本日は2023年11月7日火曜日です。
しなきゃいけないこといっぱいあるのに、昨日見てきましたゴジラの新作。
私は、ガキの頃からゴジラ映画のファン。
ゴジラは私の人生と共にあった!
小学生の頃の私の夏休みの最大幸福イベントのひとつは、ゴジラ映画を父に連れられて妹とともに見に行くことだった。母はゴジラに興味なし。
ああ!『キングコング対ゴジラ』よ!
見終わったあとに映画館前のお寿司屋さんで食べる鉄火丼の美味しさよ!
妹は鉄火巻きだった。妹は私と違って少食だったですね、うん。
ところで、あの最高傑作の『シン・ゴジラ』(2016)のあとに作るゴジラ映画は、どうやっても『シン・ゴジラ』と比較される。
あれを超えるなんて予算的にもとんでもないことになる。
だから、『シン・ゴジラ』と同じようなノリで作っても意味ない。
だから、全く違うアプローチでなきゃ!
『ゴジラ−1.0』のアプローチは成功しています!
結論!見るべし!見るべし!
映画館の大きなスクリーンで見るべし!

監督は山崎貴(やまざきたかし)氏です。1964年生まれ。長野県生まれ。
脚本もVFXも担当です。
VFX ってvisual effectsのことですね。えらいマルチな才能の方ですね。
山崎さんは、私の好きな『永遠の0』とか『アルキメデスの大戦』とかを監督なさった方です。
『Always 3丁目の夕陽』についてはなあ……1953年生まれの私は、この舞台の昭和33年って記憶にあるからさあ。
ちょっと違うんだよね、1958年の日本って。あそこまでビンボーってことはなかった。
それはさておき、ちゃんと素晴らしいゴジラ映画を作ってくださった山崎監督!俳優やスタッフの皆様、ありがとうございます!
ネタバレはしたくないので、細かいストーリーは書きません。
要するに私流に大雑把に言えば、『シン・ゴジラ』は、いつしか自分たちで国防をすることを忘れかけてしまっていたガバナンスがガタガタの属国日本の存亡を担って、ゴジラを凍結するために日本の政治家や自衛隊が頑張る物語。国家公務員が頑張る話。
一方、『ゴジラ−1.0』は、日本政府も米軍も動かない1947年の日本をゴジラから守ることは、普通の国民がするしかないことだったので、普通の国民の有志が勇気と知恵と体力を尽くす物語。
つまりさ、2016年から7年後の日本では、政治家あたりの国家公務員が頑張る映画はリアリティがなくなっちゃったのねん。
そういうことなんよ。

太平洋戦争では、兵卒や一般国民は、生命を軽んじる類の日本の上級国家公務員の精神文化のために、さんざん酷い目にあってきた。
それに素直に従ってきた国民も悪いんだけどさ。
もう日本人の庶民って、奴隷やりつつ、ささやかな幸福に生きる能力だけはあるからさ。
いいのか悪いのか。
当時は、戦車も戦闘機も、カネがないのでペラペラな作り。攻撃されたらぶっ壊れて、修理リサイクルできない安普請。
武器や食糧などの兵站(へいたん)を無視して兵を戦地に送り込んだし。現地調達してこいということで。それ略奪するしかないってことだ。
まあ、輸送船はどんどん米軍機に沈められたので、しかたなかったが。
挙げ句の果てには、行きの燃料しかない飛行機による特攻だ。
それも負け戦であることが明明白白な時期になって。
若い優秀な人々の生命を同調圧力と洗脳により酷使浪費蕩尽した。
国民を物のように消耗し尽くして、いったい戦争末期の日本の指導者は何をするつもりだったのか。
国体を守る?
国体って何だ?
お前らの特権のことか?
国体って天皇のことか?
サッサと降伏すれば,あんな犠牲は出なかった沖縄戦。
サッサと降伏すれば、原子爆弾が日本国土に2回も炸裂することにはならなかった。
この問題は、いまだに直視されずに、曖昧なままだ。
この問題をきちんと分析しないままで「日本人は優秀だ」なんて、言ってんじゃないわ、極東の離れ小島の土人が。
ともかく、命を粗末にするような戦い方は、もうしたくない。
しちゃダメなんだ。
1947年の日本には、自衛隊は結成されていない。
日本の政治家はGHQの顔色を見てた。
日本政府なんて形式だけ。正式な日本の独立(もどき)は1952年だ。
冷戦時代前の日本だ。米軍は、いつ熱戦状態になるかわからないので、ソ連に近いところで、派手な軍事行動は起こしたくない。
そもそもが、ゴジラはアメリカの水爆実験で巨大化してしまったのだから。
それに1945年当時、日本が降伏せず、本土決戦だったら、抵抗がすごかったら、連合軍は日本人を全滅させても構わないつもりだった。
硫黄島での日本軍の粘りに呆れて、日本本土決戦となれば米軍の被害を思うと、ちょっとなあ……とは少しはビビってはいたけど。
だから、ゴジラに日本と日本人が踏み潰され、焼き尽くされるならば、それはそれで好都合だった。
ということは、忖度がはたらいて、映画中では言及されておりませんが。
今度のゴジラは怖いよおおおおおおおお!
今までで一番に怖いゴジラかもしれん。

ゴジラは、もともとは南方の大戸島の海底に住む怪獣「呉爾羅」のこと。
それが水爆実験により放射能を発する不死の巨大怪獣になってしまった。
つまり、人類のカルマ,人類の業そのもののシンボルがゴジラだ。
さて、普通の国民の有志たちは、どうゴジラと戦うか?
命を粗末にすることなく、自分たちの国土を守るには?
天皇や軍や貴族や上級国民ではない国民が、個人自らの意志と選択により、日本を守るには?
この意味で、『ゴジラ−1.0』は『シン・ゴジラ』を超えている。
スケールの大きさは『シン・ゴジラ』の方がすごいです。
しかし、個人の人間と国、個人の人間と社会というテーマは、『ゴジラ−1.0』の方が深いです。
『ゴジラ−1.0』には、地味ながらも、志の高さを感じます!
まあ、『シン・ゴジラ』を観たときに、伊藤ナンタラ?って俳優が演じた政治家はリアリティがなかったもんな。
変な英語の石原さとみにも驚いた。何言ってるかわかんねえ〜〜
あんなん下級国民のファンタジーなのかも。
奴隷根性のあなた任せの日本人の見たい夢なのかも。
と、今の私は思っちゃう。
でも、自衛隊のヤシオリ作戦は良かったな。
在来線の列車群が、ゴジラに向かっていくシーンには泣いた。健気だった!
[59]『シン・ゴジラ』は世紀の大傑作である!!
『シン・ゴジラ』については,このBlogで何回も書いてるので、お気が向いたら読んでね!
って、今日は『ゴジラ−1.0』の話です!

『ゴジラ−1.0』は、普通の人々が戦うというテーマを、より明らかにするために、特攻帰りの青年を主人公に設定しています。
この青年は、特攻機を、少人数の警備隊のいる大戸島に不時着させた。
暗黙のうちに特攻で死ぬことを拒否した。
そして、その夜に大戸島の海底から出現したゴジラに、青年は特攻機に積んであった爆弾を発射できなかった。
で、警備隊が全滅しちゃった。整備兵でもある隊長ひとり残して。
そのことが深い傷となった青年にとって、1947年になっても、彼の戦争は終わっていない。
なぜ特攻に行かなかったのか。なぜ大戸島で爆弾を発射できずに、警備隊を全滅させてしまったのか。
この映画は、その青年が自分のトラウマを克服する物語でもあります。
自分自身の戦争を終わらせる物語です。
脚本はよくできてます。
キャラクターも、みな立ってます。
俳優も悪くないです。名優はいないけど。
でも、主人公の青年を演じた俳優さんには、やっぱり演技力が足りない。
特攻しなかった理由はわかる。生きるためだ。
では、なぜ大戸島でゴジラを攻撃しなかったのか?
あそこで攻撃しておけば、ゴジラが水爆実験に晒されて巨大化不死化することはなかった。
そこんとこは、やはり演技力で見せるしかないとこなんですが。
まあ、今の俳優にリアルな敗戦直後の日本人の匂いを発散させるのは無理。
平和で豊かな時代に育った日本人の身体で、あの当時の日本人を演じるのは無理。
それはわかっているのだけれどさ。
三浦春馬くんが生きていたら演じてもらいたかったな、あの青年の役は。
Facebook友だちのお友だちは、この映画を見て4箇所で号泣したと言ったそうだ。わかる。
私は2回泣いた。泣けてしかたなかった。
「日本政府も米軍もしないのならば、俺たちがやるしかない。誰かが貧乏籤を引かなきゃならないんだ」と男たちが決心するシーン。
そう、誰かが貧乏籤を引かないといけない局面がある。
「それでもいいよ!俺(私)がやるよ!」と言える魂の持ち主がいないと社会は成立しない側面がある。
それと、(「どうする家康」で本多平八郎忠勝を演じている名古屋出身の山田裕貴くん演じる)戦場に行ったことのない若者が苦労して集めた民間船で,ゴジラ壊滅作戦に協力するシーンでも泣いた。
ここは英国映画のクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』のクライマックスのシーンへのオマージュですね。

あの映画にも泣いたなあ。
あのシーンには号泣だ、ほんとに。
負け戦の撤退戦。フランスのダンケルクの海岸に取り残された英軍。空にはドイツのナチの爆撃機や戦闘機がとびかっている。
病院船も沈められてしまった。全滅するしかないのか。
すると、英国中から,観光船や漁船や民間船がいっぱい、兵士たちを救助に、ドーバー海峡を渡ってくる。
イングランドやアイルランドやスコットランドやウエールズの旗を靡かせて、ダンケルクの岸に向かって進んでくる。
もう号泣するしかないでしょ。
こうやって書いているだけで、私は泣けて泣けてタオルが手放せないよ。
[211] 映画『ダンケルク』に静かに号泣した
知らない? 観てない?
それは人生の損失ですよ。
『ダンケルク』見てよ!
クリストファー・ノーラン監督の最大最高作だぞ。国民映画だぞ。英国の。
って、何の話か。
ともかく!
『ゴジラ−1.0』には,いろんな映画や作品へのオマージュがあります。
滝沢聖峰の戦争漫画の影響もある。
滝沢聖峰の作品はコンビニや駅の売店で売ってます。Amazonでも売ってます。電子ブックもあります。

どんな作品へのオマージュがあるか、それはみなさんがご自分で発見してください。
マイナス1.0というのは、1954年に登場したゴジラは、この『ゴジラ−1.0』に登場したゴジラの再生だったという意味です。
と、私は解釈した。
よく考えついたですね、そういう設定。
ゴジラが登場して、ほぼ70年。
核を作ってしまった人類の業そのもののシンボルであるゴジラは、今も生きている。
政府や軍では,このゴジラに打ち勝つことはできないのだ。
では、どうすれば?
『ゴジラ−1.0』という映画は、そんな問いを私たちに突きつける映画です。
この映画は戦争の後始末にも言及している。
敵の戦艦の侵入を防ぐために機雷を繋いだ金属線をいっぱいいっぱい海底に敷設したはいいけど、それは戦後にどうやって処理するのか。
金属の船は機雷に引っかかるので木造の船で処理するしかないのだ。
ポッカリ浮いた機雷は爆破させる。一個一個。
難儀な後始末。危険な後始末。
それをするのは下級国民。
いまだに戦時中の不発弾って,見つかるじゃないですか。
こういうことを描いた映画ってのも初めてだった。
なんて、蒸したサツマイモを食いながら、いろいろと思いを馳せながら、ブログ書いている平和な午後。
ありがたいです。
「今日も会社のトイレから、ゴジラのいない街を見る」読み人知らず。
