被差別民キャラ

「副島隆彦の学問道」http://www.snsi.jpの主要メンバーのひとりの中田安彦さん(『ジャパンハンドラーズ』や『ネット世論が日本を滅ぼす』の著者)は、今、ワシントンD.C.に留学中だ。

中田さんが、黒人の店員や黒人の郵便局員の態度の悪さについてFacebookに投稿なさっていた。

その投稿を読んで思ったことを書く。

アメリカの黒人の店員とか郵便局員とか公立図書館の職員とか駅の窓口の人とかの中に、非常に態度の悪い人がいるというのは、事実だ。

私も、八つ当たりされたり、急に怒られたりしたことが何度もある。

ただ腹は立たなかった。

なんでかっというと、ああいう態度の悪さは、一種の「被差別民キャラ」であって、この世の中がどうしても生産してしまう人格類型のひとつだから、自分に大した害がないのならば、やり過ごすしかないと知っていたからだ。

「被差別民キャラ」というのは、長く理不尽で不公平な立場に置かれ、搾取され続けた人々で、かつ感受性が豊かで、感情の抑止が苦手な正直な人々で、かつあまり打算的でない人々が陥りやすい傾向だ。

ある民族や、ある集団や、ある人種の人々が、愚劣な類の支配者に好きに翻弄されてきた経験が歴史的に蓄積されると、このような「被差別民キャラ」を形成しやすい。

どういうキャラかと言えば、他人からの軽侮や侮辱に非常に敏感なんである。

瑣末なことに、こだわる。

ちょっと注意されたりしただけで、自分が批判され責められてる!と思いやすい。

傷つきやすいんである。

怯えやすいんである。

何か少しでも指図がましいこと言われると、過剰に反応して抵抗する。

正直だ。

これは、自分が状況をコントロールしているので、自分に責任があるから、ここは最も適切に処理しよう考え実行できる主体性の欠如だ。

感情的になってられんからね、責任者は。

自分で決めることを禁じられてきたという歴史的条件が、もうすでに消えてしまったのに、まだ、そのことに呪縛されている。

自分はいわれなく不当な扱いを受けているという被害者意識が強いので、これぐらいしたっていいんだ・・・他の奴らはもっと悪いことしてるんだから・・・ということで、プチ不道徳なこともする。

黒人の店員の中には、釣銭をごまかす人間も少ないとはいえ存在する。

私も、ごまかされかけて抗議したことがある。

ただし相手が非常に若い貧相な少女だったときは、黙ってカモになった。

「被差別民」相手に本気で怒るのは、オトナゲないという気持ちが私にあったから。

まあ、これは、「被差別民さんたちだから、しかたないよね」という私の差別意識だと言えば、否定しないが。

一般に、先進国においては、仕事は仕事、ビジネスはビジネス、自分の感情に関係なく、処理すべきことを淡々と処理すればいいのであって、他のことには無駄にエネルギーを使わない、

というのが「期待される労働者像」だ。合理的な労働者は、客に噛みつくなんてカネにもならんことはしない。

しかし、「被差別民キャラ」の持ち主は、自分の感情とビジネスがゴッチャになる。

それは、人間らしいことであり、ごく自然なことであり、正直な生き方だ。

だけど、現代の先進国のビジネス文化においては、そーいう傾向は無能で馬鹿でアホで「困ったちゃん」である。

なぜ、ビジネスと自分の感情がゴッチャになるのか。

それは、ビジネスに浸食されない自分というものを形成できていないからだ。

「私の感情はこのさい関係ない。私の感情には後でつきあえばいい。今はこの仕事に対処することが先だ」と思い行動するには、ビジネスごときに浸食されない自分というものが形成されていなければならない。

自分とは何か。

外界がどうあろうと、他人がどうあろうと、誰がどう評価しようと、私は私だ!!私という人間の尊厳は誰も何も侵せない!!!と思い込める不遜なまでの、根拠なき自己確信だ。

ある種の白人たちの自己確信能力はすさまじいね。

あれは真似るべきだよ。

たとえば、東大出の人間の中には、すげえ馬鹿なのに、自分は優秀だと信じて疑わないのがいる。

あの愚劣な自信からさえ、学ぶべきだ。

しかし、長く支配者に翻弄されてきた奴隷時代が長く続いた人間は、心の奥まで浸食されて、自分の尊厳に対する自己確信を養う時間や機会が与えられない。

そういう実際のモデルを目撃することも、彼らや彼女たちが生きる世界では滅多にない。

そういうモデルが存在しても、気がつくだけの教養がない。

「被差別民キャラ」は、類は友を呼ぶで「被差別民キャラ」どうし集まるから、被害者意識と過剰な傷つきやすさは増幅される。

それが常識となる。

ついには、彼らや彼女たちの間では、「被差別民キャラであること」が正義となる。でもって、ニーチェの言うところの「奴隷道徳」ができあがる。

女ってのも、奴隷状態が歴史的に長かったから、「被差別民キャラ」の人が少なくない。

「私の人生の当事者は私だ。私の人生の主人も私だ。私の人生の不如意は私が何とかする。私に責任がある。こんな甲斐性のない男と結婚したのは私だ。私さえ、しっかりしていればいいんだ。こんなクルクルパーのガキを生んだのは私だ。まあ、しかたないね」とは思わずに、自分では何もしないで、他人を責めて家族を責めて愚痴が多い女性は少なくない。

私も、職場の在り方について、つい愚痴を言ってしまうけれども、「まあ、だからと言って、私にできることもあれば、できないこともある。私に責任のないことについては、どうしようもないから、どうでもいいけどね」と思い直して、目の前の仕事に集中する。

ただし、「被差別民キャラ」の女たちの中には、一見、「被差別民キャラ」ではなさそーな人々もいる。

それは、いつまでたっても、ペットでいたがる人々だ。

ペットは、餌を与えられて、飼い主に(=他人に)制裁与奪権を握られているのに、のん気に気ままに生きている(ように見える)。

世界が、他人が、自分のケアをすることは当たり前だと思い込んでいる。

世界や他人に、そんな義務はないよ。

つまりは、しょせんは、ペットも高級奴隷よ。

自分の安楽な境遇が依って立つ条件について無自覚無知に、ギャアギャア我がまま言って、いかにも支配者然としているけれども、それだってひねった真の主体性の欠如した「被差別民キャラ」よ。

となると、現代日本人のかなりが「被差別民キャラ」かもね。

「被差別民キャラ」って、まあ圧倒的多数の人間が、その生存条件から、身に着けやすい傾向よ。

そうなるのは自然なことなのかもしれない。

人間は弱いからさあ。

でもさあ、自分の中の「被差別民キャラ」を飼いならして、それはそういうものとして自覚しながら、主体性ある自分というものを保持しなければ、生きている気がしないなあ。

ということで、自分の内なる「被差別民キャラ」について、ちょっと考えをめぐらした水曜日のお昼でした。

追記: アメリカの黒人にもいろいろいるというご意見をいただきました。当たり前だ、そんなこと。中産階級の黒人もいれば、リッチな黒人もいるわさ。普通の日本人の旅行者とか留学生が出会うのは、低賃金の労働者でしょ?で、けっこう八つ当たりされるんよ!

キャリア官僚初見学–やっぱり、彼らや彼女はエリートだった! 

昨日の10月24日土曜日に「日本自治体危機管理学会2015年度研究大会」つーのに行って来た。

会場は、「危機管理研究センター」つーのがある明治大学駿河台キャンパスのリバティタワーってところへ。

明治大学は実は行くのが初めて。

立派なキャンパス!!

都心にあるポストモダンなキャンパス!!

「日本自治体危機管理学会」は、2006年に設立されたばかりの学会だ。

危機管理学という学問分野は、まだ新しい。

大学あたりで危機管理学部とか学科を持っているというのも非常に少ない。

しかし、必要とされるし、これから一層に伸びる学問分野である。

私の趣味の一つに、自分が会員でもない学会の研究発表会にもぐりこんで、発表や講演を聴くというのがある。

専門家の話を傾聴すると、本を数冊分読むくらいの情報を得ることができる。

この学会に入る気はないが、そこの研究大会に紛れ込んで、手っ取り早く勉強させてもらうのは、ありがたい。

この学会の研究大会のプログラムをネットで調べてみたら、報告者が中央省庁の官僚さんが多かった。

国土交通省に、総務省に、(元)農林水産省に防衛省に・・・

私は、中央官庁のキャリア官僚さんの実物に会ったことない。

話を聴いたこともない。

高級官僚批判は多い。

でも、私は実物見たこともない。

ならば、行って見て聴いてこようと思い立ったわけだ。

で、このBlogでは、この学会で論議されていた問題のほんの一部を、知的所有権に違反しない範囲で紹介する。

午前10時に始まった「日本自治体危機管理学会2015年度研究大会」のプログラムの最初は、共通論題「危機管理と法整備」だった。

今までにはなかった危機というものが考えられる現代。

1990年代から、平成の時代になってから、日本には想定外の事件や災害が起きるようになった。

サリン事件と神戸淡路大震災を皮切りに、テロまがいの通り魔事件のような人災もいっぱい。自然災害もいっぱい。地震も大小いっぱい。竜巻もあれば、雨が降ればすごい洪水に土砂崩れ。火山の噴火もある。

そのきわめつけが、2011年3月11日に東北大震災と福島東電原子力発電所の事故だった。

危機の時代に突入した日本。

だけど、その危機を未然に防ぎ対処するための法整備も各省庁の連携も、自治体間の連携も、各省庁と自治体の連携も、指揮系統も、十分に構築されていない。

シミュレーションというか訓練もまだまだ。

ということで、「共通論題」では、「無人飛行機の規制」と「広域災害への対処」と「従来の麻薬ではないドラッグの蔓延に対する対処」が、紹介された。

このBlogでは、「共通論題」で報告された「無人飛行機の規制」についての発表を紹介する。

このテーマについては、国土交通省航空局安全部安全企画課の方が「無人航空機に関するルール整備の状況」について25分ほど、パワーポイント資料を使って説明してくださった。

無人航空機ドローンが急速に広まってきた。

撮影や農薬散布やインフラ点検に使用されていることが多いけれども、落下事故も起きている。

非常に新しい現象なんで、ルールが整備されていない。

法整備のために国土交通省がどのような仕事をしてきているかというのが、報告の趣旨だ。

ドローンは、今後、さまざまな分野で活用される。

新たな産業やサーヴィスが生み出される。

ドローンは、「空の産業革命」なんだそーだ。

一方で、犯罪やスパイ活動やテロにも使われる。

警察(公安)や防衛省との連携も必要になる。

ドローンの利用者に対する第三者賠償のための保険加入奨励という課題もあるそーだ。

そうだよな、被害者が出る場合に備えて、保険も必要だ。

今の保険に「無人飛行機事故保険」ってないもんな。

ドローンで撮影した映像のインターネットでの取り扱いもガイドラインが必要だそーだ。

ある土地の上空をドローンが飛行したとして、そこの土地所有者と飛行の関係についても、はっきりさせとかないといけない。

つまりさ、ある土地の所有者は、土地の上空のどこまで所有権を主張できるんかしらね?

そーいう問題もあるわけよ。

200グラム以下の玩具みたいなドローンは規制対象にせずに、約100キロぐらいの産業用無人ヘリコプターとか、数キロのマルチコプターというのを規制をするんだってさ。

どれくらいの上空ならば飛んでいいとか、人口密集地は駄目とか、有人航空機の障害にならないようにするとか、夜は飛んじゃいけないとか、人間や物件から30メートルは離れて飛ぶこととか、いろいろ規則ができあがるらしいよ。

近いうちに法制化されるらしいよ。

200グラム以下の玩具みたいなドローンに、とてつもない装備がされているってことはないのか??

ナノ・テクノロジーでさ、ありえるのになあ・・・

それはさておき、まず、私はここでびっくりしたんだ。

世の中の仕組みの一部が、ありありと見えるような気がした。

ある事物が社会に生まれる。

その存在を認めるとすると、その事物の扱い方のルールというのが作られないと、混乱する。

その事物が事故の原因となる事態が発生すると、法的規制や法的責任を明文化しておかないとまずい。

「法的に問題がなければ、犯罪でなければ、何やってもいいっしょ~~~」と言って、何でもするのが、ある種の人々だからね。

常識的に考えて、倫理的に考えて、これはどうか??と熟慮して、行動を自己規制するということはないんだ、この人々は。

だから、自由放任というわけにはいかなくなる。

テロリストみたいに、はっきりと悪意を持った犯罪者も存在する。

世の人々は、「自由がいい、役所が口出すな」と言いつつ、ひとたび犯罪や事件が起きると、「行政は何をしていたのか?」と言う。

たとえ、みなまっとうな市民であっても、人間が関与するならば、事故が起きることはあり得る。

ガイドラインは、だから、「お役所」が作って、「オーソライズ」しておかないといけない。

「俺が法律だ」ってわけにはいかない。

誰もが認めるオーソリティが必要となる。

それが政府の下部組織である官公庁であり、そこで働く役人だ。

うわああ・・・・・

ひとつの法が整備されていくのに、いかほどの調査と熟慮と会議と手続きが積み重ねられるのだろうか・・・

私は、役所とか官僚の規制とかを胡散臭く思うリバータリアンの心情を共有する者ではある。

だけど、こうも社会が複雑になると、官僚機構というものがどうしても必要になってくるんだよな・・・・

中央官庁のキャリア官僚さんを実物で目撃したのは、今回が生まれて初めてであった私は、その実物の方の明晰な発表を聴いて、「やっぱ、これぐらいの優秀な人間が、ウジャウジャいるのが、中央の官公庁なんだ・・・」と感心した。

「国家公務員」って、やっぱり、「地方公務員」とは大違いだ。

さすが、難解な上級公務員試験と面接を勝ち抜いた人々のひとりである。

このドローンに関する法整備について発表した方の役職名は聞き落とした。

まだ30代くらいのお若い方だった。係長か課長補佐って感じかなああ。

サッサと明解に事実を説明していく。

質疑応答のときも淀みがない。

若いが、決して軽薄ではなく、冷静沈着に簡潔に説明する。

おお~~~やっぱり頭がいい~~~

パワーポイントで作成した資料も非常にわかりやすい。

無駄に「紙芝居」になっていない。

この資料は、ノンキャリアの部下の人が作成するんかなあ?

ご自分で作成したのかなあ?

まさか、アウト・ソーシングってことはないよな。

教授会とか文学系の学会での、しょうもない冗長な論点の明確でない報告とか研究発表を聴いていると、脳が腐る感じがする。

しかし、このキャリア官僚さんの報告は、聴けば聴くほど、脳がクリアになる気がした。

やっぱり、高級官僚ってのは、頭が違う!!!

これが、私の「中央官公庁キャリア官僚初見学ショック」であった!

不幸に負けてはいけないが、幸福にも負けてはいけない

木曜日の夜はくたびれ感が強い。明日は金曜日、週の中でもっともクラス数が多い日だ。

う~~今から緊張する。英語のクラスがふたつと、卒論個別指導がふたり。

う~~~卒論が心配だ~~~去年も、さんざん心配させられたけれども、今年も心配だ~~~

それはさておき、本日の卒論個別指導のときの雑談で、学生さんが同居している父方のおばあちゃんについて話した。

おばあちゃんは、昔からいったい何が不満だかわからないほどに、不平不満の多い人で、痰が喉につまりやすいということで、「入院したい」と言い張って入院して、リハビリもせずに、ずっと文句を言い続けているそーだ。

このおばあちゃんは、とっても幸福な人である。婚家先のお姑さんは働き者で有能で、死ぬまで勤勉だった。寝たきりにもならずにコロッと亡くなった。

介護の苦労はなかった。お嫁さん(=若き日のおばあちゃん)をいびることもなかった。

長男のお嫁さんになった女性(つまり、学生さんのお母さん)も、よくできた人で、お姑さん(=該当おばあちゃん)と喧嘩することもなく、素直に家事に勤しんできたそうだ。

おばあちゃんの夫(学生さんの祖父)も温厚な方で、働き者で、声を荒げることもない。

おばあちゃんの息子たちも忍耐強く、みなできがいい。

おばあちゃんは、経済的に困窮したこともない。

なのに、おばあちゃんは不平不満でいっぱい。

でもって、もう今では、自分でも、自分が何に不満なのかわけがわからなくなっている。

要するに、このおばあちゃんは暇なのだ。

年がら年中、不平不満を家族にぶつけるくらいだから、エネルギーはある。

しかし、やることがない。

お姑さんもお嫁さんも働き者。御主人も働き者。

このおばあちゃんは、やることがない。

責任もって、することがない。

とってもラクで幸福。

ラクで幸福だと、暇。

エネルギーを消化する機会なし。

これが、亭主は暴力を振るうわ、生活費は入れないわ、姑は病弱で介護はあるわ、息子はアル中で、息子の嫁は不倫で誰の子どもかわからない孫がいっぱいで、その孫たちがニートで引きこもりならば、このおばあちゃんも孤軍奮闘せざるをえなくて、疲労困憊のすえに、心筋梗塞でコロッと死ねる。

が、このおばあちゃんは、まだまだ死ねない。

エネルギーを消化しきっていないから。

人間は不幸に負けてはいけない。

しかし、幸福にも負けてはいけない。

ときに、幸福は不幸よりも毒をふくんでいる。

このおばあちゃんは、幸福に負けちゃった。

幸福であることに首を絞められてきてしまった。

昔はね、こーいう類の死ぬに死にきれない老人を、睡眠薬とかモルヒネたっぷり投与して死なせてくれた医者がいっぱいいた。

私の父の妹(私の叔母)も、この種の困った類の老人がお舅さんで、若くして介護で苦労させられた。

だが、昭和40年代初頭のことであったので、昔から懇意の家庭医が黙って睡眠薬いっぱい処方してくれたので、救われた。

しかし、今は、このようなお医者さんは消えてしまった。

こーいう親切な行為は「殺人」になってしまったんだよね。

昔は、闇から闇へと、お医者さんは黙って、死ぬに死にきれない老人を抱えた家庭を救済してくれたのに。

安っぽい正義感で、こういう医者たちを訴えた馬鹿どもがいたので、こういう医者しかできない救済行為は、もうどこの病院でもやってくれない。

であるからして、くだんの「幸福なおばあちゃん」は、これからもまだまだ生き続ける。不平不満を吐き続けて。

不幸は恩寵である。

不幸のおかげで、私たちは疲弊し、力尽きて、この世から未練なく去ることができる。

幸福は呪いである。

幸福のおかげで、いつまでたっても未熟な人々は多い。

日本は、戦後の平和と繁栄という幸福のために、かなり劣化し、クルクルパーになった。

だから、しばらく不幸な時代が続いても、それは恩寵なんだよ。

この世は完璧なんだね、ほんとは。

なんて、何を悟ったみたいなこと書いているんだ、アホが。

まずは情を出す、ということを忘れていた

やっぱり、自分で更新できるBlogっていいなあ~~

ただ、まだ画像や映像とかリンクの貼り方がわからないけど。

おいおい、わかるようになるでしょう~~

「なんじゃ、知的生活を送る気はないのか、公立大学の学生のくせに。税金で学んでいるくせに。ただ食って労働して寝るだけでいいのか?スマホいじくっているだけでいいのか?こんな連中が大学に来て何をするんだ?こんな連中は、税金で勉強させる必要はなし」と、職場である種の学生たちを眺めていて、冷ややかな私である。

が、ちょっと反省した。

やっぱ、自分の狭い経験や見聞で人を判断しちゃいけない。

育った家庭が新聞も購読せず、本棚がなくて、家庭の誰も読書の習慣はなくとも、今の時代は、大学というところに来るんだそうだ。

そういう人も珍しくはないそうだ。

受験勉強だけはするけれども、それ以外はいっさい字というものに触れない学生も多いそうだ。

そのことについて、親から叱られるということもないそーだ。

今の若い人は、やたら家庭では「王子さま」「王女さま」で育てられているらしい。

褒められて育っているらしい。

親に褒められたことなどない私には異世界だ。

かといって、親に褒められたことがなくとも、親の愛情を疑ったことなど、私は一度もないけどね。

私は、子どもがいないのでよくわからないんだよね。現在の親子関係とかそういうものが。

そうか、マイルドヤンキーも多いわけだ。彼らや彼女たちの中には。

私が勝手に想定している「中産階級」の家庭の出身じゃない学生さんも多いわけだ。

今や経済不況のせいで、世界の「中産階級」は縮小しつつあるそうだけれども、そもそも、日本に「中産階級」という層が育っていたのか??

カネはそこそこあるけど心は下層階級というのが、日本の戦後の大方の「中産階級」だったんじゃないのか??

それはさておいて、私が反省したことは、自分が「知的生活を志さないガキなんか知らんわ」と思っていたことだ。

ガキには、ともかく愛情を出す。まずはそれが何よりも大事だってことを、忘れていた。

私は私立大学出身なんで、国立大学や公立大学の学生ならば、私より賢いはずだという偏見がある。

税金で学ぶ人間には、それなりの矜持と義務があると思っている。

だから、「これじゃあ、偏差値55以下の私立大学と変わらんだろ・・・・いや、英語に関してはもっと下だぞ」と思わされることが重なると、「ばっかじゃね~~の!!ここ!!」とやる気をなくしてしまっていた。

しかし、これは、あまりに拙速であった。

偏狭であった。

大人気(おとなげ、だいにんき、じゃない)がなかった。

現在の日本の大学生は、昔の中学生みたいなもんだ。

そう思って粘り強く、何度も親切に繰り返し、かつ軽やかに説明すべきだ。

今の子は、ほんとに軽々しく育っているからな。

重いものはダメだ。重厚という価値観はない。

ほんとに文字通りガキなんだから、しかたあるめい。

ガキには、理屈の前に、まず愛情だ。

情だ。

ミルキーだ。

情とは何か。

相手を尊重することだ、根拠なく。

清濁あわせ飲んで、相手を肯定することだ。

まずは、ミルキーを渡すことだ。

まずは肯定だ。

あ、私はこう見えても情はある方なんよ。

嫌いな奴でも親切にできる。

嫌いな奴相手にでもフェアであろうとする。

その情を利用してラクしようとする人間は許さんけど。

日本人だろうが、同僚のイギリス人だろうが(って誰のことか?)。

ということで、今日の福山の空も青い。

あ、曇ってるな。

研究費不正撲滅研修(出るのさぼったけど)

本日は、午前中の「必ず出席しなければならない」研修をさぼって、午後の教授会だけは出席した。

もう体調ガタガタなんだよ。研修なんか知らんわ。

研修というのは、「研究費の不正使用をしないため」の研修。

大学教員とか研究者というのは、所属機関によって金額はばらつきがあるが、「研究費」というものを所属機関から支給される。

そういう研究費では足りないので、文部科学省に申請して「科研費」なんてものをもらっている研究者もいる。

で、科研費をもらっている同僚は、わりとエラソーな顔する。

「僕は、科研費もらってるから・・文部科学省のお墨付きだから・・・」って。

(ここんあたりのことは、副島隆彦編『放射能のタブー』(KKベストセラーズ、2011)に収録された「タダより高い助成金」って文章に書いたので、ご興味のおありになる方は、読んでやってください。)

ところが、この研究費とか「科研費」に不正使用というのが多いらしい。

その不正使用を防ぐために、現在は日本中の大学で、こーいう「不正使用撲滅研修」が遂行されている。

その研修に参加すると「受講修了書」が公布されるそーだ。

その「受講修了書」がないと、科研費の申請はできないんだってさ。

そんなもん研究費の額が多い理系研究者の問題だろ・・・と思うけれども、文系研究者も駆り出される。

財源が潤沢ではないからして、文部科学省もいろいろ大変だね。

まあ、大学の教員のけっこう多くが、研究費を使って、学会とか調査とか称した実質は「物見遊山」とかを国内外問わずして、やってきたわけだし、いろいろ、とんでもない使い方をしてきているらしい。

いささか締め付けが厳しくなってもしかたないのかなあ。

私は、科研費800万円もらったという某一流国立大学文学部英文科の「科研費による研究報告書」というのを、読ませてもらったことがあった。

これには驚いた。心底、驚いた。

わざわざアメリカやイギリスに行かないと書けないような類の研究論文じゃない程度の研究論文がいくつか収録された論文集が「科研費による研究報告書」だった。

文系で、しかも文学研究系で800万円の科研費なんて、すごい額だ。

100万円でさえ獲得するには難しいのに。

さすが、日本における最高学府の英文科の科研費による研究。

しかし、その研究内容のあほらしさ。

英文科って、日本の大学から消えつつあるけれど、消えていいわ、ほんと。

最高学府の英文科の教員の研究で、あれだもん。

この世における税金の使い道について、真実を知ったら、もう狂い死にするしかないようなとんでもない理不尽さがまかり通って来たに違いない。

研究費の不正使用ねえ・・・どうやったら、不正使用できるの?

教えてほしいわ。

我が福山市立大学で、そーいうことができるとは思えない。前提として、研究費を使えないんだしさあ。

気温が高いと脳が稼働しない!

本日(ではない昨日か)の3年生ゼミは、気温が高くて、だけどゼミ室として使用している私の研究室の冷房は10月だから切られていて、暑かった。

だから、学生さんの方も、なんかボンヤリとやる気がない感じ。

質問したら、本は読まないって。

なんかネットで文字は目で追っているけれども、本は読まないって。

2013年ゼミや2014ゼミは、まだ気持ちが通い合っている感じがしたけど、今年の2015ゼミは、いまひとつだなあ・・・

何を考えているか、わからないというより、まあ何も考えていないのかもしれないし、まだまだ幼いのかもしれないし。

でもさ、若くない教師の私としては、知的なことを通してでしか、若い学生さんと関わることができないんだよ。

学生さんとともにいれば楽しく感じるほど、こちらは人間依存症じゃない。

若い教師ならば、それもありえるだろうけどさ。

知的な話題で関われないのならば、接点がないんだよ。

接点がないなら、何を私が話しても、学生さんの心には入ってないわけで、意味がない。

寂しいというより、あほらしい。

単に生活するだけの人間に私は用がない。

知的生活を送りたい若い子にしか興味がない。

公立大学で、こういう状態ならば、もう日本中の大学があかんのだろうか。

というか、知的生活を目指している大学生なんか、日本の全大学生の2割もいないんだろうなあ。

まあ、がっかりとすることもないのか。

ほんとに、いろんな意味で、やる気が失せる秋だ。

でも、そんなものかな。

学生だと思っちゃいけないのかもしれない。

自分とどこか志を同じくする知的仲間だとか金輪際思っちゃいけないのかもしれない。

お客さんだと思えば、いいのか。

お客さんは神様です。

神は死んだ。

初ブログ!!ウエッブサイトは主宰してるけど、もっと気楽に勝手にアホにブログ開始!!

ウエッブサイト「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」(http://www.aynrand2001.com)とは別に、ブログを始めます。

2001年に始めた上記のウエッブサイトは、管理人さんに更新していただいています。

こちらは、自分でも簡単に更新できるブログです。

ウエッブサイトやFacebookとは別に書きたいことを書いちゃいます。よろしくお願いいたします。