が出店しているからだ。

「すがきや」は、名古屋の老舗である。

私がガキの頃には、すでに「すがきや」は存在した。

1960年代には、すでに身近なものであった。

「すがきや」のラーメンのスープの味は、名古屋地方で生まれて育った人間をガキの頃に回帰させる。

特に久しぶりに食すると心が震える。

家に帰れば、亡き両親が待っているような錯覚を覚えさせる味である。

なんと説明するべきか……

あくまでも庶民的なチープな、化学調味料いっぱい風の濃厚な味である!

「すがきや」のラーメンこそ、名古屋のソウルフードである。


きしめんも美味い。

味噌煮込みうどんも美味い。

鰻の「ひつまぶし」も美味い。

味噌カツは、よくわからん。

なんでトンカツに甘い味噌なんだ?

あんかけスパゲティは、もっとよくわからん。

あのお店は、ご近所さんであるが、行ったことないよ。

名古屋生まれの人間として堂々と私は宣言する。

名古屋に遊びに来られても困るんよ。

是非とも見せたい場所はないんよ。

名物と誇りたいような食べ物もないんよ。

きしめんも、味噌煮込みうどんも美味しい。

鰻の三段活用「ひつまぶし」も美味い。

が、わざわざ他所から来た方々にお薦めしたいようなもんではない。

自慢するなんて、とんでもない。

「名古屋めし」なんて呼ばんといておくれやす。

「ブスで田舎もんだで、しかたないがね」と、ナゴヤ・フードは恥ずかしがっている。

名古屋人は 、「すがきや」のラーメンにいたっては、他国人に認知されると、かえって辛い。

「私ら、名古屋の庶民だけが理解できればいいんよ。私らが密かに愛していればいいんよ」の気持ちで、他国者の目から「すがきや」ラーメンを守り抜きたいのである。

「すがきや」は食品メーカーでもあるので、南大阪あたりのスーパーマーケットでも袋入りの「すがきやラーメン」は売っている。

大阪は和泉市の桃山学院大学勤務時代は、袋入り「すがきやラーメン」をこっそりと買って食っていた。

が、やはり、「すがきや」ラーメンは名古屋の場末のお店で食うのが1番だ。

疲れ切った時には、手の込んだきちんとした料理など食いたくない。

カレーライスやオムライスでさえ手間がかかり過ぎ。

25日の土曜日のお昼過ぎに名古屋に帰って来た私は、遅いランチとして、無性に「すがきや」のラーメンを食いたかった。

だから、夫に熱田神宮近くのカーマホームセンターに車で連れて行ってくれるよう頼んだ。

なんで、「熱田神宮近くの」カーマホームセンターか?

あのあたりは、戦前からの旧名古屋地区で、場末は場末でも穏やかだ。土曜日でもさほど混雑していないんよ。

もっと本格的に場末の、名古屋南部の生活保護受給者が多く居住している地域のカーマホームセンターにも「すがきや」は出店しているが、名古屋駅から自動車で行くには、ちょっと遠い。

と思ったけど、「すがきや」のカウンター前には順番待ちのお客さんが多かった。

家族づれのガキどもが、「すがきや」のラーメンのあとに「すがきや」のソフトクリーム舐めてた。

ジャンクフードのフルコースだ!!

至福の土曜日だね!

「すがきや」ラーメンのあとに、「すがきや」ソフトクリーム!

やはり、「すがきや」は、名古屋のソウルフードだ。

1番安い「すがきや」ラーメンは320円だ。

ラーメンの表面に浮かんでいる焼豚もどきみたいな薄い肉状の丸いものの枚数が増えるごとに値段が高くなる。

大盛りで具が増えて価格が高くなっても、せいぜいが480円だ。

「すがきや」は「寿がきや」と表記した、かつては。

最近は、「スガキヤ」と表記する。

だが、私にとっては、永遠に「すがきや」だ!

文句あるか!!

ないがね。

「すがきや」は、繁華街のお洒落でトレンディなショッピング・モールに出店されるような類のお店ではない。

パルコや高島屋には絶対に出店されない。

高級「すがきや」レストランも、名古屋の繁華街にはある。

でも、あんなん邪道よ。

「すがきや」は、場末のホームセンターとか、ちょっと乱雑小汚いスーパーマーケットの一角のフードコートに出店されていてこそ、「すがきや」である。

ああ、これからは、いつだって「すがきや」のラーメンを食べることができる!

お目当の「すがきや」で、肉いりラーメン(焼豚もどきが5枚も乗っている!)400円を食ってから、私は、入り口近くで4袋1000円で売っていた「昭和のお菓子」を物色した。

「よこづな」って知ってる?

下の写真のお菓子だ。

お菓子なんて上品なもんじゃない。

バリバリの駄菓子だ!

ガキの頃に、いつもポリポリ食ってた駄菓子だ。

久しぶりに、「よこづな」に再会し、私は歓声をあげた。

疲れ切っているときはジャンクフードに限る。

嬉々として、私は「よこづな」4袋を買った。

それから、出口の近くの店舗で売っていた「たこ焼き」8個と、「ミックスお好み焼き」1枚を買った。

名古屋人は、「たこ焼き」に対して煩くない。

大阪人は、たこ焼きの中にタコが入ってないと怒る。

大阪人は、中はトロリとしているが、外はカリッとカリカリに焼きあがっているたこ焼きを良しとする。

名古屋人は、小さい球状の小麦粉の塊が熱ければ、それでいい。

中身なんて気にしない。

ほんとにタコが入っていると、ビックリする。

「あ!すごい!タコが入ってる!」って。

たこ焼きもお好み焼きも、大阪人以上に名古屋人が愛するジャンクフードである。

帰宅した私は、たこ焼きとお好み焼きを食い、ソファにひっくり返って、毛布をひっかぶって昼寝した。

大きないびきをかいていたそーである。

うーん、そういえば、耳元で何かが煩かったような気がしたが……

で、夜は、Amazonから届いていた『シン・ゴジラ』DVDを鑑賞しつつ、「よこづな」をいっぱい食ったった。

「歯科室むつてっせん」で税抜き70,000円で入れてもらったジルコニア・インレーが入った左下奥歯で、バリバリ噛んだった。

噛んだるぞ〜〜!

税抜き70,000円もしたんだぞ〜〜噛んだるぞ〜〜!!

済ませるべき事の全てを、今度こそほんとうに済ませて、福山から名古屋に帰った3月25日は、私にとってジャンクフード天国の日だった。

子ども時代に戻ったジャンクフード食べ放題の日だった。

福山撤退!

本日は2017年3月16日木曜日だ。

無事に、3月13日月曜日に研究室も福山の自宅も退去できた。

前日の12日など、「こんな状態で、ほんとに引っ越しできるんかしらん」とチラッと不安になったが、何とかなった。

下の写真をご覧ください。

6年間使わせてもらった研究室の原状回復完了!

机の上や本棚に置いてある物品は、研究費で購入したものか、設置者の福山市役所から支給されたものだ。

市役所には減価償却という概念はないので、何年使用しても、ちゃんと返却する。

まだ使用できるもの、消耗していないものは返却する。

パソコンのキーボードの埃取りブラシ500円も返還。


福山で借りていた(職場近くの)3LDKの住居に置かれていた家具も電化製品も全て処分した。

21年間の単身赴任生活で使用してきたベッドもテーブルも椅子もデスクもソファも本棚も何もかも。

食器もヤカンも鍋もフライパンも、カーテンも全て処分した。

渡邊明先生のFacebookお友だちである福山市内の廃品処理・リサイクル会社の「かこ川商店」さんに依頼したら、全て持って行ってくださった。

研究室の書籍を含む不用物(ヒーター、加湿器、ぶっ壊れた掃除機、日傘、湯沸かしティファール、マグカップ数個、小さい扇風機とか)も、全部持って行ってくださった。

ありがとうございます〜〜

「かこ川商店」さんは、社長さんもスタッフの方々も素晴らしいです!!

おかげで下の写真のように、借りていた部屋の原状回復もできた。


引っ越し会社の現場作業員の若い人たちにもお世話になった。

ひとりじゃできないわ、ほんと引っ越しなんて。

みなさまのおかげでございます〜〜

ですわ、ほんとに。

アホな私も謙虚にならざるをえない引っ越し。

最後に部屋を出るときには感慨があった。

南向きの11階のベランダから朝晩眺めていた福山の街の風景を胸に刻んだ。

ラクなことなんかひとつもなかった福山ライフ。

だからこその感慨だ。


上の写真に写っている山の向こうに鞆の浦があるんかなあ。

ともかく、夫を含めた多くの人たちの手を借りて福山での引っ越し作業を完遂させて、私は3月13日の午後9時に名古屋駅に到着した。

で、翌日は、これまた引っ越し業者さんやエアコン取り付け業者さんなど、多くの人の手を借りて、福山の自宅や研究室から持ち込んだ書籍や衣類や書類を名古屋の自宅に運び込むことができた。

まだダンボール箱10ほどが、中身も確認されぬままに放置されている。

これから、あらためて、さらなる断捨離をする。

でも、ともかく私の「大引っ越し」は終わった。

もう30年くらいは引っ越しはしたくない。

体調ガタガタ。

歩くのさえ難儀。

雑巾掛けとかの水仕事も多くて、軍手使わずにいろいろ持ち運んだから、指先はアカギレ、手指は強張り荒れ放題。

とはいえ、正式に事務局に研究室を引き渡す儀式(?)もある。

卒業式もある。会食の予定もある。転出届も出していない。

福山で私が出逢った名歯科室「むつてっせん」で虫歯治療のあとにジルコニア・インレーをはめてもらう予定もある。

ジルコニアよん。クラジミアじゃないよん。

ジルコニアは高いけど硬いから丈夫。

もう虫歯にはなりたくない。絶対にいや!!

自分への戒めのためにジルコニア!

カネ出すと、懲りるからね。

カネ出すと、厄落としになるからね。

ということで、だから、来週は福山に戻りホテル暮らしをする。

ともかく私の単身赴任生活は終わった!

名古屋での定住生活が始まった!

新幹線は好きだけれども、新幹線で労働現場に戻らなくてもいい!

なんという安堵感。

なんという解放感。

こんなこと言うと、生活費獲得闘争の真っ只中にいる若い人たちに足蹴にされるだろうけれどね。

私は、もう賃金労働したくないの。

雇用されて働きたくないの。

貧乏でもいいから、働きたくないの。

大学入学してから、ずっとアルバイトしてた。

大学院生時代も、短大の専任教員として採用されるまで、ずっとアルバイトはしてた。

計46年間は賃金労働に従事してきた。

もういいよ。

カネ使って物を買っても、みな捨てるんだ。

本なんて買っても読み切れない。

名著と言われるもの、古典と呼ばれるものを読んでも、わからない。

理解できて読んだつもりでも、中身を忘れる程度の頭よ、私は。

ほんとうに知りたいことは、どこにも書いてない。

そもそも、ほんとうに知りたいことって何?

そんなこと、私にあるのか?

64歳の春になって、たどり着いた地点は、「私はトコトン馬鹿で、無駄なことばかりして、無駄な買い物ばかりしてゴミを生産してきただけ」という認識。

一時は、自分でも天職じゃないかと妄想錯覚したこともあったけれども、もう教師もやりたくない。

私には人様に教えられることなんか、ひとつもないと教師生活を終えた今となって、よくわかる。

何もない私。

Nothing!

Less than zero!

それでも食ってこれたんだから、運は良かったよな。

福山撤退の疲労と後遺症のために脳も心もグジャグジャだ。

いいじゃないの、less than zeroでも。

最低の地点から生き直せばいいんだ。

チームワークを学んだ個人主義者

本日は、2017年3月11日土曜日だ。

6年前の2011年の今日に、私は大阪府和泉市から広島県福山市に引越してきた。

で、2017年3月13日に名古屋に引っ越す。

引越し準備作業は、まだまだできていない。

それでも、今日と明日でなんとかなる。

なんとかするしかない。

研究室の退去準備は、ほぼ終わったし。

研究室の備品の拭き掃除も終わったし、掃除機もかけたし。


本日の午後6時から9時の間に、長野県の古書店に送る不要図書を28箱も、クロネコヤマトさんが集荷に来てくれる予定だ。

いやあ……今度の引越し作業は、きついきついきつい。

懲りた懲りた懲りた。

住居が2つあることをいいことにして、物を溜め込み放置してきた21年間よ。

去年の春から断捨離を重ねてきても、まだまだある廃棄物。


(28箱の書籍とDVDとCDを売ります〜〜Value Booksさんへ)

ところで、3月7日火曜日の晩は、英語科目担当スタッフとの送別会だった。

会場は、私の大好きな福山の名店「なかくし」さんである。

私にとっての福山市立大学における同僚というのは、実質的には英語科目担当スタッフだった。

英語科目担当スタッフではない同僚と会うのは教授会や委員会ぐらいなものだ。

いつも会って言葉を交わし連絡しあうのは、英語科目担当スタッフだった。

英語科目担当スタッフは、正規雇用教員の私と、特任教員さん1名に、アルク教育社から派遣されている常勤講師さん1名と非常勤講師さん2名だ。

他に非常勤講師の方々が3名ほどいるが、主たるスタッフは以上の5名だ。

その5名がチーム組んで、福山市立大学の英語科目を運営してきた。

正規雇用教員と契約雇用教員と派遣講師が協力して運営してきた。

雇用形態が違うスタッフが協力して、運営してゆくということは、なかなか難しい。

メンバーが女性ばかりだと、機械的な上意下達では機能しない。

女性というのは、基本的に心の奥では男性を馬鹿にしている。

だから、男相手だと、いくらでも面従腹背して、テキトーに男をおだてて立てて、テキトーにやれる。

女性どうしでは、それは通用しない。

女性どうしでは、嘘や誤魔化しは通用しない。

女性は、良くも悪くも、男性ほど単純ではない。

女性は自分に対する敬意が足りないことを、すぐに見抜く。

女性は自分の働きをきちんと評価しない人間に心を許さない。

女性どうしで働くときには、ほんとうに「真心」が必要である。

「誠」が必要である。

同性の女性とつきあうより、男性とつきあう方が楽だと言う女性は少なくない。

そりゃそうだろう。

男は単純だし、まともな男ほど女に手加減するからね。

私は、女性とつきあう方が好きだ。

女性は、嘘の多い誤魔化しの多い同性はすぐに見抜く。

女性は、その種の同性には絶対に気を許さないし、それを隠すこともない。

だから、狡猾な不正直な女性には女性の友人はできない。

いつでも手加減して甘やかしてもらえなければ、お守りしてもらえなければ立っていられない女性には、女性の友人はできない。

女というのは厳しい生き物なんよ。

それだけ真面目なんよ。

女が誠実だからこそ、世の中はちゃんと回っているんだぞ!

幸いにも、福山市立大学で共に英語科目を担当することになった女性たちは、質のいい人々だった。

基本的に善意であり、勤勉であり、公平に物事を見る姿勢を持っている。

敬意をちゃんと示すこと、評価して感謝すること、公平に接すること、情報を共有すること、目標設定を明確にすること、目標達成への方法についてコンセンサスを得ること。

以上のことを守っていれば、問題なく仕事は進行した。

もちろん、水面下では葛藤もある。

みな負けず嫌いだもの。

最初の数年間は、気心も知れなかったし。

みな人柄が良くても、軽い小さいトラブルは起きる時は起きる。

そのような小さなトラブルをいくつか通過して6年もすれば、互いの気質への理解もできて、互いに許容しあえるようになる。

やっとそこまで来たところで私は退職だ。

長年の間、他の大学で自分のペースで授業運営してきた私にとっては、福山市立大学の英語科目運営をチームでこなすことは面倒くさいことではあった。

いちいち話し合い、情報を共有しあい、確認しあうのは面倒くさいことだった。

しかし、ひとりの力より、ふたりの力や3人の力や複数の人たちの力は大きい。

目標が明確で、その目標に向かう手段が明確に当事者たちに共有されていて、メンバー間に信頼があれば。

その意味で、チームで担当科目を運営するということから、私は大いに学んだ。

随分と、私は彼女たちから助けてもらった。

あ、そうだ、福山市立大学の英語科目スタッフには、男性もいたな。

英国人の専任講師がいた。

まあ、こいつは関係なかった。

TOEIC IPテストの試験監督をしているときでさえ、「なんで僕がこんなことを……」とブチブチ英語で文句言っている。

チイチイパッパの英会話しか教えられない専門も何もない奴が、ゼミの担当もできない奴が、何を言っているのか。

日本の大学の正規雇用教員のくせに、30年近くも日本に住んでいるのに、日本語ができない奴が何を言っているのか。

解答用紙を配布するぐらいのことは黙ってやれ。

入試の時も、「なんでこんな難しい問題を出すんだ、僕に聞けばいいのに……」と文句を言っている。

ある大学の英語の入試問題を、その大学の英語担当教員が作成することが明々白々であるのは危険だ。

問題漏洩の標的になったりとか。

特に英語担当教員の数が非常に限られている場合は。

それを避けるために、英語担当教員は英語の入試問題作成にはタッチしない。

ということは規模の小さい大学では当然の配慮だ。

ということも還暦にもなっても、わからんのか……

私も説明してあげる親切もないし。

親切にすると、つけあがるからなあ。

福山市も不思議な人間を採用したもんだ。

それはさておき、ともかく、6年間の私の福山市立大学ライフの多くの部分は、彼女たち英語科目担当スタッフに負ってきた。

面倒くさいことを通過してみると、私が得たものは大きかった。

彼女たちのサポートのおかげで何とかやってこれた。

感謝感謝です。

個人主義者であり、マイペースでしか仕事をしてこなかった私は、彼女たちのおかげでチームワークを学ぶことができた。

共に働くということの大切さを学んだ。

リーダーとして無能であった私を、英語力もかなり怪しい私を、優秀な彼女たちは随分と助けてくれた。

ありがとうございました〜〜🎶🎶

彼女たちは、私にプレゼントまで用意しておいてくれた。

そんなんいいのに…高価なのに……

シャネルの絹のスカーフと、ドバイ土産(スタッフのひとりがテニスが好きでドバイまで見物に行く)のカシミアのショールだ!

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シャネル〜〜!!

ドバイ〜〜!!

どちらも私の大好きな色である!!

素敵な色合いだ!!

ありがとうございます〜〜🎶🎶

大事に大事に愛用させていただく。

私の場合、シャネルのスカーフよりも、名古屋は大須のアーケード街あたりで購入した980円のストールでいいんですが。

首にグルグル巻いて「中村主水スタイル」が好き。

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「なかむらもんど」って知ってる?「必殺仕事人」ね。

引越しが終わったら、シャネルやドバイのスカーフを「中村主水スタイル」でグルグル首に巻いて早春の街に出よう〜〜🎶🎶