2015年のまとめ

本日は12月30日水曜日です。

ああ〜〜2015年もドタバタと大変だった。

本日は、なんかこのBlogの年間のまとめだそーです。

よく、わかりませんが。

みなさま、10月半ばに開始以来 、このBlog へのご来訪を、ありがとうございました。

みなさま、良いお年をお迎えください。

2016年も、よろしくお願いいたします。

ところで、私の来年も満身創痍なんだろうなあ。

来年の抱負なんかないです。

右脚の不調や肝炎なんぞ気にせずに、ただひたすらに、やらなきゃいけないことをする。

知らないことを学ぶ。

ただ、それだけです。

自分が自分を許せるように生きてゆくだけで必死だ。いや、ほんと。

決してラクにはならないけれども、きつくなるばかりだけれども、年々歳々、幸福感が増しているのは、なにゆえか。

街の風景が、人々の行き交う姿が、すべて美しく哀しく見える2015年の夕暮れでありました。

 

WordPress.com 統計チームは、2015年のあなたのブログの年間まとめレポートを用意しました。

概要はこちらです。

シドニーにあるオペラハウスのコンサートホールには2,700人が収容できます。2015年にこのブログは約9,000回表示されました。オペラハウスのコンサート3回分になります。

レポートをすべて見るにはクリックしてください。

こんな講義してます(その6)

本日は、12月29日火曜日だ。

25日が仕事納めだった。肝臓の炎症を抑制する注射を打ちに病院に行ってから、タクシーで福山駅に行き名古屋に帰って来た。

それから数日間はへばっていた。

へばってはいても読みたい本はいっぱいある。

だから、Tea(Tax Enough Already) Party運動を支援したリバータリアン実業家のコーク兄弟(The Koch Brothers)の評伝ダニエル・シュルマン(Daniel Schulman)著『アメリカの真の支配者 コーク一族』(Sons of Wichita: How the Koch Brothers Became America’s Most Powerful and Private Dynasty)を読んだ。

ものすっごく面白いぞ、これ。518ページもあるんだけど、面白いから一気に読めちゃうね。

アメリカは動いているなあ。ダイナミックだなああ!成金資本家もガンガン勉強する。ハイエクもシュンペーターもアイン・ランドも読む。

元気が出てきた。

だからBlogを更新する。

この『コーク一族』は講談社から出版されたばかりだ。訳者は古村治彦(ふるむら・はるひこ)氏だ。訳文が非常に読みやすく明解だ。訳注も多いので助かる。

アメリカの新興成金コーク一族については、日本では、きちんとまともに紹介されてきていない。この『アメリカの真の支配者 コーク一族』が最初だろう。

だいたいさ、ロックフェラーだってモルガンだって、財閥つーのは政府と結託してきた。政治家にカネ渡して政治を動かしてきた。

何が自由市場の企業家だ。ただの政商のくせしやがって。

コーク一族は、違うんよ。

コーク一族は政府と関わることをすごく嫌がる。自由な経済活動を規制されるのをすごく嫌がる。かといって、従来の財閥みたいに政府とつるんで、自分たちのビジネスに有利なように法律を変えたりしない。

ともかく政府なんか大嫌い。だから目立とうともしない。きちんと手堅く企業活動して稼ぐ。ビジネスを広げる。役人なんかと関わるのは時間の無駄だ。

株式は上場しない。株主が多くなればうざいだけだ。船頭が多くなると、ろくなことはない。自由に企業活動できない。意志決定に時間がかかる。「民主的な経営」なんて、ありえない。学級会じゃないんだからさ。

子どもは厳しく育てる。金持ちの子どもだからこそ、厳しく育てる。でないと、家業を守れず、資産を守れず、しょうもない無能な趣味人になるだけだからね。

まあ、コーク兄弟でも長男は、そうなっちゃったけどさ……

そうなんよ。コーク一族は、アイン・ランドが『肩をすくめるアトラス』で描いた企業家たちの生きてるサンプルなんよ。

右翼の結社として定評ある「ジョン・バーチ協会」は、コーク兄弟の父のフレッドが設立したようなもんだった。

息子たちは、リバータリアンのシンクタンク「ケイトー研究所」The Cato Instituteを作った。

コーク兄弟は、政府は必要悪だから小さければ小さいほどいいと大っぴらに提唱してる。はっきりと堂々と資本主義擁護の自由競争、自由市場支持者だ。

だからこそ政府からも、左派系メディアからも、さんざん傷めつけられてきた。嫌がらせされてきた。攻撃されてきた。

負けるな、コーク兄弟!!これからも独立独歩の財界人であってください!

まあ、コーク一族は、旧郵政省や総務省から苛められてきたクロネコヤマトさんみたいなもんかしらね。

負けるな、クロネコヤマトさん!!郵便局なんかぶっ飛ばせ!!

ほんとに「ゆうパック」はむかつくわ。やる気のないことおびただしいわ。

ところで、今日の映像は15分間。

12月21日月曜日の第6回「アメリカ文化論」の冒頭だ。

第6回は番外編。アメリカの政党について話した。特に第三政党のリバータリアン(Libertarian)について話した。

その前に、講義最後に学生さんが書くコメントペーパーの紹介をした。

毎回の講義は、前回のコメントペーパーの紹介と、質問への回答から始まる。

実は、ほんとは、このコーナーが私にとっては大事なんよ。

学生さんたちのコメントを読むと、いろいろ発見がある。

地味な目立たない学生さんが意外にすごく文章力があったり。鋭かったり。

美人やイケメン学生が頭のすこぶる悪いこと書いてたり。

やっぱり、才色兼備とか天が二物を与えることは、めったにないな。

私としては、学生さんたちに言いたいことはいっぱいある。伝えたいことはいっぱいある。

それをドサクサに紛れて言える機会が、この講義冒頭の10分くらいの「コメントペーパー紹介タイム」だ。

若いころは、100枚ぐらいのコメントペーパーすべてに自分のコメントを書いて返却していた。

今は、そんな元気ない。幻想もない。

さてさて、怒涛の2015年も終わりに近づいてきたなああ・・・

年賀状も書いてない。締め切りが大晦日の論文なんか、どーするんだ・・・

 

こんな講義してます(その5) 戦争を歌う国歌

本日は2015年12月22日。

珍しく気分が非常にいい。ささやかながら解放感がある。

なんでか。

私の4年生のゼミ生3人が、無事に本日、卒論を提出したからだ。

4年生ゼミ生は、ほんとは5人いるのだけれど、1人は休学中。1人は不登校だ。保護者に手紙も書いたが音信不通。だから、卒論を出したのは3名。

題目は、「超越論的自己啓発本の起源と功罪」と「織田信長暗殺の真相仮説研究」と「都市農業の可能性と実践例」だ。

もう、アメリカとかまるっきり関係ないテーマだ。

なんで、こーいうテーマについて書く気になったのか?

「超越論的自己啓発本の起源と功罪」を書いた女子学生は、斉藤一人とか小林正観とかの本を読むのが好きだからという理由だ。

超越論的自己啓発本つーのは、要するに「あなたの心が変われば、現実は変わるよ。あなたが不幸なのは、あなたの心が暗いからよ」と説く類の本のことだ。

彼女は、なんでそーいうアホなこと言ってる自己啓発本が多いのか?と疑問に感じていたら、私の講義「アメリカ文化論」で、New Thoughtのことを知った。

そうだったのか!!アメリカの「キリスト教別派人間念力教」=New Thoughtの亜流だったのか、小林正観とか斉藤一人は!!と、彼女は思った。で、卒論にした。

論文としては彼女のものが一番いい。構成ができてる。

「織田信長暗殺の真相仮説研究」を書いた男子学生は、「僕は自分のこと、明智光秀の生まれ変わりだと思う」と言って、37の仮説を調べた。

「あのねえ、明智光秀は非常に優秀だったの。4年生になっても取得単位数35単位のあなたが、なんで明智光秀の生まれ変わりよ。明智さんに失礼だろ」と、私は言った。

彼は、卒論は提出したが、単位が足りないので留年する。2年は留年しないと卒業できない。そこらあたりは非常に心配だ。ちゃんと卒業できるだろうか。

「都市農業の可能性と実践例」を書いた女子学生は、「野菜を育てようクラブ」に所属している。将来は、専業主婦となり、野菜を自宅で育てるつもりだ。だから、都市部でできる農業の実践例を知りたいということで、このタイトルの卒論となった。

都市農業の実践例は多いそうだ。「で、あなたは、どんな都市農業を実践するの?」と私は彼女に訊いた。

「なんか面倒くさいみたいだから、なにもしないかもしれません」が、答えだった。

わけのわからん3人である。

去年のゼミ生3人もわけがわからん人たちだったが、今年もそうである。

私は雑学には自信がある。雑学そのものが私だ。だから、彼女たちや彼らのテーマにつきあうことぐらいは、いくらでもできる。

が・・・しんどかった。

私は都市経営学部という学際的な学部の教員だけれども、実質は一般教育の英語の教員だ。都市経営学という新しい学問分野に私の入る隙間はない。

都市計画とか設計とかデザインとか景観論とか経営学とか企業論とか都市の環境の水問題とか地層とか都市の共生・開発とか、そういうものが都市経営学部の基幹科目である。

私には、どうにもならない科目ばかりだ。人文系の教員は関係ない。

だから、私のゼミに入ってくる学生は、「都市経営学」というものに入り込めないというか、何やったらいいかわかりません~~的な学生だ。

しかも、ボケッとしていて、ゼミの応募の締め切りを過ぎてしまって、どこに行ったらいいかわかりません~~的な学生だ。

その分、小賢しくないというか、正直というか、まっことマイペースの学生だ。

だから、「卒業研究論文」なるものも、「都市経営学」など関係なく、好き勝手なテーマで書くしかない学生たちだ。

類は友を呼ぶで、ほんと我儘な、自分に正直な人たちだ。

もう小賢しさとか、器用さとか、世渡りの上手さとか関係ない人たちだ。

こーいうタイプの学生さんたちに卒論を書くように誘導(?)するのは、なかなかに骨が折れる。

でも、3人とも、なんとか書いた!! 嬉しい!!

で、今日の紹介映像は、12月17日木曜日の第5回「アメリカ文化論」銃問題のまとめの蛇足みたいな部分の5分間です。

各国の国家を聴いてみると、その歌詞を調べるとおもろいよ。

アメリカの国歌は、第二次独立戦争のときの歌だ。アメリカ軍が全滅したかと思われる砦に新聞記者が駆けつけたら、夜明けの光の中に、砦の上に星条旗が翻っていたよ、という歌だ。

戦争や革命の動乱を祝福した国家は多い。国家の成立の起源には暴力があるから、当然だ。

ところで自分が撮影された映像を見ると、あらためて自分に対していろいろ発見がある。この日の私は、相当に疲れていた。

だから姿勢も悪い。

病院に行って、肝臓の炎症を抑える注射を打ってもらうだけで精一杯で、美容院に行く時間がないから、髪はボサボサ、白髪も目立つ。

かといって、ウイッグ買って被る気はない。あれ、風で飛ばされたりしない? ペコリとお辞儀したら、はずれるのも困るしなあ。

というような、しょうもないこと考える余裕も出る12月22日の夜。冬至の夜。

明日から、ほんとは春へと向かう。

いろいろと鬱屈の多かった日々だったが、私の日々も春へと向かいつつある。

という気がする。

 

こんな講義してます(その4)民兵神話

忙しくて、忙しくて、Blogの更新をさぼってる。

まだ忙しい。12月22日に4年生ゼミ生が卒業論文(という名の論文状作文)を提出したら、ちょっとだけ余裕ができる。

でも、動画だけでもさらしてしまおう。

23分と長いけれども、お気が向いたら見てやってください。

第4回「アメリカ文化論」(12月14日)は、銃問題の続き。

この回は、映画The Patriot(2000)の一部を鑑賞して、アメリカ独立革命における民兵(マリッシャ)の神話性(捏造性)について話した。

民兵ってのは、要するに「屯田兵」よ。「ミニットマン」よ。

いつもは普通の市民だけど、いざというときには武器持って戦うんよ。

アメリカ独立戦争において、アメリカ大陸に住んでいた人々は銃を持って、イギリスの圧政に抵抗し、イギリスの常備軍と戦い勝利をおさめた。

「民兵」こそ、アメリカ合衆国建国のシンボルなんよ。

ということになっている。

もちろん、そんなん嘘よ。

有象無象の素人の民兵が集まっても、常備軍にかなうはずない。

だいたいが、イギリス軍だって、ほとんどはヘッセン(今のドイツ)あたりからとか、スイスからの「傭兵」が占めてたんだから。大事な大事な常備軍なんか、大西洋超えて、植民地のアメリカなんかに送るか。

ついでに、アメリカ大陸軍も、かなり「傭兵」が混じっていた。フランス軍の援軍とかなかったら、アメリカ大陸軍のほうが負けていたろう。

だけど、国家ってやっぱり「神話」が必要なんだよね。

世界の歴史で初めて、市民の国家ができあがった。「共和国」が建国された。独立独歩の市民たちが協議のうえに権利を委託した政府によって運営される共和国が建国された。

啓蒙思想の実現だ。市民政府!! 社会契約論!!

そのシンボルが、マリッシャだ。民兵だ。

だから、武装権は、共和国の市民が市民たる条件のひとつだ。独立独歩の市民は、自分で何でもやるんだ。

自己防衛を、共同体防衛を、国家防衛を、警察や軍隊にゆだねない。

自分たちでやるしかないと思ってるのが、「共和国の市民」だ。

「共和国の市民」は、民兵でなければならないんよ。わかる?

というわけで・・・「共和国」ってのも、聞こえはいいけれども、うざいもんであるなああ・・・

王や為政者に責任を全部負わせて、ギャアアギャアア言ってすませてはいられないんよね、近代の共和国の市民は。愚民じゃ務まらんのよ、「共和国の市民」は。

しかし、そんな「市民」であることを引き受けることができるほど、人間は賢いのか?強いのか?

大方の市民は、愚民だろ。私も、かなり愚民でっせ。

この「西洋近代啓蒙思想」つーのって、ほんとは歴史的詐欺じゃないだろうか・・・一般庶民をこき使うための・・・

「共和国」なんて、いまだにほんとうは実現していないくせに、「共和国の市民だから、ちゃんと責任をはたそうね!あなたたちが主体的に作ってる国家だからね!」ってさあ・・・

一般庶民の「徴兵制」ってさ、共和国から始まったんだからね。

西洋近代啓蒙思想って・・・誰の陰謀??

アメリカ合衆国って、誰かたちの共同謀議で建国されたみたいだね………

こんな講義してます(その3)宗教改革

Blogエッセイのネタがあるような、ないような・・・だから、また「アメリカ文化論」の講義の一部を公開します。

何のつもりで、こんなことしてるんかしらね。

しょーもない自己顕示欲に決まってますがな。

第3回「アメリカ文化論」では、アメリカ合衆国を成立させた三つの思想運動、いまだに継続中の思想運動について大雑把に説明した。

その三つとは、ルネサンスと宗教改革と啓蒙思想。

高校の世界史やなんかでやったことの復習だけどね。

ルネサンスとは、「人間は自由だ~~~人間に原罪なんかあるかあ~~~教会なんか関係ない。人間は好きに生きればいいんだ~~~!!」と思う人々が、「神の代理人」たるバチカン(カトリック教会の総本山)に支配された中世で生まれたこと。ぶっちゃけて言えば、ほんとのこと言えば、「無神論」の誕生よ。

ルネサンスに関して、その本質を簡潔に大胆に理解したい方は、副島隆彦氏の』『隠されたヨーロッパの歴史』(KKベストセラーズ)を読んでちょーらい。

宗教改革は、カトリック教会バチカンのやっていることはイエス・キリストの精神とかけ離れているだろ~~~!!本来のキリストの精神に戻れ~~~!!本気で神に帰依せよ!!人間はほんとに無力だ、神の木偶だ、神の言葉のままに生きて行け~~という運動のこと。

動画は、それについて大雑把に述べた15分でございます。

ルネサンスと宗教改革は思想の方向は違うんだけれども、同じ結果をヨーロッパ人にもたらした。

つまり教会の権威の失墜だ。神の代理人たる教会を頂点にした中世の身分制を揺るがせる事態を引き起こした。

現世の何もかも、普通の人間も(神に権力を委託された)王様の所有物であった.

なのに、「いや、俺には俺の人生がある。俺の人生は教会のものでも王様のものでもない。みんな神のもとに平等なんだからさ。俺が幸せに生きようするのは、神が認めた俺の権利だ!!でも、俺も忙しいからさ、いちいち俺の権利を侵害する他人と戦っておられんよ。俺がより良く生きるために、ほかの人間たちと協力して、統治体を作って、その統治体に統治権力を委託するんだ。犯罪と外敵への対処はよろしく!でも、その統治体が変なことしたら、すぐに革命を起こすぞ!!」という思想が生まれたのは、とんでもない発想の転換だった。

こういう思想を市民政府論、社会契約説と言う。

なんで、こーいう思想が生まれたのかね~~すっごくない??

日本人の大多数には、いまだにピンとこない思想だけど。

伝えたいことが多くて、ハンドアウトの枚数は多いけど、伝えられるのはポイントだけ。

ともかく、ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想を経て、「近代」が形成された。

アメリカ独立革命、フランス革命が成就した。

こうして、一般庶民の権利が認められるようになった「近代」ではあるけれども、私たちは、自分の人生を「近代人」として形成してるんかしらねえ。

一般庶民が大学教育を受けることができるようになり、大衆教育時代が到来したけれども、そんな近代という環境を目いっぱい活用して我々は生きているんかしらねえ。

しょせんダメな奴はダメだろ。

民主主義なんかあるわけねーよ。

なんの闘争も引き受けずに、ラクに生きたい類の人間を甘やかすだけだ。

畜群がギャアギャア勝手なこと言うのが民主主義だよ、所詮は。

世界は、やはり闘争を引き受けることができる(ほんとの)貴族と戦士によって作られるんだ。

と近代批判をしたのは、ニーチェだったが。

講義をしながら、「私って無意味なことしてんじゃないのかなあ・・・スマホいじくってて平気な人生ならば、それはそれでいいんじゃないの・・・本など一冊も読まない人生でも、それはそれでいいんじゃないの・・・」と、思っている私である。

理想を失い、ヴィジョンを失っている62歳の冬が過ぎていく・・・

理想やヴィジョンを持ち維持するには、勉強が圧倒的に足りないし、思考力も足りないと寂しく自覚する62歳の冬が過ぎていく・・・

こんな講義してます(その2)社会進化論

またも自分のしている講義「アメリカ文化論」第2回の一部分をさらしてしまう。今回は、最後の6分ほどを公開する。

この動画も、同僚の三重大学名誉教授&埼玉大学名誉教授の渡邊明先生が撮影してくださった。次回は、学生さんが撮影してくれることになっている。

「アメリカ文化論」は、私が福山市立大学で担当している唯一の講義科目である。12月から2月にかけての4学期に開講される。3年生以上が履修できる。必修科目ではない。選択科目である。「都市経営学部」の基幹科目では全くない。

2013年度に初めてこの講義を開始したときは、3年生の就活開始時期でもあり、受講者数は26名くらいだった。毎回の常連受講者は20名ぐらいだったと思う。

でも、だんだん受講生数は増えていった。2014年度は45名くらいの登録者がいた。

今年度は、登録者86名なので、中講義室に学生さんがいっぱいって感じで嬉しい。受講生が多くいてくれると、講義するのも張り合いがある。

やっぱり、そーいうもんよ。

出席カードも兼ねたコメントペーパーに複数の受講生さんが、「友人が面白いと言ってたから登録した」とか「先輩から受講を薦められた」とか書いてくれている。

こーいうのが「口コミ」効果っていうのかな。

この「アメリカ文化論」も来年度で最後だ。来年度の講義は撮影しないんで、映像に残るのは今年度が最後になる。

「こーいう講義こそ聴きたかった」と書いてくれた4年生の受講生もいた。

第2回の講義では、アメリカ合衆国成立までの世界史を無謀に走り抜けた。約280年にもわたる先住民族とアメリカ大陸植民者との闘争について話し、社会進化論的発想について言及した。

今でも、非先住民族系アメリカ人のかなりは、先住民族殲滅の歴史について自慢はしないけれども、反省していない(と思う)。罪の意識は希薄(と思う)。

なんでかっというと、アメリカ人は、傾向として「社会進化論」的発想を持っているからね。

「社会進化論」つーのは、簡単に言えば、この社会は進化していくものであり、滅びる者は、その進化に順応できないのだから滅びていくんよ、しかたないのだよ、という考え方だ。

滅ぶ人々は、滅ぶのがふさわしい人々なのだよ、だから滅んだのだよ、という考え方だ。

滅ぶのがふさわしい人々を救済することなんか結局は無理だよ。それは人間社会を停滞させることになるんだよ、という考え方だ。

北米大陸の今はアメリカ合衆国と呼ばれる地域にかつて住んでいた先住民族(おそらく)600万人(正確な数はわからない)が、20世紀には30万人に減ったのは、しかたないことだったんだよ、という考え方だ。

遺伝子が劣悪なものは排除せよと唱える「優生学」のもとにもなった考え方だ。

帝国主義やアメリカの南部の黒人差別やナチスの思想的背景にもなったね。

私の好きなニーチェも、アイン・ランドにも、この発想はあるね。

アメリカでは富裕層のチャリティや寄付行為は盛んだけれども、制度としての社会福祉は充実していない。

なんでかっというと、社会福祉なんてものは、弱者救済なんてものは、国民を弱体化し、国力を衰退させるものだというアメリカ人の脳にある社会進化論的発想のせいだ(と思う)。

私は、この社会進化論的考えを肯定はしない。

だって、今の時代が古代より進化してるかどうかなんて判断がつかない。歴史が進化の方向に向かっているかどうか判断がつかない。

肯定はしないけれども、「まあ、こういう考え方の中にも真実はあるなあ・・」と思う。

自分が甘ったれて依存性が強くなりそうなとき、自分の弱さに居直ろうとするとき、私はこの「社会進化論」的発想の過酷さを思い出す。

「滅びの美学」なんて御託を並べていてはいけないんだ。

やはり勝たなきゃ。生き延びなければ。

勝てはしないまでも、負けてはいけないんだ。個人も国家も。

こんな講義してます(その1)銃と貨幣と結社と陰謀論

同僚の三重大学名誉教授の渡邊明先生は、来春に退職なさる。

ほんとうは大学院の完成年度の2017年度まで福山市立大学におられるはずであった。が、ご家庭のご都合で2016年3月をもって退職なさる。

「ご家庭のご都合」とは口実であって、ほんとは福山市立大学に愛想が尽きたのではないか?と私は疑っている。

が、それはさておき、渡邊先生は、ご退職後にインターネットで配信する「プチ・ネット大学」のようなものを構築なさるそうである。

商学博士の渡邊先生のご専門は「経営学」であるが、国立大学の工学部の大学院で教えておられるくらいだから、工学系にもお強い。

機械にもお強い。インターネット関連機器も造作なく使いこなす。

私のようなYouTube映像編集さえできないネット難民とは大違いである。

ともかく、渡邊先生は、将来の「プチ・ネット大学」構築の実験のひとつとして、私の講義の一部を私のblogで公開せいと、おっしゃる。

公開して、どうするのかなあ・・・

でも、福山市立大学に来て以来、いろいろ教えていただき、お世話になってきた御恩ある渡邊先生のお言葉には逆らえない。

で、公開します。90分授業の最初の24分だけです。

2014年最初あたりに、この「アメリカ文化論」という講義の5回までくらいを私のウエッブサイト「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」で期間限定で公開したことがある。

内容は、ほとんど同じなんですが・・・

 

リア充

一時期、「リア充」って言葉がネット界に流行ったでしょう。

「リア充」ってのは、リアルな毎日が充実しているって意味らしい。

リアルな毎日って何? リアルじゃない毎日があるのか?

リアルな毎日が充実している「リア充」ってのは、具体的にどういう生活かというと、毎日、友だちや仲間とイヴェントがあって、集まって楽しそうに乾杯しあっているような状態らしい。

集まって飲み屋やレストランで食べて飲んで騒ぐ機会が多いほど、「リア充」ってことらしい。

そういう写真ばっかりFacebookに投稿している人も少なくない。有意義な情報は投稿せず、集団で飲み食いしている写真ばかり投稿している奴っているな、確かに。

知り合いによると、今時の大学生のFacebookの投稿は、そういうイヴェント写真に満ち満ちているのだそうだ。

いまどきの女子高校生は、彼氏とのファースト・キスとかファースト・ベッドインも、Mix Channelに投稿しちゃうんだそうだ。

くっだらねえ・・・

しょうもない・・・

すっげえ脳タリン・・・心のひだひだ全くない。つるっつる。

あ、天真爛漫って言うべきか。

そこまで見ず知らずの他人に見せつけないと、気が済まないほど、見ず知らずの他人を必要としているのか。

一種の「プチ・スター」気分かな?ブスでもネット空間ではアイドルになれます~~~的な。

まあ、とことんやりなはれ。いずれ飽きるだろ。

私的に思う「リア充」ってのは、リアルに充実感があるというのは、たとえば、次のようなことだな。

尋常ではないプロジェクトを長年の辛苦の上に見事に遂行成功させた。

ああ、「これ」に出会えただけで、もう最高に幸せ!と心底思えるような、「これ」に出会った。「これ」つーのは「極上お好み焼き」でもいいんよ。

この世界の支配構造を把握した。歴史の秘密を解き明かした。

強烈に頭のいい人間たちの会合に忍び込めて、これからこの世の中がどうなるか知った。

アリストテレスやマルクスやケインズをみんな読破して理解できた。

年収200万円ながらも、貯金1億円を達成した。

眺めているだけで頬が緩んじゃうような滅茶苦茶にいい男と性交しまくって、そいつの身体を利用しまくって、誰にも秘密に楽しんだ。人格なんいらん。美貌と快楽だけ欲しい。

秘密政治結社を結成し、日本を名実ともに独立国家にした。極東の海に浮かぶシンクタンク的要塞のように、日本は、物を考える国民に満ちた国家になった。

永遠の若さと、どんどん増大グレイドアップする知力に頼り、宇宙を旅した。ついには宇宙の果てまで行き「神」と対話した。というか「神」を罵倒してやった。

宝くじで100億円当たって、誰にも言わず生活も変えず、無名の秘密の金持ちのまま、心の中は余裕と優越感いっぱいに笑顔で生きた。

こーいうようなことならば、「リアルに充実」だ。

ところで、私の人生は、リアルに充実したことなんか、ほとんどない。

幸福ではあったけれども、感謝してはいるけれども、リアルに充実はしない人生だった。

私は正直だからね、実感しか語らない。

私は幸福ではありますが、リアルに充実感を感じることができるような「すごいこと」を遂行したりはできなかった。平凡だから無理だった。

かといって、しょうもないイヴェントで予定を埋めて、満足できるほどの自己欺瞞力もない。

ほんとは関心もない人々と群れて騒いで楽しいと本気で思うほどには、自己分析能力に欠如していない。異常に孤独に弱いわけでもない。

え?なに?

物の言い方が、なんかむかつく?

それは、私が真実を語っているからよん。

身の程知らずだって?

上から目線だって??

あたりまえじゃん、私は身の程知らずに決まっている。上から目線に決まっている。謙虚なんて言葉は私の辞書にはない。あるようなフリはしますが。

身の丈なんか知っていたら、そもそも、生まれてこなかった。

生まれる必要もないのに生まれてきてしまった凡人である自分を、私は直視する。凡人以下の面も多いけど。

「私の人生には、なにか使命があったに違いない!」なんて幻想は持たない。

62歳になっても、「生まれた理由」も「生きる意味」もわからん。

ちょっと、あなた正直になりなさいよ。

自分と同じ程度の人間と飲んで騒いで、いっしょにどこか通俗でケチで小汚い観光地に行って、「はい、ピース!!」って写真を撮ることの、どこが面白いんだ。

ほんとは面白くもないことを面白いふりして笑顔を作っていると、皺が増えるよ。

何が言いたいかって?

要するに、他人の「リア充」ぶりを眺めて羨ましく思う必要なんかまったくないってことだ。

ほんとに、羨ましいわけでもないのに、羨ましいフリを自分にまですることはないってことだ。

もっと自分に正直でいようよ。トコトン正直でいようよ。

ほんとにリアルに充実していることは、他人に見せたくないものかもしれない。語りたくないものかもしれない。

見せようもないかもしれない。語りようもないかもしれない。

最近の私はさあ、何も特別なことはしていない時間に、独りの時間に、なんか生々しい充実感を感じるようになっている。

幸福感とも違うんだね、これは。

時間の中に、自分が溶け込んでいるって感じ。

私という意識から離れて、世界の中に自分が溶け込んでいるって感じ。

ほんわか~~~とした無って感じ。

認知症一歩手前だろうか?

いろんな「リア充」があるね。