あなたの細胞は全てを記憶している?

本日は2017年11月14日火曜日である。

雨だ。

冷たい雨に打たれて〜〜街をさまよおおったわ〜〜♬♬

ところで、先日の11月12日日曜日に中学の同窓会に行った。

1952年4月から1953年3月生まれの同窓会である。

50年ぶりに中学の同窓生たちに会った。

女性は、みな旧姓で呼び合う同窓会。

年賀状のやり取りをしている女性は1人だけいて、互いの結婚式にも出席しあっていた。

それでも久しぶりなので、彼女に会っても瞬間にはわからなかった。

でも白い肌の綺麗な点が変わらず、すぐにわかった!

彼女も私がわからなかった。

名乗ったら、「面影が残ってる!!」と言われた。

面影ってさあ……

男性は1人以外は、まったくわからなかった。

みんな似た顔のオッサンに見えた。

名前を言われてもわからなかった。

わかったのは、番長やってたゴツい体つきの男性だけだった。

顔が同じだったから。

中学生時代から迫力あるおっさん顔だったんだな。

ならば、当時は怖かったはずだ。

私は、50年ぶりに再会した同窓生を大いに幻滅させたようだ。

「太っちゃって!!もっと痩せなきゃ!!」と馬鹿にされた。

出席者の中の数人が中学の卒業アルバムを持参していた。

そのアルバムの集合写真に写っていた私は確かに非常にホッソリしていた。

顔も細くて小さい。

ありゃ……これでは誰も私がわからないはずだ。

けっこう可憐な(美)少女だったんね、私は。

ほほほほ。

ここ20年くらいは私は「チャーチルみたいになって!!」と家族に罵倒されてきている。

なんだよ、チャーチルって。ヤルタ会議に出たことないぞ。

最近は、「せめてペギー葉山でいてちょーらい」と言われている。

意味不明だ。

私は度重なる引越しのために、中学の卒業アルバムも、高校の卒業アルバムも、大学の卒業アルバムも消えてしまって久しい。

母の死後にサッサと実家を業者に依頼して解体してもらった。

ついでに実家の家財道具も全部処分してもらった。

1998年当時で200万円ちょっとかかった。

仕事が忙しくて、実家の家財道具の整理とか自分でする時間も体力もなく、業者に丸投げした。

そのときに処分してもらった物の中に、卒業アルバムの類いは入っていたのだろう。

しかし、私が生まれる前の父の実家に遺されていたアルバムや自分の子供時代のアルバムは、まだちゃんと手元にある。

大事に保管してある。

ということは、つまり、1998年当時の私にとっては、卒業アルバムなど無価値であったので、持ち出さなかったんだな。

かわいそーな卒業アルバム。

でもやっぱり、卒業アルバムは、今でも私にとっては無価値だ。

学校なんて、私には通いの緩い刑務所だったので、学校時代のことはどうでもいいのだ。

真の人生は学校から解放されて始まる。

ともかく、「同窓会」というのは、不幸な人や問題を抱えている人は出席しない(と思う)。

仕事で多忙な場合も週末はへばっているので出席しない(今までの私がそうだった)。

だから、先日の「同窓会」も、出席者はそこそこ余裕のある幸せな人たちだ。

だから、同窓会そのものは和気藹々と明るく楽しいものであった。

ひとりひとりの自己紹介と近況被告のあとには、カラオケも出た。

卒業後にスクールメイツに入団していて、今でも「営業活動」して行事のあるときに歌っているとかいう女性は、カラオケで非常に巧みに演歌を歌い喝采を浴びていた。

スクールメイツってご存知ですか?

昔、歌番組が隆盛で、歌謡曲全盛の時代に、歌手の後ろで踊っているグループがいました。

某芸能プロダクションが公募で選んで結成した若い人たちだけのダンシング・チームです。

歌手やタレントの登竜門でした。

かの「キャンディーズ」もスクールメイツ出身だ。

なあああーーーんと、私の妹も入団試験を受けようとしていた。

オーディション時間と会場のお知らせ葉書が届いているのを私が見つけて、母親に言いつけて、阻止した。

アホか。芸能界に入れるような器量か!!

地元のミスコンでさえ、予選にも残らんわ。

それはさておき。

スクールメイツかあ!!

へーーあの中に同窓生がいたんだ!

カラオケといえば、私が中学生の1960年代後半にはカラオケはなかった。

インターネットもなかった。

携帯電話もスマートフォンもなかった。

大学進学率は30%もなかった。

女性は進学でも、短期大学がほとんどであった。

当時の一流企業は女性社員は高卒しか採用しなかった。

だから、私の同窓生の女性は高卒で丸紅飯田とか伊藤忠とかに採用された。

そこで知り合った人と職場結婚して寿退社して、専業主婦になるのが普通だった。

東京三菱UFJは合併していなくて、東京銀行と三菱銀行と東海銀行と三和銀行だった。

1ドルは360円で固定されていた。

TVはモノクロームだった。

地上波しかなかった。

NHKと「朝日新聞」は信頼されていた。

トイレは、やっと水洗トイレになった。

電話は普及しつつあった。

クーラーが家に来た時は大喜びした。

昭和40年代の前半だった。

東名高速道路が開通したのは1968年昭和43年であった。

先日の中学の同窓会に出席し、同窓生の話をいろいろ聴きながら思ったことは多かった

そのひとつは、「人間の資質は中学の2年や3年で全ては出ているのかもしれないということ」だった。

カラオケで歌う元同窓生に拍手しながら、私は、今の私自身の64歳の目で、記憶の底から浮かび上がってくる当時の同窓生を眺めてみた。

すると、現在の姿は予想外ではないと感じた。

大家族に嫁し、お嬢さんたちを育てながら、義理のご両親や、義理の伯母さんを全てきちんと介護して看取ったAさんは、中学生の頃からおおらかで親切で人間が大きかった。

結婚時点で、独身の大伯母さんがいることは知っていたので、長男の嫁の私がお世話するのが当然だと思っていた。でもまあ、お姑さんは、なかなか気難しい人で難儀したと、笑顔で語っていた。

でも、その目は潤んでいた。

一時期は大変だったに違いない。

Bさんは、永平寺系列の大きなお寺の住職夫人であるが、14歳時点ですでに、情緒安定した落着きのある女性であり、色白な丸顔が実に温厚で品があった。

感情を顔に出さない静かな笑顔で、檀家の方々ともうまくお付き合いしておられるのだろう。

他県某市の共産党選出の市会議員を勤めるCさんとは、別のクラスだったので話したことはないが、私にとっては印象に残る人だった。

あの年頃の女の子のキャピキャピしたところが微塵もなく、尋常でなくマイペースであり、少女時代から安定感に満ちた女史風であった。

「マルクスの『資本論』読みましたかあ?」と私は質問してみた。

「読んだことないです」と即座に返事が返ってきた。

正直な人だ。さすが私の中学の同窓生。

小賢しく「読んでも歯が立たなくて……」と言うカッコつけさえしない。

『資本論』を読んで理解できる人が、私が出た中学にいると思えんわ、ほんと。

成績が一番良かった男子のDさんは、その後国立大学に入り、卒業後は大銀行に入り、外国為替部門を担当し、今でも銀行のコンピューターシステムを担当する会社に再就職して現役である。

当時のいかにも怜悧な秀才は、今でもクールな金融マンであった。

某市役所に就職して今は悠々自適のEさんは陽気で洒脱な若々しい紳士であるが、その彼の姿の向こうに甲高い声で話す小柄な少年が見えて来た。

そういえば、あの小さい少年は、ケロッとあっけらかんと陽気で飄々としていて、いつも機嫌が良かった。

いつも機嫌がいいという資質が稀有なものであるということは、今の私ならわかる。

あの少年ならば、どの組織に入っても、人々の間を軽々と明るく泳いで行けるに違いない。無駄に敵など作らないに違いない。無意味に自説にこだわることもないに違いない。

そうかあ……

人間は、中学の2年や3年で、すでに自分の未来を体現しているのかもしれない。

洞察力のある人ならば、ひとりの中学生を眺めて、彼や彼女の未来を幻視できるのかもしれない。

私は、今の私から、中学時代の私自身を見つめてみようと記憶を探ったけれども、無理だった。

人間は自分のことは見えない。

現にかつての同窓生の記憶の中の私の像は、私自身が記憶している私自身の像とはかなり違った。

中学時代から更年期障害みたいに体調が悪かった私にとっては、中学時代も面白くなかった。鬱屈が多かった。頭も言語道断に悪かった。孤独だった。

が、同窓生の記憶の中にある私は、そうではないのだ。

かつての私について言及されると、「誰のことを言ってんの?」であった。

うーん……ひょっとして、私って中学生時代もすっごく幸せだったんかしらん?

ともかく、みんな元気で良かった。

正直言うと、誰が誰だかわかんなかったけれども。

それでも後ろ姿の腰の高いスタイルの良い女性の同窓生を見て、「あ!ナントカさんだ!ナントカさんだ!!そういえば、ものすっごくスタイルのいい同級生がいたわ!」と思い出したりした。

遠い遠い記憶の中で、いろんな中学生が蘇ってきた。

どこから浮上してくるんか?と思えるほど、いろんな中学生の姿が見えてきた。

人間の五臓六腑は、全細胞は、その人間が体験したこと、感じたことをすべて記憶として保存しているそーだ。

2017年4月から7月までテレビ東京で放映されていた土曜ドラマ『マッサージ探偵ジョー』で、そう言っていた。

「マッサージ探偵」の青年ジョーは、被施術者の身体をマッサージして、彼や彼女の内臓に刻み付けられていた記憶を見て、事件の真犯人や事件の真相を解明する。

「謎がほぐれました!」とか言って。

このドラマの動画は、amazonのプライム会員になれば、amazonビデオで無料で視聴できます。他局の人気ドラマのパロディ満載です。

デブで小柄な「小門未知子」も出てきます。

あの「逃げ恋」の『逃げるは恥だが得になる』(だっけ?)の平征(ヒラマサ)さんが、とんでもない姿で登場します。

ガハハハ〜〜

何の話か。

つまり!

忘れているようでも、人間の細胞や内臓や身体は、全てを記憶しているのであるからして、ときに自分の内臓に細胞に語りかけてみようということであります。

あなたが忘れていても、あなたの視神経が覚えているかも。

あなたが忘れていても、あなたの胃壁が覚えているかも。

あなたが忘れていても、あなたの肛門が覚えているかも。

だから、お風呂の中で、肛門も優しくマッサージというか、指圧してあげましょう。

そうするといいですよ、と鍼灸師の秋保良子氏に教えていただいたとよ。

はい、そうします。

カラスでさえ、会うたんびに挨拶してると、ゴミも漁らないし、襲ってこないそうだ。

ましてや、あなたの内臓や細胞ならば、あなたと対話出来ないはずがない。

自分の身体との付き合い方を、あらためて教えてもらった同窓会であった。

綺麗なトイレが日本の未来を拓く

本日は2017年11月11日土曜日である。

毎日更新したいと思いつつ、10日以上もBlogを放置してきた。

疲れやすいのは、体調が今ひとつなのは、肝臓さんが怒っているのかも。

無職のプー子のくせに、働いてもいないのに、無駄に無意味に大量に食ってんじゃねーよ、処理が追いつかんだろ!って怒っているのかも。

すみません。

今日は、トイレについて書く。

私は、トイレに関する話が好きだ。

こんな本も読んでいる。

http://amzn.to/2hrOUXz

まずは、回りくどいけれども、先日の11月4日と5日に、法事のために夫の実家のある長野県に行って帰ってきたときに使った高速道路について書く。

唐突に高速道路だ。

正確には、高速道路のサービスエリアSAについてだ。

今回の法事のための信州行きについては、私は特にSA見学に集中することにした。

なんでか?

たまたま10月31日に、中日本高速道路、NEXCO中日本の社長さんのご講演を渡邊明先生のご担当の三重大学工学部大学院のクラスで聴かせていただいたから。

ご講演は情報いっぱいであり、内容豊富で、非常に非常に面白かった。

講演者の宮池克人氏は非常に頭脳明晰で、多くの情報を簡潔に整理して伝えることができる方であった。

大学に勤務していて、内容空疎な学長の話を延々と聞いていた身からすれば、やはり民間企業の水準は高い、教育界は馬鹿ばっかと、あらためて確認できた。

さすが、日本の最重要インフラの1つを背負う方らしい話であった。

高速道路がなかったら、高速道路網がなければ、陸の孤島だよ、どこもかしこも。

日本列島の血管だよ、高速道路は。

この血管を通して運ばれるものが日本人の生活を支える。

物流は高速道路に依存している。

ところで、民間企業になった中日本高速道路(以後、NEXCO中日本と書く)は、税金を使って建設した道路利用料は収入にできないので、SAを充実させて、そこでの売り上げ金を収入にしている。

あとは外債の運用とか。

でも、確実に利益が出るのはSAの売店。

では、SAから利益を出すために、どうしたらいいか?

NEXCO中日本は、SAの建物全体の美化と、トイレ大改装から始めた。

高速道路使用者がSAに立ち寄るのはトイレのために決まっている。

トイレを綺麗に使いやすくすると利用者は気持ちよくなり解放感を持つ。

じゃあ、ちょっとSAの建物の中に入ってみようかという気分になる。

コーヒーでも飲もうかな、という気分になる。

軽食でも取ろうかな、という気分になる。

飲食してリラックスすると、売店に何が置いてあるのかな?と見物したくなる。

なんとなく、すぐには立ち去り難くなる。

だから、NEXCO中日本は、トイレの大改装に続いて、SA内部のレストランや土産物屋カフェの充実を実現した。

おかげで、SAからの利益は上昇中。

で、私は、法事のための信州行きのついでに、SAのトイレと売店をチェックするつもりで、出かけたのだった。

夫の実家のある信州の街までは、名古屋から自動車で休憩時間入れて4時間くらいかかる。

数回トイレ使用だけのために、SAに立ち寄った。

SA内部の充実には驚いた!

有名カフェがあり、ATMの設置されたコンビニがあり、フードコートがあり、お土産物屋さんの商品は魅力的。

かつてのSAの土産物屋さんの商品は、「誰がこんなもん買うかや」と思わせるものが多かった。

工夫もアイデアもなかった。

ただただダサかった。

しかし、今や!

おおおおお〜〜〜魅惑の品揃い!

しかし、何よりも驚いたのが、トイレだった。

トイレは、ほんとうにすっごく綺麗になっていた!

質も量も素晴らしい!

三重大学工学部大学院でご講演なさっていたNEXCO中日本の社長さんによると、このトイレ大改装は、大成功であったそうだ。

建築賞も受賞したし、日本人利用客の評判はもちろん、観光バスで移動する外国人観光客にも非常に評判がいいそうだ。

また、トイレ掃除の方法にもNEXCO中日本は工夫しているそうである。

ただ、これについては資料未獲得なので、別の機会に書く。

ともかく、NEXCO中日本のトイレ大作戦の成功の影響は大きかった。

以後、それを真似て、トイレを綺麗にすることが公共交通機関にも、デパートなどの民間企業にも広がった。

人を呼ぶのは綺麗なトイレだ!!

トイレが綺麗なら、人が来る!!

「日本はトイレが綺麗だ」ということは、大きな大きな日本の売りになる。

観光客が来るよ、世界中から。

副島隆彦氏の『銀行消滅』によると、今は4000万人の外国人観光客は、いずれ1億人になる。

http://amzn.to/2iMjYxz

この1億人の外国人観光客に対処するための施設人材や方法は、まだまだ足りないが、まずはトイレだ。

治安が良く、食べ物が清潔で美味しくて、トイレが綺麗。

これが、旅先を選ぶ際の大事なポイントではなかろうか。

これは私の体験上もそうである。

特に女性はそうだ。

私が上海に行きたくてもなかなか行かなかったのは、中国のトイレはあかん、ということを聞いていたからだ。

だから、2017年4月に上海に行った時も、空港とホテルのトイレ以外は利用しなかった。

2泊3日ぐらいなら、それは可能だ。

2005年にアイン・ランドの祖国のロシアに行く前も大いに悩んだのは、「ソ連のトイレの凄まじい汚さ」について読んだからであった。

社会主義国はトイレが汚い。

この一点だけで、社会主義国はダメだと断言できる。

なんで社会主義国はトイレが汚いのか?

これについて書くと長くなるので、今日は書かない。

ともかく、トイレだ。

2005年のロシアは、すでに資本主義化されて14年経過していたので、空港や公共機関のトイレは、綺麗とは言えなかったが、そこそこの水準であった。

良かった、良かった。

1975年に初めてアメリカに行って、トイレが綺麗なのに感心した。

1985年にイギリスに行って、帰りにシンガポールに寄った時にショックだったのは、トイレの差であった。

当時のイギリスのトイレは田舎でも綺麗だった。

が、当時のシンガポールはダメだった。

アジアはトイレがダメ。

だから、アジアはダメ。

当時の日本のトイレはダメだった。

特に公衆トイレはダメだった。

学校のトイレ最低。

私が南山大学に入学した理由は、突き詰めればトイレだった。

当時に受験したどの大学のトイレよりも、南山大学のトイレは綺麗だった。

(落ちたけど)社会主義の巣の国立大学のトイレはダメだった。

ドアのロックすらできなかった。アホか。

(落ちたけど)東京の有名私立大学のトイレもダメだった。ここも左翼系だったな。

しかし、あれから幾年ぞ。

日本のトイレは、ついに、ダントツで綺麗になった!

ウオッシュレットがついている!!

最近のアメリカのトイレは、予算がかけられず、掃除もダメで、綺麗じゃなくなった。

トイレの綺麗度こそが、その国の繁栄のバロメーターよ。

トイレを綺麗にしておける国民こそ、真の民度が高い国民と言えるのだよ。

マルクスの「資本論」完読してたって、英語が完璧にできたって、トイレを汚くして平気な人間はアウトだよ。

私は、トイレ至上主義者だ。

日本には、さいわいなことに、「トイレを綺麗にすると、トイレ掃除は運勢を良くする、金運がつく」という民衆哲学がある。

このトイレ掃除のご利益の元祖提唱者は知らない。

ただ、21世紀に入ってから、小林正観(1948-2011)さんという自己啓発家が、トイレ掃除を奨励する本を何冊も書いていらした。

イエローハットという会社の社長さんがトイレ掃除を社員とともにしていて、会社が繁盛しているという話も聞いた。

http://amzn.to/2iNOnLR

私も読んだぞ。

で、いいと言われると何でも真似する素直な私は、2005年あたりからトイレ掃除を熱心にやってる。

排泄物という邪気と戦ってくださるトイレの神様もいらっしゃるそうなんで、その像のプレートも購入した。

ちょうどトイレ掃除を励行し1ヶ月後くらいに、夫の父がなくなり、お葬式に行った信州の夫の実家で、不器用ながら必死で「お嫁さん」をやった。

そしたら、夫の母が名古屋に帰り際に、「よくやってくれたから」ということで、10万円お小遣いをくださった。

ぎゃおおおおお〜〜〜♬♬

ビックリだった!!

トイレ掃除をすると金運が良くなるって、ほんとうなんだ!!

ということで、早速にトイレの神様の「証」をいただきましたので、それ以来は、スペシャル金運なくてもいいです〜〜食っていければいいです〜〜本が買えればいいです〜〜という気持ちになった。

だから、他の掃除はさぼるけど、トイレと玄関の掃除はさぼらない。

玄関は、なぜか?

人間の身体は、最初に肛門ができて腸ができて、口腔が形成される。

要するに、栄養の入り口と出口ができれば人体だ。

あとの内臓は、全部が腸の派生物だ。

人間の住居も、出入り口たる玄関と排泄物の出口たるトイレがあれば、人間の住居になる。

だから、トイレと玄関だけは綺麗にしてる。

小林正観さんのトイレ掃除推奨本の派生本というか、亜流本は、今でも何冊も出版されているし、読まれ続けている。

http://amzn.to/2iNOuHh

この本に、トイレの個室に予備のトイレットペーパーを置いておくのは、ペーパーが邪気を吸い込むからダメと書いてあった。

ちゃんと自然素材の容器に入れておくべし、と書いてあった。

だから、私は籐のトイレットペーパー・ボックスを購入した。

http://amzn.to/2zsAVHH

ボックスの横においてあるのは、奥がヒノキのキューブ。オーデコロン。竹炭とマッチ。

全部が消臭剤かわり。

オーデコロンや香水をいただいても、私が使うわけはない。

めんどくさい。

竹炭は便利だ。1年に1度2キロぐらい購入して、皿の上に分けて、あちこちに置く。

別に袋つめの竹炭を購入して、自動車の臭い消しに使う。

単身赴任してた頃は、私も借りている部屋や研究室に置いていた。

竹炭は埃が溜まったら洗って日干しすれば、また使えるそうだ。

http://amzn.to/2hqTg0V

マッチは火をつければ周囲の酸素を吸い取り、即座に悪臭が消える。

ほほほ。

竹炭もマッチも災害対策になるしね〜〜〜

何の話だっけ?

そう、トイレの話!

「トイレ掃除こそ繁栄の要」哲学のある日本のトイレは、どんどん進化して、観光客を呼ぶ。

日本のトイレの綺麗さを知った人々は、母国に戻って、トイレを綺麗にする。

そうなると、その国の人々の心が平和的になる。

NEXCO中日本のトイレ大改装作戦は、日本を変えて、世界も変える(かもしれない)。

まあ、私個人の経験からすると、なんか気分が塞いだら、トイレ掃除するといいよね。

便器を無心に磨いていると、ああ水が使えてありがたいなあ……ウオッシュレットを動かせる電気が使えて便利だなあ……タオルやトイレットペーパーを製造してくれる人々がいてありがたいなあ……と思う。

何も生産していない私が、人様の作ってくれる便利なものに包まれて守られて快適に生きていける

このことの法外なほどの恩寵に、あらためて気がつく。

正気になれる。

しみじみと幸せだなあ〜〜と思える。

9人もの人々を殺害したあの青年の住んでいた神奈川座間市のアパートメントの部屋のトイレは、絶対に汚かったと思うよ。

便器の裏側には汚物がこびりついていたと思うよ。

タオルは何週間も交換されていなかったと思うよ。

トイレの床の上は、埃が溜まっていたと思うよ。

ウオッシュレットのノズルにも汚れが無茶苦茶に付着していたと思うよ。

トイレの床をちゃんと清潔な雑巾で水拭きして乾拭きしていたら、殺人のことは考えられないよ。

台風の日に小林旭様に会いに行った。

本日は、2017年10月30日月曜日である。

先週の木曜日のノルディックウオーキングで、うっかり興正寺っていう名古屋の大きなお寺の中を散歩しちゃって、道に迷って、墓場の中をウロチョロ歩いて、往生したよ。

帰宅したら、肩は重いわ、身体に力は入らんわ、心臓は痛いわ、ちょっと眩暈はするわ……

家族にベランダに立たされて、思いっきり海塩をかけられて除霊したとよ。

といっても、未だに体調がちょっと変だよ。

霊能を持つ沖縄在住のナースから、Facebookに投稿した寺の道の写真について、「ここはダメよ〜〜」とご指摘をいただいた。

もう2度と行かんぞ、興正寺!!

それはさておき、昨日の10月29日日曜日は、岐阜県の大垣市民会館まで出かけた。

小林旭様のコンサートに出かけた。

午後12時半開場午後1時開演を、午前11時半には会場に到着しじっと待った。

台風の影響の大雨にも関わらず続々集まる高齢者たち。

家族に押された車椅子に乗っている方々も少なくなかった。

デイケアセンターの車に乗ってやってきた方々もいた。

うーん、日本の高齢者の景色は地味過ぎる。

なんで、ああいうshit色のものを身につけるのか。

どこで売ってんだ、あんなの。

もっと綺麗な色のものがあるでしょーが。

赤いコートを着ていた私は、ジロジロ見られた。

年食って無職になって自由になったんだから、ド派手な色を着なさいよ〜〜

黒を着てもいいから、ジャラジャラと金メッキのアクセサリーして、「歩く仏壇」になりなさいよ〜〜

64歳の私なんて最年少なんじゃないか。それぐらいの高齢者の人々の波!

なにしろ、小林旭様は1938年昭和13年生まれであらせられるので、11月の誕生日が来れば、旭様は79歳である。

ファンも、80代70代あたりの層がもっとも厚いのであろう。

これからの未来の高齢者の風景は、もっとカラフル希望。

旭様のコンサートは、私は3回目である。

旭様が70歳になられた頃に、私は思ったのだ。

旭様もいつお亡くなりになってもおかしくない年齢になられた。お元気なうちにお目にかかっておかねばいけない!と。

で、2008年に会いに行った。会場は京都だった。

ちょっとお疲れのようであった。ほんと。

その後は、私も忙しくて疲れ過ぎていて、旭様のコンサートに行く余裕がなかった。

しかし、2016年9月に浜松まで会いに行った。

劇「無法松の一生」とコンサートの二部構成であった。

仰天した。

旭様が復活なさっていた。素晴らしい歌唱であった。旭様は満77歳であったが、晴れ晴れと明るかった。

感動感激のあまり、私は「アキラさーーん!!」と6回叫んだ。

さて、今年の大垣。

今回はコンサートだけ。

私はパンフレットも確認せずに行ったので、旭様の前座が「水前寺清子」さん、「牧原三枝子」さん、「伊藤ゆかり」さんであることは、ろくに知らなかった。

この3人の方々もそれぞれに良かった。

人柄の良さが出ているステージだし、さすがプロのステージであった。

特に水前寺さんや伊藤さんは70歳だそうで、びっくりだ。

非常にお若い!!綺麗だ!!声も老けてない!!

64歳ぐらいでババアとして開き直っていてはいけないと我が身を反省した。

水前寺さんは8曲、牧村さんは3曲、伊藤さんは7曲を披露なさった。

伊藤さんが退場後に、静かにおもむろにステージの上方のスクリーンに映画「ギターを持った渡り鳥」の写真が映し出された。

おお………

その瞬間、うわああああああああああああああああああああああああ〜〜と湧く観客席。

大垣のお客さんはノリがいい。

京都や浜松でも旭様を迎える観客の喜びの声は大きかったが、大垣は一層に明るい。

そこに旭様が登場。

ぎゃおおおおおおおおおおおおおおおおお〜〜と狂喜する観客。

私も狂喜する。

短い両腕を精一杯あげて振った私。

後ろの座席の方々すみません。

「アキラさああああああああああーーん!!」と大声を出す私。

そしたら、負けじと後ろの席でおばはん数人も声を上げた。

よろしいよろしい!!

騒げ騒げ!! もっと大騒ぎしろい!!

しかし、私は自分の発する大声が劣化していることに気がつく。

教室で大声を出して授業をしなくなったので、声の出が悪い。息を全部声にすることができていない。

うーん、我ながらインパクトが弱いぞ!

それでも、黄色い声援を受けて嬉しそうな旭様。

黄色いというより、黄昏色かな。

旭様は去年より、さらにデブっておられた。

79歳にして一座を率いての日本全国をコンサート活動を何年も続けておられるのだから、お疲れ解消で食べたり飲んだり。

太るに決まってるよなあ……

水前寺清子さんも伊藤ゆかりさんもビッグネームだけれども、あの方々だけで、大垣市民会館を満員にすることはできない。

「小林旭」様あってのことだ。

会場の整理をしているスタッフ、グッズを売っている方々、バンドの方々、コーラス担当の方々、舞台美術担当の方々、照明音響担当の方々。そして、共に歌う方々。

全部で何人の生活を引き受けておられるのか、旭様は。

何人を食わしておられるのか、旭様は。

バンドの方々は2008年のコンサートの時より数が少ない。シンセサイザーでいろいろな楽器の音が出せるからね、合理化できるよね。

去年は劇も入れて3時間の長丁場だったけれども、お客さんも高齢者ばかりで、トイレが近い人も多いので、コンサート時間も1時間40分が限度だろう。

それでも途中でトイレのために席を立つ男性高齢者が目立つ。1時間すら耐えられないよーだ。

男性って、なんでだか知らないが、頻尿が多いよね?

それはさておき、満78歳もうすぐ79歳の旭様は、お元気だった。

明るかった。

身体のキレも良かった。

声も歌唱も素晴らしかった。

そう、この声よ……

戦後日本が生んだ最大の歌手である「小林旭」の声だ!!

特に、「ダイナマイトが150屯」を始めとした「これぞアキラ節!」の一連の曲の時は、すごかった。

私も他の観客さんも大喜びだった。

旭様は、軽々とリズムを取りながら踊っておられた。

すごい、すごい。

(昨日のコンサート会場の売店で5枚500円で売っていたブロマイドです)

歌の合間のトークも楽しかった。

ご自宅の近所の公園を散歩なさっていたら、足元がふらついたご老人に遭遇なさったので、ちょっとお手をお貸ししたら、その方は旭様よりも10歳も若い方だったとお話しなさっていたが、確かになあ。

旭様はお若い!!

ともかく、私は嬉しくて大騒ぎだった。

旭様が、少しでも私の座席の方に目を向けたら、必死で手を振った。両腕を上げて振った。

10回は「アキラさあああああああああああああああーーーん!!」と叫んだ。

旭様は、何度も私の方を見てくださった(と思う)。

私に向かって、「わかってるよ」と頷いてくださった(と思う)。

だって、来年はお会いできるかどうかわからない。

会えた時には、思いっきり、私の愛を声援を、旭様に届けておかねばいけないとよ。

出し惜しみしちゃいけないとよ。

いつ旭様はお倒れになるかもしれない。

私だって、いつ死んでもおかしくない年齢だ。

昨日のコンサートで、旭様がお歌いになった曲の中で、盛り場水商売系歌がほとんどないのが良かった。

ああいう暗めのジト〜〜とした歌は、旭様に似合わない。

旭様には、ユーラシア大陸の風に吹かれているような趣の歌がお似合いだ。

もしくは、脳が破けたみたいなヤケクソな歌がお似合いだ。

「さすらい」が良かった。

素晴らしかった!!

「北帰行」はなかった。

「惜別の歌」はなかった。

「さらばシベリア鉄道」もなかった。

しかし、「熱き心に」はあった。当然だ。

私にもわかるようになったよ。

「昔のスター」のコンサートに出かける人々の気持ちが。

あれは、同窓会だね。

知らない人間ばかりの同窓会だ。

昔の自分に会いに行く機会なんだ。

自分が泳いできた距離をあらためて確認する機会なんだ。

そして、ここまで泳いで来れたことを、しみじみと感謝する機会なんだ。

さらに、とりあえずのゴールまで、岸まで、ちゃんと泳いで行こうと、泳ぎ切ろうと、あらためて決意する機会なんだ。

いつか、20年後くらいにSMAPも再結成されたら、その頃には還暦を過ぎたファンたちが、大勢詰めかけるのだろう。

AKB48が還暦後にミニスカートの衣装で「恋するフォーチュンクッキー」を歌い踊り、これまた還暦を過ぎたファンたちがいっしょに歌い踊るのだろう。

キャバクラ系AKB48は、ババアになっても元気な気がする。

清楚系乃木坂46の還暦姿は見たくないなあ。

「制服のマネキン」をコスプレセーラー服で踊って歌われても、見てる方は辛いかもなあ…

しかし、それにしても、小林旭様は戦後日本の奇跡だ。

日本の宝だ。

ほんとに天才だ。

日本という国は、似非天才は褒め称える脳足りん国家だが、ほんとうの天才は見て見ぬふりをする。

しかし、心ある民衆は知っている。誰が天才であるかを。

今上天皇がお隠れになっても、私の目からは涙は出ない。

しかし、旭様の時は……

想像するのも嫌だ。

小林旭様には、あの「夢コンサート」のスタッフの方々を食わせる責任もおありになるからな。

くれぐれもお体を大切にしていただきたい。

昨日の小林旭様は、すでに神々しい域に達しておられた。

あの21歳の軽薄お気楽脳天気な滅法カッコいいだけのオニイチャンが、78歳の風格あるが飄々とした洒脱な日本最高の天才歌手となった。

来年80歳の小林旭様に、来年もお会いしたいものだ。

私は、台風で怖いような大雨と風の中を、充たされた思いで家路に急いだ。

充たされ過ぎてもの哀しいような気分で帰った。

竜宮城から帰る浦島太郎みたいな気分で帰った。

長居はできない天国から、地上にもどるような気分で帰った。

ありがとうございます、旭さん。

私も頑張るね!!

ニーチェ的フェミニストはかく語りき

本日は、2017年10月18日水曜日である。

先週末に、福山の「歯科室むつてっせん」で開催された「歯科医対象舌はがし実践セミナー」のことも報告したい。

この写真(松永心子氏撮影)が示すように、私も舌がかなり挙がってきたよん。

「歯科室むつてっせん」院長の松永心子医師に、「舌が挙がってない!!あれだけブログに舌はがしのことを書いてるくせに、舌が挙がってない!!」と、8月の時みたいに、罵倒足蹴にされなかったよん。

美容鍼の効果についても報告したい。

初めて体験した「整復」についても報告したい。

しかし、今日は別のことを書く。

高校生の時に「私はフェミニストだ」と意識して以来、ずっと私はフェミニストだ。

フェミニストとは何か。

「女であるということだけで損をすることを断固拒否する 女」のことだ。

「利他的な女なんて生き方は引き受けない女」のことだ。

男性のフェミニストというものもあるらしいが、そんなもんを私は信じない。

男が女にとって都合が良いことを支持するはずない。

人間は利己的に動くもんである。

そんなの当たり前だ。

男でフェミニズムを支持する人間がいるとしたら、それは娘を持ったまともな父親だけだ。

そういう父親にとっては、可愛い娘が社会的不公正や理不尽な目にあうのは辛いからね。

これは、利己心である。

もし、子どもが息子ばかりなら、そんなことは思わない。

ただし、未熟で馬鹿な男の場合は、娘を持ってもフェミニズムを支持しない。

自分のことだけで精一杯で、自分の人生の福祉のために娘を搾取することしかできないから。

最近は、「お父さんが大嫌いです。やたら依存してくるんです」と言う女子学生は多い。

「サッサと自立して家を出なさい。親を捨てなさい」と私は答えたものだった。

まあ、しかし、そんな愚痴を言ってる程度の娘は、父親を蹴とばせないんだよね。

自分の人生を大事にしたい娘なら、気概ある娘なら、愚痴を言う前にダメオヤジなど蹴飛ばしているから。

しのごの迷わず黙って蹴飛ばす。

彼女が利己的に自分の人生を歩んでいく場合に、彼女に依存する父親など邪魔だから。

人間の義務は、自分で自分を幸福にすることだ。

娘という他人に幸福にしてもらおうと要求する父親など、かなりの財産でも交換条件に出さなければ、邪魔だ。

問題は、ここ。

私は、人間存在というものは基本的に利己的だと思っている。

なぜならば、私は自己分析できるから。

よって、他人が利己的であることも、当たり前と思っている。

私は、人間は自分で自分を幸福にしなければならないと思ってる。

自分を幸福にするということは利己心だ。

でなきゃ、なんで人間は生まれたのか。

他人の幸福のためか。

世界の福祉のためか。

ご冗談を。

できれば、自分も他人も世界も幸福になるwin-win game がいい。

真に聡明な人間は、そうであろうと脳も心も身体もフル活動させる。

でも、まずは自分の幸福だ。

自分の幸福を利己的に求める。

他人や世界が不幸だと自分の気分が嫌だ。

自分が快適であるためには、他人も世界も幸福であってほしい。

でも、まずは自分の幸福だ。

私は、ずっと、これが人間の基本だと思ってきた。

これが私の人間観の前提であった。

しかし!

私自身は自分がフェミニストであると思ってきたけれども、多くのフェミニストと出会ううちに、彼女たちと私とは前提が違うと気がついた。

40歳ぐらいになったときに気がついた。

私は当時、「愛知女性研究者の会」というフェミニスト団体に所属していたのだが、そこで議論されることは、「女に対して不公正な社会をどう変えるか」であった。

で、具体的には、もっと女性研究者を増やせ(ずっと日本の正規雇用大学教員における女性の比率は10%ちょっとだ)とか、

学術会議に訴えようとか、

大学や研究機関における女性差別をなくすためにどうすればいいかとか、

セクハラ禁止を法制化しようとか、

そういうことを議論していた。

おかげで、セクハラは可視化され、禁止され、セクハラをする人間にペナルティも課せられるようになった。

良かった、良かった。

私は、こーいう性質だから男性の教員も同僚も接近してこなかったので、実害はなかったけれども、昔の大学ではセクハラはいろいろあったよ。

大学院で女性の院生相手に恋愛妄想でアホなことやらかす男性教授は多かったので、あいつらが粛清されたのは良かった。

サッサとこの世から消えろ。不細工が!!

とはいえ、しかし、私には違和感があった。

私の前提は、人間は利己的に動くのであるから、男も利己的に動き、それをいかほどに非難批判しても無駄なことだよな、本質的には……であったから。

女性差別や女性虐待をしたら即刻死刑になるという法律でもできなければ、性差別は終わらない。

そんな法律を男が通すはずがない。

男はたった1人でも、女さえ、いっぱいいれば人間の再生産はできるので、私はそういう法律ができても全く構わない。

人工知能の発展もあるだろうから、男の半分くらい死刑になっても私は構わない。

男前だけ残ればいい。

が、冤罪ということもあるじゃないの。

それはかわいそうよ。

話が逸れてますね。

ともかく、女性差別をする男を抹殺排除したいのは、女の利己的欲望だ。

女性差別をする男を抹殺排除する法律など絶対に認めないのは、男の利己的自己防衛だ。

何を私が言いたいかと言えば、男も利己的に動く。女も利己的に動く、世界はその闘争だ、ということなのだ。

通常の人権派フェミニストは、ここんところの理解が、私とは違う。

人間社会は、教育と啓蒙によって、より良いものとなっていき、男の女性差別も古い遺物となっていくし、いかねばならないと人権派フェミニストは考える。

女性の人権を社会は守るべきだ。男は女性の人権を守るべきだ。

それはそれでいいのだ。

しかしだ。

それは見込みであり、期待であり、理想だ。

願うのは好きにしていい。

でも、世界の実相は、男の利己主義と女の利己主義の闘争の場じゃないの。

人権なんて知ったことじゃない闘争の場ではないの。

平和に見える日本においても、その闘争の断片はそこかしこに見える。

だからさ、教育や啓蒙の場では、理想と同時に現実を伝えなければならない。

人間は馬鹿だから、理想を教えられると、理想と現実の区別がつかず、理想が現実なのだと勘違いしやすい。

素直な子ほど錯覚する。

誰に対しても愛と親切を。

これはあるべき姿。理想。

現実は、他人の厚意や親切を利用して詐欺を働く人間も多い。

可愛らしい無垢な少女が、脳足りんにもその辺のオッサンに親切にして、とんでもない目にあうなんて事件はよく起きる。

誰だ、幼い女の子に、誰にでも優しくしなさいと教えた馬鹿は?

若い女性が、見込みや期待や理想と現実をゴッチャにして、就職してから「えええ!こんな扱いを私が受けるの!?」とびっくり仰天して鬱病になる。

「夫が家事をしない!」と言って若い奥さんが乳幼児抱えてノイローゼになる。

いやいや、世の中ってそういうものだから。

それでも、まだ女であることで随分と手加減してもらっているから。

ほんとほんと。

ニーチェは言った。

世界は利己的に自分の幸福を追求する人間によって発展していく。

そういう類の人間がエネルギーを出してぶつかり合ってるのが世界の実相だ。

人間にはそれだけの生命力がある。

自分の生命力を全開して世界の闘争に入っていくんだ。

他人の厚意や親切をあてにして、この世界の闘争の場から逃げるのは奴隷根性だ。

弱者救済を訴える宗教や思想は、みな奴隷根性の負け犬たちが、強い人間に嫉妬して作ったものだ。

人権というものは、奴隷思想の近代ヴァージョンだ。

人権なんてものは美しく見えて、結局は「地獄への道は善意で敷き詰められている」んだ。

強者に対する恨みつらみのルサンチマンを自己是認して、弱いことが正義なんだと思うと、個人が劣化する。人間存在が劣化する。そんな人間が増えると社会が劣化する。そんな人間社会ばかりになると世界が劣化する。

こーいうこと言ったもんだから、ニーチェは嫌われてきたのねん。

ほんとのこと言うと、嫌われるのよん。

リベラルな綺麗事言ってるヒラリーさんが、差別的なトランプさんに負ける。

ヒラリーさんの持ってる金は、クリントン財団への寄付金でしょ?

トランプさんは、自分の私企業の不動産業で稼いだわけだから。

それだけでも、勝負は決まってる。

これが世界の実相。

政治家が自分の利権拡大ばかりで、国民のことを考えていない?

それ普通。

これが世界の実相。

ともかく、この国土を守ってくれればいいよ。

反日日本人でなく、売国奴でなく、国土を守る気があればいいよ。

ということのみ基準に、私は明後日、衆議院選挙の期日前投票に行く。

投票日の10月22日に台風が来るっていうじゃないの。

また話が逸れてますね。

で、私はニーチェ的フェミ二ストなんで、同性に言いたい。

あなたの周りの男が無理解で利己的なのは当たり前だから、かれらに理解を求めるのは時間の無駄だって。

他人なんか関係ないんだよって。

あなた自身は、嫌が応もなく世界の闘争の中に参加してるんだから、巧妙に利己的に生きなさいって。

もし、男とともに生きて行く人生を望むのならば、

「こいつは、ほんとに勝手な女だが、こいつについて行くほうが得だから、ついていくしかない。俺だけではつまらんかもしれん」と、男に思わせるような人間になるしかないって。

男の利己主義を満たして、自分も利己的に生きる策をガンガン打ち出さないとあかんよって。

それは容易なこっちゃないよって。

社会制度をどういじくっても、女性が生きて行く人生が安全で快適になるなんてことはないのだよって。

油断してちゃダメだよって。

身も蓋もないこと言うけど、油断すると、つまんねー男のつまんねーガキを産むはめになり、つまんねー男のつまんねー親の介護するだけの人生になるリスクは、今も昔も同じだよって。

とんでもないのだよ、ほんとは……って。

ブライダル雑誌の『ゼクシー』なんて読んでる場合じゃないんだよって。

認知症になってる暇も余裕もないんだよ、ほんとはさあ。

そこんとこ、よろしく。

ところで、下の3枚の写真は、福山の「安原幸雄」さんという写真家の方の作品です。

いいでしょ!!

いつも素敵な写真をFacebookに投稿しておられます。

私は、その投稿作品を見るのが好きだ!!

本職は、福山市内の笠岡町の「安原楽器」の専務取締役さんです。

この写真もFacebookに投稿されていたので、パクらせていただきました。

すみません、安原さん。

コスモス大好き。

「笠岡ベイファーム」というところのコスモスです。

岡山県笠岡市にあるようです。

経営学って日本人には向かない学問だね〜だから必要だね〜〜

本日は、2017年10月11日水曜日だ。

昨日は、久しぶりに三重県津市の三重大学工学部まで行ってきた。

福山市立大学時代の同僚で、三重大学名誉教授&埼玉大学名誉教授の渡邊明先生の工学部大学院開講科目「生産管理論特論2」の聴講に。

第2回目講義であった。

第1回目講義は、紀要に提出の論文状作文作成で、へばっていて出席できなかった。

「生産管理論特論1」は、前期に聴講させていただいた。

体調とかのせいで5回も欠席したけれど。

最初は、講義録みたいなものも作成して、このブログに書いてた。

でも、途中で講義録をブログに書くのはやめた。

やっぱ難しい。

テキトーにブログに書けるような内容じゃない。

まあ、聴講させていただいた内容の中で、ひとつふたつ私でもわかりそうなポイントがあれば、いいんじゃないかと思い直した。

で、つくづく思ったよ。

経営学という学問分野は、日本人には向かないんじゃないかって。

マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に書いてたね。

http://amzn.to/2kDd2a8

資本主義の精神とは何かって。

それは、以下の3点。

(1) 労働は救済だよん。働くことは、神様の目にかなってるよん。

(2) 働くのは、やむくもに働くんじゃなくて、神様のお目にかなうように、ちゃんと効果が出るように働くのよん。目的合理的に働くのよん。その目的を達成するため以外のことはしなくていいんだよん、これが行動的禁欲ね。

(3) 神の目にかなうように働いて、結局できた利潤は受け取っていいのよん。神の目にかない、人様の役に立ったからお金持ちになるのはいいのよん。隣人愛の派生物が富かもねん。ひょっとしたら、貧乏な人は、隣人愛が足らんのかもね〜〜

この、救済としての労働=労働が宗教的行為と、目的合理的な労働と、結果としての富の蓄積の肯定。

これが資本主義の精神よん。

と、ヴェーバーさんは言った。

だから、働くのは卑しいことだと思ってるカースト制度のあるインドでは、資本主義の精神は生まれんかった。

だから、富をひたすら得ることで、弱肉強食の世界を生き抜いてきた中国人には、資本主義の精神は生まれんかった。

拝金思想と、資本主義の精神は違うと、ヴェーバーさんは主張した。

資本主義の精神は、神の救済を真摯に求めるが、神の救済は神が決めるんであって人間が何してもしかたないのよんと言うカルヴィニズムが浸透した地域のみで発展した。

つまり、オランダやベルギーなどのネーデルランド、北ドイツ、イギリス、スイス、アメリカ合衆国だけだと、ヴェーバーさんは言った。

いや、それ違うよ、日本だけは例外だよと言ったのが、山本七平さん。

http://amzn.to/2hzVVS4

http://amzn.to/2ycPOeo

http://amzn.to/2kFRlGC

北ヨーロッパで生まれた資本主義の精神は、日本にも生まれていたんだよと、山本七平(1921-1991)さんは書いた。

鈴木正三(しょうさん)っていう関ヶ原でも戦って生き残った武士で、後に僧侶になった人が、コペルニクス的転回の画期的思想を提出した。

「コペルニクス的転回」と言ったのは小室直樹さん。

何を鈴木さんが言ったかというと。

「労働って仏業だよ」。

これは、鈴木さんのとこで勉強してた農民さんが、「忙しくて仏業やってられません」と言ったときの返答。

「働くことは神仏のお気持ちにかなってるんだよ」

あのね、普通のインドで生まれた仏教にこーいう発想はない。

カースト制度のインドでは労働は最下級の人間がやること。

坊さんは、喜捨されて、施し物で生きる。

日本の坊さんも、お葬式や法事で意味不明のお経読んで、しょうもないことしゃべってるだけで、お金もらって、税金かからんでしょ。

これ、まさしく仏教。

お釈迦さんも、何もしなかった。お経すら書かんかった。

だから、鈴木正三さんの言ったことは、すごいことだった。

普通に働くこと自体が仏業だよ。

これ、「労働は救済。宗教的行為」と考えるヴェーバーさん言うところの資本主義の精神と同じ。

ついでに、鈴木さんは、「結果としてカネがたまっても、それは悪いことじゃないよ」と、商人の弟子に言った。

この鈴木さんや鈴木さんの弟さんが、どんだけ偉い人だったかは、この動画を見てちょーらい。

愛知県豊田の人なんです。

ここから、あのトヨタ自動車が生まれたのも、偶然じゃないんだ。

「勤労のすえにカネが溜まっても悪いことじゃないよ」と鈴木正三さんが言ったことは、これ、まさに「貨幣の蓄積の肯定」で、ヴェーバーさん言うところの資本主義の精神と同じ。

それまでは、商行為は卑しいものと思われていたからね。

この鈴木正三さんの思想をより広めたのが、石田梅岩さん。江戸後期の人。

呉服屋に丁稚に入り、その呉服屋さんが倒産したので、別の呉服屋さんに入り、番頭まで行って、退職して、自分ちで私塾を無料で開いた。

話を聴きたい人が集まってるうちに、評判になっちゃって、男性用レクチャー、女性用レクチャーとやって、老若男女が集まった。

これが「石門心学」の基礎になった。

「石門心学」と呼んだのは、梅岩さんの弟子で、ご本人はそんな気なし。

私の話を聴きたいなら、誰でもいいよ、きてちょーらい。

江戸時代って、こーいう時代。

農民や町民が、生きるための哲学を聴きたいって、聴きに行く社会。

豪商が、「じゃあ、うちの座敷を使って。離れを使って」と講義場所を提供してくれた社会。

江戸時代には、公民館も貸し会議場もなかったから。

で、山本七平さんは、日本が明治以降に急速に近代化して資本主義体制に入れたのは、江戸時代から素地があったから、と論じたのです。

小室直樹さんに言わせると、山本説はすごい卓見で洞察で発見らしいけど、日本のアカデミズムは無視してるんだって。

それはさておき、ただし、山本説は、「目的合理的な労働」については指摘していない。

なんでか。

それは、日本では機能集団が共同体になっちゃうから。

どーいうことかと言うと、たとえば百田尚樹氏の『海賊とよばれた男』に描かれる国岡商店。

http://amzn.to/2kGNDwe

国岡商店は、出光興産をモデルにしてる。

この会社は今は知らないけど、創業者の出光佐三さんが生きていた頃は、解雇なし、定年なし、出勤簿なし、タイムレコーダーなしだった。

会社は企業であり、かつ共同体であり、家族なんだから、解雇なんかしない、定年退職なんて家族にない、家族を信じているから出勤簿なし。

この会社は、営利企業という機能集団と、家族という運命共同体がゴッチャになってる典型だ。

もう、出光興産の社員はとんでもなく働いたそーだ。

会社は彼らの家族だもん。

出光興産は、社員が戦争中で兵隊に行っている間にも、残った家族に給与を払い続けた。

敗戦直後、どんなに経営が苦しくとも、リストラしなかった。

株式上場もしなかった。

株主という他人に好きにされたくなかったから。

株は社員と分け合った。

日本人にとっては、理想の会社でしょ。

だから労働組合もなかった。

だって、労働者への搾取がないから。

でもだ、こーいう会社って、経営者が出光佐三さんみたいな優れた人だからいいけど、凡庸な経営者だったら、すぐに倒産だ。

ねえ。

この『海賊とよばれた男』のネタ本のひとつが、この本。

水木楊氏の出光佐三さんの伝記。

http://amzn.to/2yaVlSH

この伝記には、出光佐三さんが非常に稀有な経営者であったことは書いてある。

愛国者であり、かつ非常な社員思いの方であったが、冷徹な企業経営の計算もできた人物だったと。

ここよ、ここ!!

この冷徹な計算というのが、目的合理的な行動禁欲的な労働=経営よ!

経営学というのは、目的合理的にどう労働するかを考える学問だから。

でもね、この伝記にも、百田さんの2013年「本屋大賞」受賞した小説にも、出光さんの経営手腕の具体例は書いてない。

出光興産のマネージメントの内実は書いてない。

立案、計画、タイム管理、コスト管理、品質管理、人的資源管理、リスク管理に、調達管理に、コミュニケーション管理に、統合管理。

ここよ、ここ!

これが経営だ!

これを学問にしたのが経営学だ。

日本が大東亜戦争や太平洋戦争に負けたのは、経営学ができなかったからでしょ。

タイム管理も、コスト管理も、兵站管理も、人材管理もできなかった。

ダラダラ戦争を続けた。

優秀な人材を特攻隊で廃棄した。

特攻隊なら、刑務所の囚人にやってもらえ。

人権無視?

何言ってんだ。

有為の人材をなんで廃棄できるんだ?

日本国という企業の経営を考えたら、有能な勇気ある兵士こそ、残さなきゃ。

ともかく、日本人には近代戦できない。

経営学の素養がないから。

日本人の資本主義の精神には、経営学が足りない。

なんで、足りないかといえば、機能集団が共同体になっちゃうから。

営利追求の企業が、社員の人間関係に引っ掻き回されるから。

企業の目的を社長も社員もわかってないから。

マネージメントができないから。

だから、シャープも東芝もああなっちゃった(そーだ)。

ということで、どうしたらいいんですか?

この経営学のセンスって、個人の人生にも大事よね。

たとえば、研究者としてやって行きたいと思うのならば、自分の人生を経営学的に考える。

大学院生時代に査読付きの大きな学会の学会誌に論文が採用されないなら、本人がどう思っても、学会というフィールドで研究者をする資質がないということだから、研究者として売れないから、スッパリ諦める。

自分を自分という企業の経営者として考えれば、見込みのないことはやっていられない。

別の商品開発をする。

(ただし、日本の学会もね、機能集団ではなく共同体になっていて、ダメ論文を採用するらしいけどね)

でも、こういうことは、日本人は1番苦手なんじゃないかなあ。

わりと、日本人って「特攻隊」でしょ。

やみくもに頑張る。

無駄に動くが機能しない。

動いてるけど働いてない。

頑張りゃいいとばかりに残業を頑張って過労死。

投資しても無意味な能力の子どもに教育費をかけ過ぎ。

老人介護に心を砕き過ぎて一家心中的破産。

愛が大事と、ダメンズに貢いで玉砕。

馬鹿男は、どうやっても馬鹿だよ。

ブスなのに、化粧品や衣類に金かけ過ぎて、効果なしでクレジットカードの借金を増やす。

費用対効果を考えると、アホらしいよ。

会社は潰れちゃ意味ないのに、そこを忘れて理念に走る経営者は迷惑。

目的合理的な労働管理という経営学のセンスこそ、日本人が苦手だからこそ、学ぶべきだなあと思った、昨日の聴講でした!!

渡邊明先生、ありがとうございます!!

21世紀のカルヴィニスト

本日は、2017年9月12日火曜日である。

ヨルダン・イスラエル旅行の(2) を書くつもりが、変なこと書きます。

カルヴィニストというのは、Calvinistであり、カルヴィニズムCalvinismを信じる人間のことだ。

カルヴィニズムというのは、キリスト教の考え方の1つで、「人間の運命も救済も全知全能の神が決めている」という考え方だ。

16世紀のスイス人神学者のジョン・カルヴァンが提唱した考え方だ。

別に奇異でも何でもない発想だ。

もし、全知全能の神がいて、人間が神の僕(しもべ)ならば、人間の人生の全ては神に決定され予定されているのは当然だ。

キリスト教では、新約聖書に書かれているように、死んでも、いつか選ばれた人間だけは救済され復活し、永遠の神の国で生きるということになっている。

この「救済」も神が選び決定するのも当然だ。

人間に自由意志なんてないのだからさ。何をしても、あらかじめ神が決めているなら、そうでしょう。

自由に選んでいるつもりで、見えない力(神)に導かれているわけでさ。

だから、カルヴィニズムは決定論とも予定説とも呼ばれる。

本気で本気で神を信じるならば、こーいう発想になる。

旧約聖書的発想であるという意味において、キリスト教の先祖返りみたいな発想だ。

本気で神を信じていた中世ヨーロッパ世界は、とりあえず停滞の時代だった。

そりゃそーよ。全ては神が決めてるから今の環境があるのならば、その環境を受け入れてただただ運命に従順に生きていくのが人間なんだからさ。

改善も改革も革命も維新もない。環境への不満は、それは神への反逆になるんよ。

だから誰も環境を変えない。

アホか、神がいるのかわからんでしょーーいるかいないかわからん神のことは置いといて、改善できることは改善しましょ、というのが、ぶっちゃけて言えば近代精神だ。

人間には理性があるんだから、理性の行使によっていい社会を構築しましょというのが、西洋近代啓蒙思想の肝だ。

この近代精神の本質は、啓蒙思想の本質は、ほんとは無神論だ。もしくは不可知論だ。

いるかいないか証明できない存在のことは、とりあえず論議するのはやめましょうという立場だ。

ともかく、この社会に起きることは、すべて人間に責任があるんだから、人間が何とかしましょ、何とかできるように頑張りましょう〜〜というのが、18世紀以来の近代主義者だ。

私は、アイン・ランドを愛するぐらいなので、ずっと近代主義者であった。

しかし、10年くらい前から、私の中で、じょじょに「西洋近代啓蒙思想なるものへの疑惑」が生まれてきた。

常に常に改良改善って面倒くさいよね〜〜〜別にこのまんまでもいいんじゃないの〜〜

どう変えても大差ないことも多いし……変革とか改革って、ただの空騒ぎに終わることが多いし……

小賢しくいろいろいじくっても、前の方がマシだったってことになるんじゃないか……

と思うことが多くなってきた。

そう思うようになったのは、自分の人生を振り返ってみると、自分で選んで構築してきたとは思えないからだ。

自分が全く「近代」やっていなかったと、気がついてしまったからだ。

よく考えたわけではなく、行き当たりばったりでしてきたことが、何となく上手くいっただけのことだと気がついてしまったからだ。

自分が食べてこれたのは、能力があったからでもなく、努力したからでもなく、単なる幸運だったからだと気がついてしまったからだ。

運だけ良かったと、気がついてしまったからだ。

運って何?

人間の努力や思惑や資質とは関係なく、運が良ければ結果として上手くいく。

運というのは、理不尽でデタラメで気紛れで不条理だ。

つまり運は人間の外部にある。

人間が決定できない。

運とは、神みたいなものだ。

たまたま私は 運という神に似た何かに救済されただけだ。

感謝感謝だ。

しかし……なんで、私は運が良いのか?

それに値するとは思えない馬鹿なのに。

そう思うようになって、私はどんどん近代主義者ではなくなりつつあるところだった。

その私の傾向が、とうとう、今回のヨルダン・イスラエル旅行によって、強化されてしまった。

前々から私の中に生まれていた「西洋近代啓蒙思想なるものへの疑惑」が決定的になってしまった。

ヨルダンの砂漠を見つめながら、私は思った。

世界ってすごい。

こんな広大な砂漠がある。

人間が一生かかっても、この砂漠のことは把握できないんだろう。

毎日毎日この砂漠を眺めているだけで人生が過ぎていっても、いい。

それはそれでいい。

この砂漠に生きる人々が、アメリカ人みたいに生きる方が幸福とは言えない。

顔だけ出してあとは衣装で包んで素肌をさらさないイスラム教徒の女性が抑圧されているとも言えない。

こーいう衣装の方が面倒くさくなくていい。シンプルでいい。

同じ伝統や習慣や慣習がずっと続くのが悪いわけじゃない。

イスラム教のことは知らないので、イスラム教徒の発想がカルヴィニズムのように予定論であるか決定論であるかは、私にはわからない。

でも、ともかく自分たちが生きる砂漠を支配する絶対的な神がおられるのだから、その神の掟を守って生きていけばいいんだ、神に全てを委ねて、グジャグジャ余分なこと考えることは無意味だ、と思っている姿勢は、カルヴィニズムに近い。

そのシンプルさ、大いなるものへの疑いのない従順さ。

ヨーロッパからは消えたカルヴィニズム的心性が、現代の21世紀の中東には残っているのではないか。

これを後進性とか野蛮とか遅れているとか言えないのではないか。

人間って、結局は、わけのわからない大いなるものに左右され、でもそれを受け容れて、ただただ生きていくだけでいいんじゃないのか。

欧米世界になんか関わらない方が、このアラブの人たちは幸福だったんじゃないのか。

ジープで砂漠を走らなくたって、駱駝でいいじゃないか。

驢馬に揺られてでいいじゃないか。

・・・・・・・・・

まさか!

私が反近代主義者になるなんて!

今の私は、いわば「21世紀のカルヴィニスト」だ。

最近も、自分のこういう傾向を意識させられる事が起きた。

それは、私が読んでる某神道系霊能者のBlogに書かれていることに関することだった。

そのBlogには、どうにも奇妙なことが書かれていた。

人名ははっきり書かれていないのだけれども、今の首相の安倍さんか小池百合子さんか小泉進次郎さんが、総理大臣であれば、日本の未来は大丈夫で国体も守られるみたいなことが書かれてあった。

はあああ?

普通ならば、この霊能者ってダメだね〜〜〜アメリカのネオコンの回し者かね〜〜〜で終わりだけれども、私は以下のように考えたのだ。

これは、どういう意味かな?

この3人が政治家として優れているという意味だろうか?

それは考えられない。

それとも、他の人間よりはマシという意味だろうか?

それはありえる。

それとも、この3人は運が強いから、その運の強さで、この3人のすることは結果的に日本にプラスになるってことだろうか?

それなら、もっとありえる。

安倍さんは私が出た大学の偏差値より低い偏差値の大学をパッとしない成績で出て総理大臣になったもんな。

運はすこぶる強いだろう。

小池さんも運は強そうだ。

進ちゃんは、偏差値すっごく低い大学出て、親のコネでアメリカの名門大学の大学院に入り、アメリカで有数のシンクタンクの研究員になった。

強運である。

トップに立つ人間は、運だけは強くないと困る。

アホでも無知でも幼稚でも嘘つきでも卑怯でも売国奴でも運は強くないと困る。

戦後日本の繁栄を思うと、昭和天皇は類稀なる強運の方であったと思う。

普通ならば、あの方は戦犯として処刑されても不思議ではなかった。

運が強いというのは、その人間の言動が、たまたま良い状況を招いたという結果論的なものだ。

すっごく優秀で善意でも結果が悪いなら運が良いとは言えない。あくまでも結果だ。

大英帝国の礎を築いたと言われるエリザベス1世は運だけは強かった。

本人は英邁でも何でもなかった。

臆病で優柔不断で何も決断判断できなかった。

ただ状況が彼女に都合よく変化しただけだ。結果として。

つまり、そういう意味で、あの霊能者は安倍さんや小池さんや進ちゃんを肯定してるのかなあ?

本人たちの政治家としての資質はどうでもよくて、運だけはいいから、ということなのかなあ?

そうなると、選挙なんて無意味だな。

本物の霊能者に運の強い人間を選ばせりゃいいわけでさ。

と、ここまで考えて、私はギョッとした。

自分が西洋近代啓蒙思想の根幹たる個人の理性の発露による議会制民主主義を否定するようなことを思ったことに。

しかし、「21世紀のカルヴィニスト」になった自分のありように、変な解放感を感じている私なんである。

あ、写真の月は、ヨルダンの夜の空にあった月です。

クレヨンしんちゃんに教えられる

本日は2017年8月28日月曜日である。

今は香港のローカルタイムで午後9時半だ。

午前1時発イスラエルのテレアビブ空港までの便に乗るまで暇だ。

本を読む気もしないので、Blogを書く。

香港国際空港って広いね。

脚の不具合さえなければ隅々まで歩いて見物するのに。

中部セントレア空港も香港国際空港も、空港に人はいっぱい。

支那人って元気いいな。

よく食ってるわ〜〜〜

傍若無人だわ〜〜〜

中華人民共和国という国家が分裂しても、支那人は永遠に元気だわ〜〜〜

それはさておき、今日は、「クレヨンしんちゃん」のアニメ映画版って、すごいねということを書く。

TV放送版は見たことないので判断がつかない。

私の年齢で「クレヨンしんちゃん」観てるはずはないんでさ。

観てたら、頭おかしいよ。

でも、たまたまどーいう理由でだか忘れてしまったけれども、「クレヨンしんちゃん」の映画版ををamazonビデオで視聴して感心した。

最初に見たのは1999年の作品で、懐かしの「丹波哲郎」が出ていた。

びっくりした!!

64歳の人間の鑑賞に耐えるんだもの!!

それから、何本か1990年代のものから最近のものまで視聴してみた。

良くできてる!!

面白い!!

子ども向きとは思えないほどに、凝ってる!!

もう、「春日部防衛隊ファイヤー!!」と64歳で連呼する日々。

もう、野原しんのすけ一家は、気分的には私の親戚だ。

しんちゃんは立派だ!

友だちを大事にし、家族を大事にして、自分自身も好き勝手に生きてる!!

人生の達人だ!!

特に特に感心したのが、2016年発表の「クレヨンしんちゃん 爆睡! ユメミワールド大突撃」だ。

しんちゃんが住む街の住民たちが同じ悪夢を観るようになってしまった。

変な大きな魚が夢の中に出現して飲み込まれそうになるという怖い夢だ。

どのトイレのドアを開けても、トイレが汚くて用を足せないという夢の方が怖いと思うけどねえ。

ネタバレを書いてしまうけれども、要するに、幼い娘が毎晩の悪夢で眠れないので、父親の科学者が、住民の楽しい夢のエネルギーを吸って、そのエネルギーを娘に与えて娘を守っている。

住民の楽しい幸福な夢のエネルギーを吸い込んでしまうので、住民には悪夢しか残らない。

住民から夢のエネルギーを吸い尽くすと、その父と娘は引っ越して、別の街の住民たちの夢のエネルギーを奪う。

そうやって父娘はさすらっている、という設定だ。

それに気がついたクレヨンしんちゃんたち「春日部防衛隊」の幼稚園児たちは、楽しい幸福な夢を奪還するべく戦うという物語だ。

他人の夢のエネルギーに寄生しなくてはならない父娘を救うべく奮戦するのは、「春日部防衛隊」だけではない。

しんちゃんの両親も、子どもの心に帰り夢見るエネルギーを増大させて頑張るのだ。

しんちゃんの妹の赤ちゃんの「ひまわり」ちゃんも、飼い犬(ペットじゃないよ、あくまでも飼い犬)のシロも頑張る。

いやあ〜〜〜感動。

簡単に言えば、この「クレヨンしんちゃん 爆睡!ユメミワールド 大突撃」は、 夢見る心に関する寓話だ。

「夢見る心を忘れると、人生は殺伐とした暗い虚しいものになりますよ、夢見るのなんて無料 なんだから、いい夢を見なさいよ、いいヴィジョンを持ちなさいよ」と教えてくれる寓話だ。

いやあ、64歳ともなると、夢なんかないじゃないの。

幻想なんか壊れて久しいし。

胸が踊るなんてことはないんよ。

なんもトキメカないんよ。

食えば太るし、眠ってもすぐに目が醒めるし、何を着ても似合わんし、何を読んでも、「これは真実ではなく、多くの解釈のひとつでしかない……」とか疑うし。

空港に来ても、飛行機に乗っても、異国の空港を行き来する各国の人々を眺めても、だから何?だ。

何をわざわざ、私はイスラエルに行くんだ?

そりゃ、すごいことなんよ。

日本の無職のババアが香港国際空港でiPad使ってBlog記事を書いてるなんてさ。

この1文でサラッと書いていることを可能にするには、どんだけのインフラが整備されていることか。

どんだけの多くの人々の長年の努力の蓄積があったことか。

すごいことだよね。

平凡な64歳の日本人の女が、香港の空港の椅子に座って、フリーWiFiを使って、iPadにダウンロードしたBlogアプリに入力して、アップしようとしているなんて。

なに、これ!?!?

江戸時代の人間なら想像もつかないようなBrave the New Worldだぞ!!

今や世界は、すでに第三次世界大戦が始まっているとか、9月にアメリカが北朝鮮を攻撃する(副島隆彦氏の来年の4月だろう説もある)とか、欧州は荒廃しつつあるとか、いろいろ各地で不穏なのに、この空港では、そんなこと知らんわとばかりに、人々は移動している。

東へ西へ。

このことだけでも、すごい奇跡だ。

その奇跡の真ん中に私はいる。

なのに、いまひとつ感動していない私。

現実的に生きなきゃと思うあまりに、長年の間に夢見る心を忘れた私。

未来を思うエネルギーをなくしている私。

未来に参加しようと思うエネルギーをなくしている私。

5年後、10年後の自分自身を考えるエネルギーをなくしている私。

あのねえ、ババアにだって未来はあるのだよ。

死ぬまで、良き未来を夢見て生きることが生きる糧になるのだよ。

過去なんて思い返しても退屈なんだよ。

起きてしまったことは退屈だよ。

やっぱ、何が起きるかわからないから面白いのだから。

そして、何が起きるかわからないような未来を迎え撃つエネルギーこそ、ヴィジョンを持っているからこそ生まれる。

こういう人生を生きるんだ! というヴィジョンを持っているからこそ、闘える。

そーいう大事なことを、「クレヨンしんちゃん」に教えられた私。

今何時だ?

搭乗時間まで、あと1時間半か。

どんなに馬鹿馬鹿しくても、アホでも、夢見る心を忘れると、人間は萎縮を始める。

細胞がひからび始める。

搭乗時間まで、妄想にふけろう。むふふ。

以下に、特に私が感心した「クレヨンしんちゃん」映画版を紹介しておきます。ご覧になっていない方々は、騙されたと思って、ご覧ください。

もう、この「戦国大合戦」なんて泣いちゃった。

「クレヨンしんちゃん」制作陣のみなさま、ありがとうございます!!

永遠の幼稚園児、男の中の男の「しんちゃん」アニメを、これからも作り続けて楽しませ教えてください!!

快楽主義と神経過敏は啓蒙思想の成れの果て

本日は、2017年7月19日水曜日である。

先日、The Wall Street Journalの日本語版を読んでたら、以下のようなニュースを見た。

http://jp.wsj.com/articles/SB10387820417957044660204583266973099959046

アメリカで、ゲームをやるために仕事辞めて引きこもって親と同居する若い男性が増えているという記事である。

この記事の最後は、同じくゲーマーが多い日本では、そういう現象がないとか書いてある。

いやいや、日本でも類似現象はある。

私のゼミ生のひとりは、ガキの頃からゲームばかりで、大学生になったら、世界中のゲーム愛好家といっしょに戦争ゲームに興じ、自分は司令官として作戦指令をしてた。

指令も簡単な英語でなんとかなるそうである。

インターネットでつながりながら世界中のゲームオタクと情報交換。

それでも、彼は単位はちゃんと取って、複数のコンピューターを駆使して、ゲームをしながら、卒論も書いた。

テーマは、Cyber Warsとかの新しい戦争形態についてだった。

趣味を卒論にしたんだな。

で、就活はいっさいしなかった。

family businessを受け継ぐとか言ってたけれど、よく知らない。

貴族でも財閥の御曹司でもないのに、自分の食い扶持すら稼がずにゲームに夢中になっているという生き方は、この世界の文明の到達点として、当然にありうる。

今の世界の先進国の人間観や社会観は、18世紀の啓蒙思想を基にしているので、だいたいが以下のようなものだ。

 人間は、生まれながらにして法(神?)のもとに平等である。

生まれながらに自由と生命を守り、幸福を追求する権利がある。

この権利は誰からも奪われない!

好きなことして生きていいのだ!

国家は、個人のそれらの諸権利を保障するためにある!

それらに権利を犯す政府は取り替えられるべきだ!

こんなこと言うとぶっ飛ばされるが、この近代市民革命を生んだ啓蒙思想って、なんという世迷言であろうか。

世迷言というか、非現実的だ。

人間は、法のもとでも神のもとでも平等じゃない。

貨幣のもとでも平等じゃない。

成金が1億円払っても、入会できない特権的クラブもある。

自由や生命が守られる権利も、幸福を追求する権利も、そういう「言葉」があるだけのことだ。

ましてや、そんなものを守ってくれる政府なんて存在しない。

政府は為政者と国会議員と国家公務員のためにある。

ほんとはね。

一応、そういう建前で政府が運営されています〜〜〜というだけのことだ。

高校生なら騙されても、いくらなんでも30歳過ぎて、そんなこと信じていたら白痴だ。

建前と現実を混同させるのはガキの頭だ。

しかし、一応、法律には人間の権利を守るべきと明記されているので、カネと暇をかけて裁判闘争すれば、建前を言い募る方が勝つ。

セクハラされたら、女性の人権が侵されたことになるので、訴える。女性が勝つ。

これは実に素晴らしいことだ。

が、ただ、それだけのことだ。

勝ったとしても、死刑どころか懲役にもできず、せいぜい数十万円の賠償金しかとれない。

セクハラをする男は延々と生産される。殺しても殺しても生まれてくる。

セクハラだと女性が思えばセクハラなんで、セクハラのタネは尽きない。

神経過敏な女性からすれば、「痩せたね〜〜」と言われてもセクハラだ。

汚ったない顔で歩いている男は、存在そのものがセクハラだ。

私が、何を言いたいかと言えば、現行の文明社会は、「あなたは好きに生きていいのよ。その権利は守られるから」という建前で成立しているということは、当然に、好きに生きるという快楽主義が肯定され、快楽主義は快不快にこだわることなんで、どうしても神経過敏になり、そーいう神経過敏が肯定されるってことだ。

そういう社会では、当然に、「ゲームがやりたいから仕事しないで親に食わせてもらう成人男性」が生産されるってことだ。

「ゲームがやりたいから仕事しないで親に食わせてもらう成人男性」というのは、人類が作り上げてきた文明の結果なんよ。

アメリカの若い人とか、ヨーロッパの若い人って、エネルギーないもんなあ〜

先進国で気楽に快適に育てられたので、幻想の中で生きていて、貧乏人のくせに、王子様か王女様のつもりだ。

その程度の若い凡人たちが、好きに生きよと言われたら、快楽に走るに決まってる。

発明とかイノヴェイションなんてしやしないよ。

ゲームに夢中になる。

家を出て外に行けば、不快な現実ばかりだ。

ゲームの世界みたいに、サッと結果は出ない。

ゲームのキャラクターみたいに現実の他人はカッコ良くないし、消せない。

すっごく不快になる。

「現実はそういうもんでしょ。いちいち傷ついているあんたが悪い。あんたのことなんか世界は知らない。鈍感に無視するのも生きる技術だ」なんて、誰も言ってくれない。

言ってくれる人がいても、意味わかんない。

で、ゲームやるために仕事を辞めて引きこもる。

親の家に同居すれば、住居費と食費はタダで、(当分は)生きていくことができる。

「現実逃避しているだけだ!」とか「働かざるもの食うべからず」とか「自分の食い扶持ぐらい稼げない人間はクズだ」とか、今時は、親も言わない。

ましてや教師や他人は言わない。そんな親切はない。

親も、啓蒙思想が生んだ快楽主義と神経過敏を、人間の権利=人権と教えられてきたから、子どもに言えない。

「成人のあんたを食わせる義務はないから、出て行って」と言えない。

あとは野となれ山となれ白骨死体となれ、と子どもを捨てることができる根性のある親ならば、そういう類の子どもには育たない。

まともな親ならば、学校で綺麗事を教えられて脳をやられかけている子どもに言うべきだ。

「現実の世の中はダブル・スタンダードで動いている。人権人権と言っていても、そんなものは現実には存在しない。絵に描いた餅である。自分のことは自分で守るべく全力で生きよ。権威者はすべて疑え。社会も国家も学校も裁判所も病院もすべて疑え。誰の信者にもなるな。ただし、こういうことを世間で口に出してはいけない。言ってもわからない人々に言うだけ時間の無駄である」と。

まあ、親が死んだら、「人権教」のNPOとか福祉団体が役所に掛け合ってくれて、生活保護給付金が受け取れるようにしてくれるから、引きこもり無職のゲーム中毒男も、なんとか餓死はしないですむよ。

いい時代だね〜〜

しょうもないわ……

現代は、もう確信犯的に快楽主義と神経過敏で、ギャアギャアと「私の好きにさせろ〜〜私を傷つけるな〜〜」と言い立てる奴の勝ちだ。

人権思想の根源は啓蒙思想でさ、

啓蒙思想の根源はキリスト教だけどさ。

ということは、今の社会の腐った軟弱さの元凶はキリスト教なんだ。

キリスト教が、実は神経過敏な快楽主義の変形だってことは、すでに19世紀にニーチェが言っている。

あ、キリスト教というビジネスと、イエス・キリストは別物だということは、念のために書いておこう。

あのわけのわからんお経と葬式仏教と釈迦が別物であるように。

もし、あなたが現実から逃げずに無駄に神経過敏にならずに、健康に健全に生き生きと適度に野蛮に生きたいのならば、キリスト教を「弱い意気地なしの言い訳弁護教」であり、啓蒙思想も人権も社会主義も共産主義も、キリスト教の別派だと洞察したニーチェを読むといいわよん。

http://amzn.to/2u6u69P


http://amzn.to/2u6q6pK

http://amzn.to/2u8nFVj

http://amzn.to/2uH428s


ま……

やっぱり、西洋文明の終わりも近いんかね。

いよいよ健全に野蛮なアジアの時代だ〜〜〜〜!!

二極化

本日は2017年6月7日水曜日である。

Facebookをチェックしていたら、Facebook友だちのひとりが、以下の記事を投稿していた。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51910

大学を出るまでは問題なかったけれども、就職しないまま、自宅でできる仕事もしないまま、かといって結婚して自分を食わせてくれる男を捕獲することもなく、そのまんま自宅で「家事手伝い」しているうちに、40代や50代になっちゃったという女性が増えているという記事である。

私は驚いた。

こーいう広義の意味あいの長期の「引きこもり」というのは、男性だけだと思っていた。

もともとが人間の基本形は女性なんで、男性は、染色体だか遺伝子だか知らないけれど、生き物としては「仕掛品」(しかかりひん)が多い。不良品が多い。

不良品になりやすい。ぶっ壊れやすい。

男は、当たり外れが大きい。

ピンとキリしかいない。

だって、犯罪者だって男性が多いでしょう。

綺麗事を言うのやめようよ。

「引きこもり」も「犯罪者」も人間の不良品なのは事実なんだから。

と、思ってきた私は、女性にも引きこもりが多いと知って驚いた。

ええええ? なんで?

私が知っている「女性の引きこもり」の例は、ひとつだけある。

「無駄に繊細で人目を気にするプライドは高いが怠けもんで臆病で頑固なブス」の事例である。

大したブスじゃない。

女は美女でなければいけないと思い込んでる頭のおかしいブスだ。

ブスであるという劣等感のために自尊心が極度に低くて、引きこもりとなった。

就職できたのに、数年もしないうちに辞めてしまった。

この事例については、まったく同情しない。

ブスだと自分で思うのならば、美容整形でも美容鍼灸でも舌はがしでも何でもして綺麗になって、街に出ればいいのだ。

でも、そうしない。

人生を舐めているとしか言いようがない。

「ありのまま」で世の中を渡って行ける人間なんていない。みな努力してる。

醜いならば、他人からして見にくいならば、見やすくなるように努力すればいい。

話が逸れた。

40代50代になっても働かずに自宅で親に食べさせてもらっている女性の話であった。

まあ、死ぬまで働かなくても食うに困らないなら、それはそれでいいんじゃないの……生き方は人それぞれだし。

と、私は思った。

http://amzn.to/2rTmlVy

しかし、問題は、こういう「困った娘さん」は、必ずしも財閥のご令嬢とか、金融資産最低1億円はある(日本では220万人いるよ、2014年時点で)家庭の娘さんではないということだ。

経済的に余裕のない家庭の娘さんが多いということだ。

遺せる資産のない親の娘が多いということだ。

国民年金保険ばかりでなく、民間の個人年金保険に入り、娘を払込人&受取人にして多額の掛け金を払うことができる余裕のない親の娘が多いということだ。

で、そういう親御さんが役所に相談に行くそーだ。

「私ら夫婦が死んだら、うちの娘はどうなるのでしょうか」と。

知らんがな。

あんたらが育て損ねた娘さんの面倒まで、なんで行政がしないとあかんの〜〜

と、私が役所の担当者ならば、つい言いそうである。

しかし、そこは、役所の人は、「まあ、親御さんが亡くなったら、どっかのNPOにでも頼んで、ついて来てもらって、ご本人が生活保護受給申請でもなさるしかないですね……」と、こっそりと親切に答えるのであろう。

まあ、ありがちなことですね。

こーいう大卒女性の引きこもり家族に限って、経済的に余裕があまりないというのは。

経済的に余裕がない家庭の人間ほど、もっと経済的に余裕がなくなる方向に行くんよ。

不思議にも、そうなりやすい。

貧乏だから金についてリアルに考えるとは限らない。

貧乏だからこそ、金について甘く杜撰になりやすいという逆説もある。

財閥のご令嬢は信託財産もあるし、閨閥結婚や政略結婚をする。

こーいう金持ちの家に生まれ育つと、金の威力については遺伝子にしっかり刻まれるんで、金がない状態などに絶対にならないように生きる。

「お金で幸せは買えない」なんて世迷い言は頭をかすめもしない。

そもそも金のない人間と関与しない。

貧乏が伝染したら困るもん。というような小心な理由でもない。

もともと貧乏な人々が目に入らない。

目に入っても救いようもないし。

一方、金融資産1億円を形成保持できたぐらいの庶民の子どもは、そういう遺伝子を受け継いで、たくましくも自分も金融資産の積み上げに勤しむ。

こういう人々は、用心深く頭を働かせるので、「振り込め詐欺」に騙されることもないし、投資話に騙されることもない。

そのための勉強や情報収集も怠らない。

もともとが遺伝子が強いというか、タフなんで、親子ともども獰猛に社会で渡り合える。

世間に負けない。世間なんか馬鹿だと正しく見抜いている。

なんで、40代や50代になるまで親の世話になっていられるかといえば、親も子も遺伝子が弱いんよ。

優しい。いい人。無駄に傷つきやすい人。

ちょっとしたストレスや、ちょっとした冷遇や、他人の悪意に打たれ弱い。

「だから何だ!」と、怒鳴れない人。

親も「働くのは辛いことーー」と思ってきたので、娘の無職状態を受け容れてしまう。

頭が悪い親だと、娘をプリンセスみたいに大事に育てちゃうからね。

不幸で馬鹿な女が息子を(貧乏)王子様に育てるのは、あまりに陳腐な現象なので、ここではとりあげない。

頭が悪くて善良な人が親になると、暇つぶしの方法がわからなくて、育児に過剰に充填しているうちに、成人した子どもまで過剰にケアしてしまう。

貧乏人が何を勘違いしてるの?

ちゃんと地に足をつけて生きないとダメでしょ?

非現実的なのはダメでしょ!

と、親類ですら誰も真実を親切に言ってくれない。

他人に親切に真実を言う義務もないし。

私も、姪が幼児期から子どもにタブレット与えてゲームさせるがままにまかせてることについて何も言わないもの。

「あああ……ものを考えることができない人間にさせてる……子どもは親を選べないからなあ……かわいそうだなあ……」と眺めているだけだ。

まあ一度だけは、「絵本の読み聞かせとかしてるよね? 小さい時からタブレットやスマホなんか持たせると馬鹿になるよ」とは言ったけれども。

ということで、どんどん、個人も、家族も二極化していくんよ〜〜〜

先日も名古屋市内で乗ったタクシーの運転手さんが言ってた。

「いやあ、僕は最近、怖いです〜〜いろんなお客さんに乗っていただきますが、差がすごいんです。二極化してます。かわいそうだなあ……こうやって愚かさが代々伝わっていくんだなあ、と思わせる家族の方々をお乗せすることもあれば、もれ聞いているだけで僕が勉強になるような話をしている家族もおられます。これでは、どんどん差が広がるだけですね〜〜馬鹿はどんどん馬鹿になり、賢い人はどんどん賢くなるんですね〜〜〜」と。

うん。このまま行けば、超特権的支配層が、ものを考えない人畜牧場を統制する社会になる?

人畜牧場の人類は、パンとサーカスを与えられて飼育される?

支配層と人畜集団の間にいる「ものを考える人々」は、どんどん孤立化する?

そんなの、ローマ帝国時代から同じだよ。

二極化が進行しているんじゃない。

あらかじめ、ずっと、人類は二極化されてきた。

その事実に、かなりの人々が気づいてきたんだ。

そこに希望がある。

まずは、あたりまえだと思ってることを疑うことから。

社会が悪い。時代が悪い。政治が悪い。悪人が悪い。心無い人々が悪い。

そんなもん、未来永劫ずっと悪いわ!

良くなるのを待ってたら、人類の時代が終わるわ!

自分の人生なんだから、自分で責任を持って必死になって自分を幸せにするの。

必死であたりまえだ。

こーいう言説も疑いつつ、必死で生きよう〜〜

私は、これから必死に夕ご飯を作る。

ちっぽけな成功体験でも成功体験だ

本日は、2017年5月20日土曜日だ。

この文章は、4月に書いて、下書きに保存していて、忘れてしまったものだ。

自分で獲った餌をどこかの枝に突き刺して保存したつもりで忘れる百舌(百舌)だな、私って。

駄文ではあるが、せっかく書いたから公開しておく。

今年の4月あたりに、Facebookの投稿に、「大人の自殺者は減っているけれども、子どもの自殺者は減っていない」という記事が紹介されていた。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/04/20/suicide_n_16133662.html

この投稿に対して、いろいろなコメントが書かれていた。

「統計はいい加減である。不審死は自殺とカウントされない。遺書がなければ自殺と認定されない。毎年3万名が自殺すると言われてきたけれども、ほんとうは10万名くらいだろう。身元不明の自殺者は、死そのものが知られていない」とか。

確かに、確かに。

実質は緩慢な自殺であるような変死は多いだろう。

統計は事実の一部しか示さない。

こういうコメントもあった。

「抗うつ剤に依存して自殺するケースは、自殺者数にカウントされないのではないか。病死として判断されるのではないか」とか。

確かに、確かに。

薬害は多いのであろう。

だけれども、他人任せの患者があかんわ。

医者はビジネスだから、なんでもやるわさ。

なんで、他人が処方した薬なんか素直に延々と飲んでいられるのか不思議だ。

薬なんて、もともとが飲まないほうがいいんだから。

副作用があるに決まっている毒なんだから。

話を元に戻す。

子どもの自殺の数は減らないとかについてだけれども。

子ども時代って、だいたいが死にたいもんよ。

子どもって、周りが気をつけていないと、わりと簡単に死んじゃうよ。

あの子たちはこの世界の新参者なんで、生きていること自体が、相当にきついのだよ。

何も感じていないサルに見えて、すっごく傷つきやすいのだよ。

だから、子どもの一定数は、自殺する。

そーいうもんよ。

私も死にたいことばかりだった。

勉強もできてスポーツ万能で、いつも学校の花形で、ピアノもすぐ弾けるし、親はPTAの会長で……学校は小学校から名門私立校で、キャンパスは美しく清潔で快適で……というガキもいるだろうけれども。

が、普通の子どもにとっては、学校生活はストレスフルだ。

私は、普通以下の子どもであったので、学校生活にしろ何にしろ、非常に不快で重荷であった。

私は子ども時代に帰りたいと思ったことは一度もない。

冗談じゃない。

学校そのものが、建物は古くて汚くて臭い。

トイレは暗くて汚くて臭い。

掃除したって綺麗になりはしない。

汚れた雑巾で廊下をなぞっているだけ。

そこに毎日通わねばならない。

給食は必死に速く食べねばならない。悠長に食ってちゃいけない。

同級生たちは、育っている家庭の問題をそのまま反映してる。

意地悪だったり、小うるさい。

ひっきりなしにキーキー喋っている。

男の子は、ドアの開け閉めについても、ほんとうに鈍感で乱暴。

無神経と無作法が短パン履いていた。

女の子は、小学校低学年から、まるで「団地の奥さん」だった。

「団地の奥さん」というのは、すでに死語だな。

要するに昼日中から複数で立ち止まって延々と何時間も、しょうもない話をしている昔の専業主婦たちのことだ。

昔は、そういう風景を、あちこちで見かけた。

いまどきの主婦は、そんな優雅なことはしていられないが。

共働きが普通になった主婦には、そんな暇はないが。

学校の先生は、親ほど理不尽ではないけれども、まあプチ理不尽だ。

大人は、みんなウザイのだ。

わけのわからない怒り方をする生き物であった。

ともかく、私の子ども時代は、「冒険」の連続であった。

そういうストレスフルな日々のなかで、 小さなストレスにいかに立ち向かってクリアしていくかの 冒険の連続。

こういうことは親に言ってもダメだ、自分でちゃんと先生に言いに行くんだ。でも、職員室に行くの嫌だなあ。でも、行かなきゃ。

で、職員室に行って、ちゃんと先生に説明できた。良かった!できた!

ちょっと喧嘩して、3日間仲良しの何とかちゃんと喋っていない。何とかちゃんとは、これからも仲良くしていたい。私が悪かった。でも、謝るのいやだなあ。どうやって謝ろう。

その鬱屈と躊躇(ちゅうちょ)に勝って、ちゃんと謝ることができた。また仲良くなれた。良かった!謝るのって簡単だ!意外と簡単だった。これからは、自分が悪かったと思ったら、すぐ謝ろう!

大晦日なのに、家の障子紙(そういうものが日本の住居にはかつてあった)が古くて汚れてる。貼り替えないといけない。でも、親は忙しそうだ。私で張り替えることできるかな。

和紙と糊を買ってきて、ゆっくりゆっくりやったら、貼り替えることができた!私でもできた!!不恰好だけど、できた!

これから毎年暮れになったら、障子の張り替えは私がする!家の中を綺麗にできるんだ、私でも!

学校の帰りにお腹空いたから、「寿がきや」のインスタントのうどんを買ってきた。ところが袋に入った麺の一部が黒くなっている。

これは何?黴(かび)というものらしい。どーしてくれるの!食えんじゃないのよ。私がお小遣いで買ったんだぞ。

こーいうもの売ってちゃいけないと思う。ここの会社に手紙書いて、黴のはえた麺入りの商品を送っておこう。私は「寿がきや」が好きなのに残念ですと書いて送った。

そうしたら、私が学校にいる間に、「寿がきや」の社員の人が自宅に来て謝り、代わりの商品を置いて行ってくれた。オマケもつけて。何も知らない母親はビックリして慌てたそうだったが。

やっぱり、言うべきことはきちんと丁寧に言うべきだな。泣き寝入りしちゃいけない。

私にとっては、何でもない小さなことが、全部が非常に難しいことに思えた。

ひとつひとつ試みていくことだけで、非常に緊張し疲れた。

ない勇気を振り絞ってするしかなかった。

でも、これらの実にささやかなことができると、嬉しかった。

長じて、もっともっとややこしい問題が出て来た。

その度に、私を支えてくれたのは、幾多の「成功体験」だった。

「成功体験」というのは、ささやかなものでいい。

ちっぽけでいい。

オリンピックに出場したとか、すごい大学に現役で合格したとか、コンクールで優勝したとか、そんなご大層なことでなくていい。

自分としては回避したいストレスから逃げずに、クリアした、真正面から迎え撃った。

これが、私の成功体験。

そういう類のセコイ小さな小さな小さな成功体験でも、塵も積もれば山となる。

ささやかでちっぽけでも成功体験は成功体験だ。

成功体験は、自信を育む。

自分を頼む気持ちが習慣になる。

そんな自信でも積み重なれば、確信になる。

逃げなければいい。

堂々と迎え撃てばいい。

大丈夫だ!

不器用でも不細工でもカッコ悪くても鈍臭くても、ひとつひとつ丁寧にやって行く。

時間かければ、できる。

そうすれば、必ず突破できる。

この世の中は、自殺したくなるようなことばかりだ。

それでも、自分で選んで生まれたのではないから、自分で勝手に死んじゃいけない。

確実に絶対にいつかは死ぬので、慌てることはない。

それまで、いろんなストレスに挑む。

私にとっては、トイレの天井の電球を交換することさえ、できるようになれば成功体験だ。

餃子を綺麗に焼き目をつけて、フライパンにこびりつかせずに焼くことができるようになるのも、成功体験だ。

21年間の単身赴任生活を大断捨離して、名古屋に引っ越しを完了させたことも成功体験だ。

何しろ、私は、幼い頃には「知的障害児かもしれない・・・」と親を本気で心配させた。

それぐらいに、不器用で何もできない。

でも、他人と比べてもしかたない。

自分の人生だもの。

自分ができるようになればいい。

他人が10歳でできることを、64歳でやっとできるようになっても、いいんだ。

できるようになったという成功体験は、私のものだ。

これから、もっともっとシンドイ辛いことも起きるのだろう。

回避できないなら、丁寧に付き合う。丁寧に乗り越える。

ということで、自殺したい人へ。

ひょっとして、あなた、ご自分のことをえらく大層な人間だと考えてきて、ささやかなことを蔑(ないがし)ろにしてきたんじゃないですか?

と問いたい。

この世に流通するアホな幻想ではなく、他人との比較ではなく、自分の人生と自分の実感を大事にしてください。

頑張って生きてきた自分を認め受け入れ、愛(いと)おしんでください。