こんな講義してます(その10)リーマンショックを引き起こしたエリートたちの劣化を描いた映画Inside Job

え~~今日も、2016年1月31日の日曜日です。

前回の第9回「アメリカ文化論」の講義の一部に引き続いて、2016年1月21日第10回「アメリカ文化論」の講義の一部を紹介する。

この日は、リーマンショックを引き起こした人々への突撃インタヴューでできている映画Inside Job(『インサイド・ジョブ世界不況の知られざる真実』)を鑑賞した。

この映画は、2010年に発表されたものだ。アメリカ・アカデミー賞のドキュメンタリー賞を受賞してる。すっごく面白いよ。

この映画のDVDはamazonで1000円くらいで買える。お奨めです。TSUTAYAにあるのかなあ?

Inside Jobってのは、「内部犯行」って意味だ。

要するに、仲間内で八百長みたいなことやって、自分たちは儲けたけれども、自分たちの引き起こした惨事のツケは税金に払わせた連中を告発した映画だ。

サブプライム・ローンを証券化して、他の債権と組み合わせた金融商品を売りまくった銀行やファンドの幹部。

そいつらにAAAというトリプルAの似非保障を与えた格付け会社(rating agency)の幹部。

そういう金融商品を買えと焚き付けたコロンビア大学のビジネス・スクール(経営大学院)の校長(大学院長)。

そいつらを規制するはずの政府の委員会は動かず。

まったくもって、そいつらの人相の悪いこと。

CDS=クレジット・デフォルト・スワップ(Credit Default Swap)なんて保険も、こいつらは考え付いた。

ある金融商品を購入した機関や人間がこの種の保険を買うのはわかる。それは普通の保険だ。

だけど、このCDSは、まったく関係ない機関や人間が買えるんだからさあ。

他人に生命保険かけて掛け金を払うことは違法じゃないんだから、こういうCDSだって違法じゃない。

道義的にはおかしいけどさ。

でもって、サブプライムローンを証券化して他の債権と組み込んだ商品を大量に売りまくってた会社は、その金融商品が破綻したときの保険CDSも大量に買い込んでいた。

ムチャクチャだ。破綻を待ってたんだね。

案の定、破綻。

でもってCDSを大量に売っていたAIG(American International Group)は、巨額の保険金を支払う羽目になり倒産しそうになった。

それを公的支援(bailout)=税金で救済することを決めたのは、オバマ大統領。

なんで、助けたんかしらん。資本主義社会のいいところは、愚かな経営者や投資家は淘汰されるということじゃないか。なのに、なんで税金で救うんだ。

いい加減にせいや~~そんな無茶苦茶な連中をなんで税金で救済しないとあかんか~~アホか~~と怒って生まれたのが、TEA(Tax Enough Already) Party Movementだった。

この映画に対する学生さんの食いつきは、けっこう良かった気がする。

アメリカ文化のエッセンスを知ることの参考になる映画は多いけれども、たった15回の講義では、それのほんの一部しか紹介できないのは残念だ。

 

こんな講義してます(その9)金儲けは美徳という思想を超える思想がないのはつまらん!

本日は、2016年1月31日の日曜日だ。

4学期終了まで、あと15日。この15日を頑張れば、自宅療養に入れる。

1か月半くらいは名古屋で休養させてもらわないと、4月からの2016年度の授業ができないよ。

ところで、本日は、2016年1月18日月曜日の第9回「アメリカ文化論」のクラスの一部を公開する。

きちんと学問的な情報とか、そういうものは、ここでは映像公開しない。

当然じゃないの。なんで、無料で、そんなことまで公開するんよ。

公開しても構わんことしか公開しないよ。

この日のテーマは、「アメリカの金儲けは美徳精神」の最終回。まとめだ。

「アメリカの金儲けは美徳精神」の功罪を整理して、しかし、まあいろいろあるけど、「金儲けは美徳」という思想しか、多文化多民族多人種の移民国家アメリカを束ねる思想はないんだよ、ということを言っている映像です。

ほとんどの人間には創造的な才能はないからね。

消費することでしか、自己主張も自己実現もできない。

ファッションというのは、消費によって、つまり衣服やアクセサリーを買って、自分を飾ることで、自己実現する行為だ。

私なんかも、クロゼットにぶら下がっている似合いもしない衣服を眺めながら思う。「私は馬鹿だから、こういうもの買って自分の鬱屈を誤魔化すことしかできないんだよなあ・・・自分で衣服をデザインして作るような技術もセンスもないもんなあ。消費すること、買い物することで、人生の空虚から目を逸らすしか能がない人間だな」と思う。

ファッション産業の隆盛の理由は、そこにある。

「消費することでしか、自己主張も自己実現も時間潰しもできない」程度の人間が圧倒的多数ならば、そりゃ、金儲けとか金を得ることだけが、有用な活動になるしかないよ。

でもさ、消費しかできることがない人間は、金儲けできるのかな。

金儲けを美徳にしても、そんな美徳を実現できる人間も少ないんだけど。

読書だって、書籍を購入しての時間潰しだもんなあ。ただの読書ならば、そうだよ。多読して、他人が提供する情報について知っているだけのことならば、ファッションに全エネルギーを注ぐ脳タリンの女の子と違いはないよ。

すみません。私は、ほんとに身も蓋もないことしか言わなくて。

他人が作った商品やサーヴィスを消費することによってでしか自分をお守りできない状態から、より主体的に自分の毎日に関わる、自分の人生を意識的に構築していく、これが「金儲けは美徳」という思想を超えることなんだよなああ。

しかし、ほとんどの人間は、週末になったら、家族で「イオン」を歩き回るしか時間潰しの方法がない。アメリカ人ならば、シアーズとかペニーズのショッピング・モールだな。

まだまだ「金儲けは美徳」という思想を超える思想は生まれそうもない。

いや、最初から、そんな思想はあるんだけど、その思想を生きることができる人間は少ないということなのかな。

 

こんな講義してます(その8)キリスト教別派人間念力教について

本日は、2016年1月24日日曜日だ。

今日は、2016年1月14日の第8回「アメリカ文化論」の講義の一部を紹介する。

第7回においては、「アメリカの拝金文化」の宗教的/思想的起源のひとつとして、マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において提示した仮説について説明した。

アニミズムが紛れ込んだカトリックに対して、聖書の精神に戻れ!と始まったプロテスタンティズムの中から、カルヴィニズムが生まれた。予定説が生まれた。人間が何をしようが、神がすべてを決定しているっていう考え方。

それは、そうよ。全知全能の神様が決めたことは人間は変えられない。ただただ神の木偶(でく)として生きるだけ。

これは、唯一絶対一神教ならば、当然に論理的にいきつく考え方。

しかし、人間は自分が神に選ばれていて、救済される存在だと信じたい。

だから、勤勉に働き、人のため社会のためになる仕事する。

「こんなに、頑張っている私だもん、大丈夫!神様に選ばれているに違いない!!」

この心性が、カルヴィニズムが浸透した地域(北ヨーロッパ、英国、アメリカ合衆国)に資本主義が発展した理由だ!

これが、マックス・ヴェーバーの仮説だ。

でもさ、北ヨーロッパや英国には、アメリカほどの「拝金文化」は生まれなかった。

なんで、アメリカに?

ということで、第8回の「アメリカ文化論」では、カルヴィニズムに抵抗する心情から生まれたキリスト教別派「ニュー・ソート」(New Thought)について話した。

これはいい日本語訳ができてない。だから、そのまんま「ニュー・ソート」としておく。

このニュー・ソート的考え方は、中世ヨーロッパからあった。提唱した人物は火あぶりで処刑されたけれども。

ニュー・ソートの考え方とは何か?

ぶっちゃけて言えば、「神は全知全能なんでしょ?完璧な存在なんでしょ?ならば、わざわざ人間を不幸にするみたいなことなさるはずないでしょ?完璧な神が作った世界であり、人間なんだから、世界も私たちも祝福されているって!!だから自分が救済されているか、神に選ばれているかと悩み恐れる必要はない。みんな救済されている!!!神の子として光に向かって進もう!!」つー思想よ。

だから、「あなたが不幸なのは、あなたの思考に間違ったとこがあるからよ。だって、世界は完璧なんだもん。あなたは完璧に幸福なはずだもの。あなたが不幸なのは、あなたの信仰が不完全だからよ。神の栄光が見えないのよ。あらかじめ完璧なのに、あなたにはそれが見えないのよ」つー思想よ。

アメリカでは、19世紀にこの思想が広まった。

ポジティヴ・シンキング(positive thinking)とか「引き寄せの法則」(the law of attraction)とか、みなこの「ニュー・ソート」から派生している。

私は、「アメリカの拝金文化」の起源を調べているうちに、このことを知って、「やっぱりなあ~~~」と思った。

カトリックは、唯一絶対一神教キリスト教の伝播のために、アニミズムを利用した。十字架とか、マリア像とか、そんなもんアニミズムだろ。

物に魂なんか宿っていないのに、十字架とか首にかけたり、マリア像を拝んだり。マリアは、キリストを生んだ女性であって、神じゃない。

でもって、「ニュー・ソート」もさあ、人間の思惑が入り込んでいる。

全知全能の神のことなんか人間に想像できるはずない。そんな存在は人間の外部にある。

しかし、人間は、絶対に絶対に、自分に都合よく考えるんだ。

カルヴィニズムが生んだ(とされる)資本主義の精神だって、そうでしょう。勤勉に働き、世のため社会のために尽くすことができれば(金銭は蓄積されて)神の目にかなっている証だ、と思うのは、あくまでも救われたい人間の妄想だ。

どこまでいっても、人間のやることには、人間の思惑が入り込む。

人間は、自分の外部なんか、ほんとは理解できない。受容できない。

つまり、「ニュー・ソート」は、キリスト教別派人間念力教だ。もっとはっきり言えば、これはキリスト教じゃない。「人間教」だ。

「人間教」ならば、人間の欲しいものを崇拝することになる。

それは、ほとんどの人間にとっては金銭だ。

神のかわりに「貨幣」を崇めるようになるのは、自然の理。

「神のもとの平等」のかわりに、「貨幣のもとの平等」を選んだんだ、アメリカ人は。

という話です。

もちろん、これだけでは「アメリカの拝金文化」は説明し尽くせない。

でも、アメリカにおける「ニュー・ソート」は、「アメリカの拝金文化」の思想的背景のひとつとして、どうしても指摘しておかなければならない。

アウトソーシングの憂鬱

本日は2016年1月23日土曜日だ。

先週は忙しくて、まいった。

実にくっだらね~~~問題の議論のために何時間かが失われた会議もあった。

持病の非アルコール性脂肪性肝炎(NASH)のせいかなんかしらんが疲労感がすごい。

体力の前に気力なし。

もう来年の3月末でなく、今年の3月末に退職しようかと真剣に考えた。

しかし、やはり、それはできない。

ところで、今日は、外部委託、外注(out sourcing)と関わる、インターフェイス(interface)の立場は、うっざいもんだという話だ。

福山市立大学は人件費の削減のために、1年生の必修英語を中途半端に外注している。

外注先の英語産業の企業からe-learningという自学自習英語システムを借り、その企業からの派遣講師さんたちと任期制の特任教員とチームを組んで1年生の必修英語を担当する唯一の正規雇用教員が、私だ。

文部科学省的には、外注授業でも、試験や単位や成績報告は、かならず正規雇用教員がやらねばならない。

であるからして、2017年度から福山市立大学に赴任する私の後任は、このシステムを理解できない人には務まらない。

そもそも、インターネットでの自学自習システムなんだから、クラス開講は必要ない。

スクーリング必要ない。

規定の範囲を規定の期日までにクリアすれば、それでいいはずだ。

なのに、ただでさえ足りない正規教員を貼り付けて、何をやってんだかね、うちの大学も。

無意味な労働を強いるのが好きなとこだよ。

頭が悪過ぎ。

ところで、自分でマネジメントするクラス運営しか知らない人間(私ね)が、このシステムで仕事をするとなると、非常にストレスがかかる。

授業運営に関して一国一城の主(あるじ)できた人間が、こういうシステムの中に入ると、授業する喜びが消える。

派遣講師さんたちは、英語は非常にできる。

しかし、英語のみ勉強してきた人たちだから、大学の内部のことはわからない。

研究者の気質は理解できない。

研究者の正規雇用の教員とか特任教員は、ほんとうのところは、英語論文さえ読めればいいと思っている。

TOEIC訓練なんか、そんなもんは大学なんかでやるようなもんか・・・と思っている。

そういうカルチャーが違う人間たちが、協力しあうというのは、実は、なかなか難しい。

派遣講師さんのほうは、「私よりTOEICのスコア低そうなのに、こいつら、なんで大学の先生か?」と思う。

派遣講師さんからすれば、授業本体は正規雇用の教員より頑張っているのに、その苦労を大学は知らないと思う。

自分たちは不当に扱われていると思う。搾取されていると思う。

実際のところ、それは真実。搾取されてんのよ。

正規雇用教員のほうは、「私の好きにしたいのに、チーム組んでやるなんて、うっざいなあ~~」と思っている。

また、「しょせんはただの英語だよ。専門的な講義をするだけの知識のストックのない、あなたたちが大学で教えることができるのは、ただただ人件費削減のためだけなんだからね」と思っている。

でも、英語教育に関心がない正規雇用教員にとっては、英語教育に熱心な派遣講師さんたちは、非常に頼りになる存在だ。

でも、いくら熱心でも、 派遣講師さんたちの立場では、時間割とかテキストとか変えようと思っても変える裁量権はない。

まずは正規雇用教員を通さないと、なんともならない。

その点では、正規雇用教員を頼りにせざるをえない。

というわけで、外注の派遣講師さんたちと正規雇用教員との関係は、潜在的には排除敵対関係、表面的には協力関係だ。

とはいえ、常に、どこか違和感と緊張感がある関係であることには、変わりない。

しかし、学生からすれば、どちらも「うちの大学の英語のセンセイ」だ。

実は、派遣講師さんの方が、はるかにとっつきが良く、親切だし、熱心だ。

皮肉なもんよ。

研究者の正規雇用教員は、というか私は、ほんとは学生を相手にしたくない。

相手にするのは時間の無駄だと思っている。知的好奇心のないような類の学生は。

私なんか、学生と話していても強烈に退屈だもん。

15世紀の(普通の)人間と21世紀の(普通の)人間が話しているようなもんだ。

上から目線?上から目線に決まってるじゃん、そんなもん。

だから、当然に、派遣講師さんの方が、学生さんの人気は高い。

学生は、自分たちを見ると、面倒くさそうな顔する教師なんかいやだよ。当然だ。

うちの学生は、わりと気の小さいのが多い。怯えやすい。

前の大阪の桃山学院大学の学生みたいに気後れしないで話しかけてくる陽気さや明るさや、いい意味での図太さがない。

私は、そーいうチマチマ気の小さい若い子は嫌いだしさ。

その感じを正直に発散してしまう教師である、私は。

すみません、正直で。

私からすれば、中学生みたいな学生としゃべっていて楽しい教師なんて、水準が低い。

ところで、いまどきの大学生は知的劣化が酷くて幼稚で観察力がない。

1年生の終わりごろになっても、自分が属する大学の運営方法が見えていない。

1年生必修英語のクラス担当者がなんで2名いるのか、わからない。

アホだ、とことん。

だから、「TOEIC満点の先生がいるのに、なんで、もうひとり教員がいるのかわからない」と、無記名の授業評価アンケートの自由記述欄に書く。教育学部の学生だ。

この手の観察力の無い頭の悪い学生に対しては、怒鳴りつけたい。

これで、小学校の教員になるつもりなのか。

「あんたの入った大学が人件費を出したくないから、こうなってんだよ。私のせいじゃないの!!!普通は、1クラス15名サイズのクラスが英語ではあたりまえだ!21世紀ならば、そうだろ!!それが、50名越えのクラスサイズ(教育学部)」なんて、ありえない!!」と、怒鳴りつけたい。

まあ、次の時間に(誰か知らないけど)怒鳴りつける。

福山市立大学の人件費削減のための英語クラスの運営方法について、こってり説明してやる。

来年度春からの新入生にも、しっかり話す。

それが事実で真実なんだから。

まあ、そもそも、こういうシステムだと理解しないまま、福山市立大学に来た私が愚かであった。

桃山学院での仕事が忙しくて、次に移る大学の英語科目のありようについて、よく調べなかった。

いったんは、「ちょっと、やばそうだな・・・」と思った。で、2009年に福山市役所まで、「就任を辞退します~~」と言いに行った。

でも、なんやかやと慰留されてしまった。

みんな私が悪い。

私が、つまらん英語の授業なんか派遣講師さんに全部丸投げして、試験問題も作らず、授業にも出ず・・・という感じでやることができる非常識で無責任で鈍感で搾取的な正規雇用教員であれば、良かった。

自分のまともさを呪う。

いっそ私の後任は、「つまらん英語の授業なんか派遣講師さんに全部丸投げして、試験問題も作らず、授業にも出ず、という感じでやることができる非常識で無責任で鈍感で搾取的な正規雇用教員」であるほうがいいだろう。

その方が、彼か彼女にとっては、ラクチンだ。

自分が好きなようにできなかった英語の授業に従事するストレスは、私が思うよりも、大きかった。

アウトソーシング先の企業(と派遣講師さん)と福山市立大学の接する面=インターフェイス(interface)の立場である私は、10年間くらい福山市立大学にいるような気分になっている。

まだ5年が経過しただけなのに。

つまり、それだけ疲れたってことだな。

うんざりだ、e-learningも、アウトソーシングも。

さて、それも、あと1年だ。やれやれ。

アウトソーシングに直接関わるインターフェイスの立場にしろ、アウトソーシングされる立場にしろ、様々な雇用形態の人間たちが同じ場所で働くということは、どんな業種でも、いろいろあるんだろうなあ……

カネがないって辛いことよね〜〜企業も大学も。

いや、違うな。カネの使い方が間違ってる。

使われるべきだったのに、使われなかったカネは、どこに行ったの?

こんな講義してます(その7)プロ倫の話

本日は2016年1月16日土曜日だ。

今日はセンター試験第一日目なので、本来ならばBlogなんか更新できない。

ハードな仕事はしないほうがいい、できれば自宅療養すべしという病院の診断書のおかげで、試験監督免除だ。ありがたい。

といっても、そのかわりの仕事はある。「2015年度福山市立大学都市経営学部都市経営学科卒論研究論文要旨集」の目次作成という仕事がある。約160名の卒論の題目と氏名と学籍番号とページ数を入力しなくてはいけない。

でも、センター試験監督業務よりは、はるかにマシですね~~~♪

本日の動画は、2015年度開講「アメリカ文化論」第7回目(2016年1月7日開講)の一部だ。長い。46分もある。

7回から10回のテーマは「お金」だ。

「アメリカ合衆国の金儲けは美徳だよ文化はなんで?」だ。

このテーマに関しては、受講生さんの食いつきが違う・・・

金儲けつーのは昔から存在している活動だ。賎民資本主義(pariah capitalism)というのは古代からある。

だけど、「金儲けが道徳だ」という考え方は、アメリカ特有だ。

なんで?

アメリカでは、貧乏は不道徳らしい。

なんで?

こーいう考え方は、かなり変わってる。

「清貧」という美徳は、アメリカにはないらしい。

なんで?

貧乏でもいいから働きたくないという生き方もある。

でも、それは、アメリカでは不道徳らしい。

なんで?

ということで、まずは、マックス・ヴェーバー(Max Weber:1864-1920)のプロ倫つまり『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05)で提示された仮説について話した。

もちろん、アメリカ合衆国の拝金文化の説明として、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は十分じゃない。説明にも何にもなってない。

でも、とりあえずは、「カルヴィニズムが浸透した地域にのみ資本主義の精神が根付いた。なぜかっと言うと、カルヴィニズムを受け容れた人間は、自分は神に選ばれた人間であると納得したくて勤勉に働き節制して貨幣を蓄積するんじゃ。行動的禁欲をして目的合理的に生きるんだ」という説は、紹介しなくてはならない。

この際、日本には、カルヴィニズムなんか浸透していなかったけれども、なんで資本主義の精神が明治維新以後ちゃんと発揮されたかということについては、無視する。

それは、どうも「江戸時代の精神」に関係している。明治になってから、突然に日本人が資本主義者になるわけない。

でも、そこは、私の勉強不足でわかんない。すみません。

ということで、ご興味のある方は視聴してやってください。これ以上簡単には説明できないというくらい簡単に説明された、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であります。

あ、この動画の中で、前の勤務先の桃山学院大学のことに言及しているけど、中には不快に感じるOBやOG もいるかもしれないけれど、気にしないでね。

私にとっては、15年間働いた桃山学院大学は最高の職場だった。感謝の気持ちでいっぱいだ。あそこで出会った学生さんたちは、みな私にとってスペシャルだ。

それだけは、大きな声で言っときます!!

なのに、なんで辞めたのか?体力の限界だったもん………

身も蓋もない話

本日は2016年1月12日だ。

今日は、敢えて身も蓋もないことを書く。

どういうことを書くかと言うと、「好きなことをして暮らすとか、起業とか、フリーランサーとか、いろいろ人生に賭ける夢は人それぞれだろうけれども、圧倒的多数の凡人は、勤めという枠組みの中で労働を賃金に代え、我慢して生きていくしかない」という現実についてだ。

夢も希望もない?

いやいや、「勤めという枠組みの中で労働を賃金に代えて、我慢して生きていく」だけで、もう十分忙しいので、夢も希望もなくても生きて行ける。

私は、去年の晩秋に、2017年3月末に早期退職すると決めてしまって以来、気分はもう退職後だ。

目の前の仕事をさぼり、退職後にすることばかり考えている。

人間というのは、かくも目の前のリアリティを忘れて、今ここにはないことを夢想してしまう生き物だ・・・

って、他人事みたいに書いているが、要するに、私自身がスペシャルに馬鹿で非現実的な人間だ。

その本来が非現実的な私であるので、2017年3月末で勤めを辞めることができるのが嬉しい。

定年退職が寂しいとか言うけれど、よくわからん。

ぶっちゃけて言えば、「勤め」なんて、なんも面白くなかった。

ビジネスチャンスを見つけて起業するような度胸も才覚もない人間は、既成のプラットフォームに乗るしかない。

その枠組みに入って、担当を任された仕事をして、その労働の対価としての賃金を生活費にして暮らしていくしかない。

労働というのは、働くということは、ただただ生活のためだ。食っていくためだ。

自己実現とか、社会参加とか、そーいう嘘はどうでもいい。

ただただ賃金=カネのために労働する。

日本社会では、同じところに長く勤めれば勤めるほど、退職金とかも増える。

職場というのは、ある程度長く勤務しないと、内情がわからない。

ある程度長く勤務してこそ、学習できることも多い。

だから人間関係が難しいとか、夢が持てないとか、自分を認めてくれないとか、そういう理由で職場を変えるのはやめておいたほうがいい。

転職も30代はいいけれども、40歳を過ぎたら慎重にしないといけない。

平々凡々な勤めを長く続けることができれば、それになるたけ長くぶらさがるべし。

外資系のことは知らないけどさ、外資系って管理職ならいざしらず、40歳過ぎた人間なんていらないんじゃないの?

その点、日本の民族系勤め先は、まだまだ無能な人間にも優しい。

だから、解雇されるまでは、しつこく職場にぶらさがっている方がいい。

転職とか、勤務先を移るというのは、給与が高くなるとか、福利厚生(fringe benefit)が有利とか、そういうメリットが明白でなければ、しない方がいい。

私は、1986年、最初の勤務先が公立の女子短期大学だった。最初の年度の年収の額面が350万円だった。

「冗談じゃね~よ」と思った。すぐに次の就職活動を始めた。

1988年、次に採用された私立の女子大学の短大部の最初の年度の年収は額面720万円だった。年収は2倍以上になった。

短期大学というところは、どうしても、そこのスタッフの知的水準は低くなりやすい。つまらないトラブルが多い職場環境になりやすい。

学生は2年間で卒業するので、お子様のまま卒業するので、教師が馬鹿でも務まるからだ。

だから4年制大学に移らないと駄目だなああ・・・と、私は、またも就職活動に勤しんだ。

8年後の1996年、大阪府の私立大学に移った。

ここは組合が強いところだったので、待遇も研究条件も良かった。

最初の年収額がいくらだったかは覚えていないが、大学教員としては高給の部類だった。

15年間その桃山学院大学で勤務していたが、年々歳々大学を取り巻く状況に応じて、労働がきつくなった。

2008年頃には「教師」やっていることにも飽き飽きしてきた。

しかし、「勤め」をやめるわけには行かなかった。

分不相応に名古屋の高級住宅街に買ったマンションの住宅ローンも完済していなかった。

2011年に今の勤め先に移った。

待遇も研究条件も想定以上に悪い。でも労働量は幾分減った。前の勤務先の労働量をこなす体力も気力も残っていなかったので、ちょうど良かった。

で、還暦を過ぎた。

定年退職まで2年ちょっとかああ・・・と思った頃に肝臓の病気が判明した。

「あ~~もう住宅ローンも完済しちゃってるし、年金でギリギリ食ってゆくだけならばなんとかなるだろ・・・」ということで、退職を1年早めた。

私の世代は、申請すれば60歳から年金は出るんだよね。

嬉しい。

これも、我慢して「勤め」て、働き続けてきたからだ。

年金とは、働かずとも、たとえわずかとはいえ現金が振り込まれるということだ。うわあ~~天国。

と言っても、我慢して勤めて支給される毎月の給与から引かれてきたカネが返ってくるだけのことだ。

でも、「過去の忍耐へのご褒美」と言えなくもない。

年金崩壊とか言われるけどさ、年金額は減っても、年金制度は崩壊しない。

だって、政府は国家公務員の生活だけは守りたい。

国家公務員の老後は守るが、他の国民の老後は知りません~~と言いたくても言えない。

年金制度を守ることだけが国家のやりたいことだ。

「国家」って、つまり「国会議員を含む国家公務員の生活」ってことだからね。

まあ、だから、自営業者はちゃんと国民年金は払いましょう。

毎月の年金の掛け金を半分負担してもらえる正規雇用の職を是非とも獲得しましょう。

さてさて、来年の春から、やっと好きなことだけできる。

私は、もともと引きこもり気質だ。だから学校に通うのはイヤイヤながらだった。幼稚園は中退している。幼稚園は義務教育じゃないから。

学校なんか、小学校から大学院まで、面白くも何ともなかった。

同じく我慢して勤め先に通った。勤めも面白くも何ともなかった。

さて、やっと、これで来年の春からは、引きこもっていられる。

興味なんかないのに、あるような顔をして、無理に興味をかきたてて、やってきた。

「勤め」に伴うストレスがなくなると、過食も浪費もしないですむ。

書きたくもない論文を書いていると、締め切りを気にしていると、そのストレスが辛くて、ついつい自分に御褒美をあげたくなっちゃうからなあ。

しかし、もう自分に正直でいいのだ。

だけど、「勤めて」働き続けてきて良かった。

生活のために、したくもないことをする我慢をしてきて良かった。

「勤め」なんか辞めたいと思いつつも、自分をなだめすかし、働き続けてきて良かった。

私みたいな凡人には、我慢して学校に通うとか、我慢して勤めに出かけて働くということしか、することがない。できることがない。

賃金のみが目的であれ、働き続けてきたおかげで、引きこもって好きなことだけしていては得られないことを学ぶことができた。

とはいえ、学んだからといって何かに活かせるわけでもなく、「だから何?」である。金にもならん雑学で脳がいっぱいになっているだけのことだ。

まあ、それでも、ありがたいことであった。

あのね、若い人々に言います。

身も蓋もないこと言います。

夢も希望もなくても、夢や希望があっても、働ける場所をもらったら、黙々と働きましょう。

本当のこと言いますと、凡人には起業も無理です。ビジネスチャンスなんか見つけられません。特許になるような発明も無理です。

凡人は、既成のプラットフォームの上に乗せてもらって、求められる仕事をこなして、賃金を得ることしかできない。

夢があろうが何だろうが、働く場を与えられたら、そこでなるたけ長く働き続けましょう。

あなたも老いる。年を取る。そのとき、わかるよ。私の言っていることが事実で真実だったって。

程度の悪い自己啓発本や、自己啓発セミナー、起業セミナー、「おカネ儲け」セミナーとか、みな「詐欺」とまでは言わないまでも、「幻想販売ビジネス」でしかない。

「夢を売る」という言葉があるように、夢だって商品になる。

ただし、この種の商品はリサイクルショップに持って行っても10円にもならない。

あの手の「凡人のための夢を売るビジネス」のカモはアメリカに特に多そうだけれども、日本でもけっこう若い子が騙されているね。

あなたは、そういう商品に騙されないようにね。

身も蓋もないくらいに現実的に考えて、ちょうどいいんだよ。

学校も仕事もつまらないに決まっている。面白くもなんともないに決まっている。

でも、問題は、生活だから。生活費だから。おカネだから。

ただし、簡単に「おカネ儲け」はできません。

凡人は、組織に雇われて我慢して働く。それでしか、カネは手に入りません。

おカネのことを忘れなければ、生活費や住居費はどこからも降ってこないということを忘れなければ、あなたが現実から遊離することはない。

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移民から学んだ正月

本日は、2016年1月3日日曜日である。

年末年始は廃人だった。廃人28号。

すべきことを全部さぼった。捨てた。無責任に捨てた。

還暦過ぎると、体力も気力もなくなる。もっとなくなるのが恐怖心だ。「もう、どうでもいいわ・・・」という気分になる。社会生活から降りているアウト・ローの気分になる。

大沢在昌(おおさわ・ありまさ)氏のクライム・ノベルに出てくるアウト・ローのヒロインたちの孤独や寄る辺なさや、だからこその秘めた凶暴さが一層に面白く感じられる。

クライム・ノベルのヒロインたちは存在そのものがリバータリアンだからね。無頼だからね。依拠するのは自分自身しかないからね。

女刑事あたりをヒロインにした小説とは、そこあたりが違うわけ。

大沢在昌氏の「魔女シリーズ」はおもろい。『魔女の笑窪』『魔女の盟約』『魔女の封印』は、非常に面白い。

どんなに面白くても、読み終わったら作家と出版社と書店に感謝して、Book Offに持っていくんだけどさ。

年末年始は、もっぱら雑読と街のほっつき歩きで過ごした。骨盤の歪みで不自由になっている右脚をひきずりながら歩き回った。

街をほっつき歩くといっても、中心地の繁華街を歩いたわけじゃない。栄や名古屋駅前に用はない。食料や日用品以外の買い物はインターネットでしかしない。

大須と「イオン」の熱田店と千種店と郊外の三好店を歩き回った。

これら「イオン」3店の比較は面白い。同じ「イオン」でも違う。入っている店舗も雰囲気も客層も。

「イオン」の中では、初売り値下げで混雑する「ユニクロ」の店内を、人混みのウイルスに晒されつつ、じっくり見て回った。

「イオン」の中にも外国人向けの「Duty Free Shop」はある。「ユニクロ」なんかもそうだ。

「ユニクロ」では、アジア系外国人女性がカートに大量に商品を入れてレジ前に並んでいた。お土産にするのかなあ??

いろんな100円ショップ(といっても2種類しか私は知らないが)を回った。100円で購入したハイソックスは、一足1000円や2000円のハイソックスと機能性においては遜色がない。100円だから、すぐに穴が開くだろうとか、破れるとかそういうことはない。

名古屋においても、いつのまにか定住外国人が増えている。髪をスカーフで覆った女性を含んだ家族連れが増えている。イスラム教徒だね。インドネシア人か、マレーシア人か、フィリピン人か。

アジア系でも中東系の顔つきの人々もいる。名古屋でも建設工事現場の作業員には、イラン人とかクウェート人とか、そんな感じの顔つきの人が増えてきた。

100円ショップでは、このような移民を見かけることが多い。

いずれ名古屋市内のキリスト教会が、いつのまにかイスラム教のモスクになるんだろう。

名古屋や名古屋郊外の「イオン」ではなく、豊橋の「イオン」ならば外国人率はもっと高くなるんだろうなあ。

移民を受け入れるとか、受け入れないとかグジャグジャ言っても、気がつけば「イオン」にはアジア系外国人が多くなっている。

客ばかりでなく、フードコートで働いている若い人々は中国系かベトナム系っぽい。

大須は、ブラジル系やトルコ系外国人が、客や店ともに増えている。

一番混雑している昼時の名古屋大学近辺の「すき家」をオペレートしているのは、中国系らしき若いアルバイト2名だ。たった2人で仕切ってる。すごい。

客にも外国人家族がいる。

外国人家族の子どもたちは、日本人家族の子どもみたいに店内で騒がない。ふやけた表情で親にしなだれかかっていない。静かに食している。

日本の子どもが弛緩しまくっている猿みたいであるのは、親が弛緩しているからだ。

「すき家」に来るしかないような階層の家庭のガキが弛緩していて、どうやって生きていくのだろうか。

あと20年もしたら、現在、人間がしている仕事の半分は、人工知能がするんだぞ。

人工知能ができない仕事をするか、人工知能を導入するコストを払う価値のないような類の労働に従事するしかなくなるんだぞ、20年後は。

今は、コンビニの店員さんは主婦のパートか学生アルバイトだ。その風景も変わりつつある。コンビニの店員は、東京あたりではかなり前から外国人が多かったが、名古屋でも最近は、そうなりつつある。

いまどきの頭の悪い弛緩した日本人では、いまどきのコンビニの多種多様なサーヴィスに対応できない。聡明そうな顔つきの中国系の留学生たちが、冷静に、テキパキと、注文をさばいている。

その酷薄に怜悧そうな顔を、私は惚れ惚れと眺める。

あれこそが男の子の顔だ。

「まあ、日本人は負けるよな。ぼろ負けしないと眼が覚めないよな・・・」と、私は無責任に傍観者的に思う。

だって、そうじゃないか。

普通の庶民の人間は、黙々と我慢して働いて、その収入の範囲内で暮らしてゆくしかない。

さらに、そこから抜けだすためには、よほど頭と体力と気力を振り絞るしかない。

「アイドル・エコノミー」とか言って、隙間産業的なニッチのビジネスチャンスを求めてビジネスを立ち上げても、成功する率は非常に少ない。

儲かるとなると、大手やもっと大きな組織が参入してくる。既得権を持つ人々からの攻撃にもさらされるだろう。

ビジネスにすること、カネ儲けのシステムを作ることは、きついことだ。

それでも、カネがなければ何ともならないので、人々はカネ儲けをするしかない。カネ儲けの機会を求めるしかない。

生まれた国の中で得られる職で食ってゆけるのならばラッキーだ。

本国で食えないならば、移民するしかない。

1985年にイギリスに行ったときに、想像以上に移民が多いのに驚いた。

明々白々に、露骨に、肌の色の濃さが低賃金系労働従事率と比例していた。

日本の大都会も、あの当時のロンドンの風景になりつつある。

私たちnative Japaneseは、移民さんたちの低賃金労働の上に提供される安い牛丼を食い、安いラーメンを食う。

移民さんたちの低賃金労働によって建設された住居の中で過ごす。

今のところ、生活はラクではないかもしれないが、治安のいい平和な日本での暮らしに、移民さんたちは自足して、労働と預金に集中しているように見える。

移民があまり増えると、競争相手が増えるから、テキトーに移民規制をしてもらいたい・・・と思っているような風情もある。

2016年の正月は移民さんの観察から始まった。

あの粘りと忍耐と沈黙から、今の日本人が学ぶべきことは多い。

私も大いに学んだよ。