『この世界の片隅に』に描かれる「気立ての良い人々」の気高さ

本日は2016年11月30日水曜日だ。

推薦入試の合否判定の臨時教授会が早く終わったので、3学期末試験の採点をするのもなんかなあ……と思い、福山駅前の「福山シネマモード」に行ってしまった。

午後3時5分から、確か『この世界の片隅に』が上映されるはずだと思い出してしまったから。

監督は片渕須直さん。原作は、こうの史代さんの漫画。音楽はコトリンゴ。

この映画は、すでに非常な評判作だ。

なんと、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』を超える作品だという説もネットで見かけた。

ええ?そうなん?

で、やっと見た。

確かに『君の名は。』を超えてる。

はるかに超えてる。

しかし、『この世界の片隅に』を『シン・ゴジラ』と比較するのは、冒涜的な気がする。

どちらに対しても比較するのは失礼である。

世界観が違いすぎる。

正反対だ。

カトリックとプロテスタントぐらいに違う。

いや、カトリックと無神論ぐらいに違う。

舞台は、戦前戦時敗戦直後の呉市と広島市。

主人公は、広島市内の海苔作りが家業の平凡な家の長女のすず。兄と妹がいる。

すずは、19歳で話したこともない呉市の北條さんの家に嫁ぐ。

どういうわけか、そこの1人息子がすずを見初めたそうだ。

(どこで見初めたか、勘のいい観客ならすぐわかる)

北條さんところは、お父さんは呉軍港に努める軍属。お母さんは足がちょっと悪い。

1人息子で、すずの夫になる人も海軍に勤務しているが、軍人ではない。

この夫には姉がいる。この姉は独身の頃はモガ(モダンガール)で鳴らした近代風女性。

この姉は、広島市の繁華街にある大きな時計店の後継と恋愛結婚して、一男一女をもうけた。

しかし、その後継は早々と亡くなり、姉は後家さん(未亡人のこと)になった。

婚家先の時計店も強制疎開で閉店となり、婚家の両親は孫息子だけ連れて下関に行ってしまったので、姉は娘だけを連れて実家に出戻って来た。

ということで、すずの夫のお姉さんは、けっこうすずに当たりが強い。でも悪気はない。有能でいい人。ツンデレです。今風に言えば。

すずは、早朝から井戸の水汲み、炊事、洗濯、掃除に、畑の世話と休む間も無く家事に追われる。

すずは、苦にもせずにクルクルと不器用ながらもよく働く。

すずが、北條さんの家に嫁いだ頃から、だんだん戦局が厳しくなる。

昭和19年から20年と、呉市はたびたび空襲にあう。

昭和20年の7月の呉空襲はひときわ過酷だった。

すずは、広島市に帰りたくなる……

軍港のある呉は空襲にあうけれども、広島市なら安全だから……

これ以上は、ネタバレになるので書かない。

このアニメを見終わったとき、私は不覚にも涙が出てしかたなかった。

泣いたのは、戦争と庶民の暮らしとか、空襲の中で健気に強く生きる女たちとか、そういう文脈で心を動かされたのではない。

すずの生き方の「混じりっけのない気立ての良さ」に圧倒的な郷愁を感じたからだ。

このような「気立ての良さ」こそ、人間として最も尊い資質であるのに、この資質を豊かに持つことを現代日本人は恥じるようになって久しい。

現代において、「お人好し」は、褒め言葉ではない。

それは「他人に社会に国に騙される頭の悪さ」の同義語になってしまった。

「気立てが良い」のは、ヒロインのすずばかりではない。

登場する人々が、すべて「気立てが良い」。

意地悪な人間は誰も登場しない。

みな善意で単純で正直だ。

素朴な愛情を素直に発揮する。

すずの夫もすずへの愛情を隠したりしない。

照れたり、カッコつけたりするような気の小さい男じゃない。

手練手管とか陰謀とか権謀術数なんかのない世界。

意地が悪いのは、憲兵くらいなもんだ。

その憲兵だって、単純すぎて憎めないアホさ加減だ。

私は、ヒロインのすずの「気立ての良さ」に思い出した。

アナトール・フランスの短編小説「聖母の軽業師」を。

サーカスの薄らボンヤリした軽業師が、毎晩こっそり教会のマリア像に会いに行く。

で、マリア像の前でせっせと軽業をしてる。

「なに、あいつはやってんのかね……」とサーカスの仲間たちは、冷笑してる。

「俺ができることは他に何もないから。マリア様にして差し上げることが他に何もないから」と、その貧しい無知な軽業師は言う。

ある晩、仲間の1人が、軽業師が何をしているか覗いたら、彼は今夜も額に汗を流しながらマリア像の前で跳んだり跳ねたりしている。

ところが、仲間の1人は驚愕する。

台座の上で端正に黙っていた(あたりまえだけど)マリア像が、台座から降りて、軽業師の額の汗を拭っている!!

………

私は、この話が好きだ。

合理性だの主体性だの構築性だの自意識だの、近代的概念のいっさいが欠如した人間の真心。

純粋なる善意。

そのとき自分ができることをすることに躊躇しない大らかさ。

見栄も虚栄もなく他者と対する正直さ。

自分でない人間のふりをしない単純明快さ。

丸裸の真心でマリア像に対する卑しい孤児だった軽業師の気高さよ。

このアニメ『この世界の片隅に』を批判することは容易だ。

戦争を、こーいう風に描いちゃあかんやろ……と思う。

女をこういうふうに描くのは、もう消えてしまった美しいものへの挽歌でしかない……と思う。

だけれども、私の心の奥に憧れが潜んでいる。

地方に生まれ、同じく地方の顔もよく知らない男の元に嫁ぎ、婚家先の家族と暮らしを共にし、家事に明け暮れ、子どもをいっぱい産み育てて、いつしか婚家先の家族に馴染み、義理の両親や兄弟姉妹に信頼され、老人を見送り、近隣地域に根を生やし、働いて働いて死んでゆく女性の生涯というものに。

そのような女の一生など、近代的価値観からすれば、アホみたいだ。

でも、なんと気高い人生だろう。

なんと強靭で勇気に満ちた人生だろう。

「近代的女」や「フェミニスト」が束になってかかっても、このような女性にはかなわない。

ヒロインのすずの声を担当する「のん」という声優さんの発声が、また、その気高い平凡な女性の人生の輝きを、よく表現している。

いやーもう泣かされちゃったなあ!

(追記)  声優の「のん」さんは、女優の能年玲奈さんだそーですね。

40代女性よ、大志を抱け

どういうわけか、最近やたらと40代の女性と会食する機会が多かった。

私は、だいたいが美味しいもの食ってりゃ機嫌がいい人間だから、会食していても食うことに集中している。

すみません。

特に悩みもないんで、噂話以外は、話すこともないから聴いてる。

いっしょに食事していた40代の女性たちは、それぞれにみな優秀で知的で魅力的だが、それぞれに鬱屈があるようだった。

明るくて陽気で気丈だけれども、どこか辛いものを抱えている感じだった。

まあ、辛いものがあるというのは、どの年代でも普通なんだけどさ。

あんまり、参考にはならないかもしれないけれども、40代の女性に対して、63歳の私から言えることを書いておく。

40代というのは、私が女子大の短大部で教えていた頃の学生さんが、ちょうどその年代だ。

桃山学院大学で教えていた学生さんたちは、やっとこれから40代を迎える頃。

40代って辛いんだよね。

まだまだすっごく若いのだけれども、20代や30代の女性よりは若くない。

あたりまえ。

男性から向けられる視線も、「あ、オバサンね……」のニュアンスになる。

だけど、40代なんて、すっごく若いんですよ。

エネルギーもあるし、性的欲望も全開の頃。

持ってる機能はちゃんと使わないといけないんで、ちゃんと使いましょう。

「使いどき」に使っておかないと。

お洒落もいっぱいしたい。

あちこち行きたい。

行動力いっぱい。

だけど40代だから、そろそろ体調の変化も出てくる。

更年期障害風の不調も出てくる。

肌の変化も出てくる。

体重がジワジワ増えてくる。

痩せにくくなる。

焦燥も出てくる。

これから私はどうなっていくんかしら……

若い子はみんなアホで軽薄で非常識だし。

年上もみんないい年して未熟でバッカみたいだし。

間に挟まれた中堅の私らは、ろくな目にあわんわ……

あのですね、女性は、40代にこそ、生き直さないといけません。

高望みでも何でもいいんで、とんでもないことを心に抱かねばなりません。

大志を抱かねばなりません。

Starting living againでございます。

女性は男性より生命力があるから、普通に働いて生活しているだけでは、足らない。

生きている気がしない。

男性並みに1人分の人生を送るつもりでいると、ダメなんよ。

小さいこと思っていると、小さい人間になるのは、男女ともに同じだ。

だけれども、女性の場合は、生命力がある分だけ、小さく生きていると、その生命力が使用されずに、ろくでもない方向に行く。

意地が悪くなったり。

口やかましくなったり。

お節介になったり。

嫉妬深く他人との比較ばかりしたり。

女優でもないのに化粧やファッションに暴走したり。

しょうもない男に暴走して散財したり。

厚かましく図々しいくせに不安だけはいっぱいだったり。

無意味に支配欲が強くなったり。

虚栄心が強くなったり。

40代で、とんでもない大志を抱くといいのは、そこに余ったエネルギーを注ぎこめるから。

「私には無理だな……」的不可能っぽい大志でいいんよ。

3人分くらいのエネルギー出さないと死ぬまでに実現しないかもね……の大志でいいのだ。

実現するのが死ぬ寸前とか、死んでからかもしれない程度の身の程知らずのことを本気で考える。

そうなると、生き方がガラリと変わる。

生命力の強い女性は、ほんとに大きなこと考えないと、自分の人生を持て余す。

だけど、この社会は、世間は、女性の生命力を削いで小さな箱に入れ込むような言説で満ちている。

そんな小綺麗な体裁のいいだけの箱に入れようとしても、収まるもんじゃないんだよ、女の生命力は。

とうの本人の女性たち自身が、自分の生命力に無自覚だ。

弱くもないのに依存したがる。

無神経なくせに、繊細なふりする。

希望を捨てることはできないのに、うつ病の真似をする。

やめようよ、男の真似は。

男は参考にならんのよ、あいつら1人分しか生きないから。

女性は、40代になったら自己欺瞞に気がつかないと、困るよ。

40代で生き直さないと、50代困るよ。

60代さらに困るよ。

70代ゴミだ。

80代、まだ生きてる。

90代妖怪。

100歳。もう死に方忘れた。

なんで、身の程知らずのことを思っちゃいけないの?

大志を抱くぐらい無料だ。

ダメで元々だ。

女性はヘタしたら100歳近くまで生きる。

3人分の人生を生きるつもりでいて丁度いい。

1人分の人生だと思い込んでいるから、ろくでもなく無為で煩いババアになる。

40代女性こそ、大志を抱かねばならない。

生き方の次元をうんと高めて大きくする。

これなかなか大変です。

現実は昨日と同じ風景に住まいに職場に同僚だからね。

その中で、自分の心と脳を宇宙にぶっ飛ばすくらいの想像力が要る。

私自身は、47歳あたりまでは危機だった。

48歳で生き直した。

ムチャクチャなことを心に抱いた。

そのおかげで、今まで生きてこれた気がする。

それでも、まだ1人分の人生しか生きていない。

3人分生きなくちゃ!

時間じゃないよ。

密度!濃度!志!

自分で自分の人生を矮小にしちゃいけない。

シン・ゴジラになるんだ〜〜〜♬♬

ずっと、お人形遊びしてきた

本日は2016年11月28日月曜日だ。

4学期制の福山市立大学の3学期末試験が終わった。

現在の私の短期目標は、ゼミ生8名(不登校児がいるんで実質7名。そのうち3名は退職してイラクに行った同僚のゼミ生引き受け)に「必修6単位の卒業研究論文」を12月22日に提出してもらうことだ。

私は、この「卒論指導」というのが好きだ。

面倒くさくて厄介だけれども、好きだ。

なんでか?

「卒論指導」は、「お人形遊び」だから。

お人形を古いのや新しいのや5体ぐらい並べて、名前と役割決めて、ストーリー作って好きに動かす。

ヘアスタイルを作り、リボンをつけ、端切れ布で作った貫頭衣みたいなドレスを着せる。

女性は、幼児期や小学校低学年くらいまで、そうやって遊ぶ。

私も、そうだった。

持っている人形は、すべて私自身であった。私の分身なのだった。

私が教師としてしてきたことは、あの「お人形遊び」の延長だった。

「指導」って、お人形遊びだよ。

指導者本人のイメージしたことに学習者が近づくように指導者は助言したり、やってみせたりする。

論文だって、レポートだって、教師のイメージした論文やレポートに近いものを学生が書けばいいわけだから。

ところで、福山市立大学都市経営学部の卒論は必修で6単位もある。

ところが、今時の大学生の多くは自分で卒論のテーマを決めることができない。

自分でテーマ見つけてサッサと資料集めて、論文の形にできる学生は少ない。

テーマは自分で決めても、その後ボケっとして、ろくにリサーチしない学生も多い。

リサーチと言っても、図書館にある文献とインターネット情報でいいんだけどさ。

官公庁のウエッブサイトは情報の山なんだし。

intelligenceはなくとも、informationはいっぱいだ。

私のゼミのテーマの安全保障とか危機管理なんて、防衛省と外務省と国土交通省とかのウエッブサイトを検索すれば、pdfの論文はいくらでも見つかる。

ああいうところは、シンポジウムやフォーラムの報告集を必ず出すから、いくらでもダウンロードできる。

だけど、それを面倒くさがってやらない学生も多い。

それでもともかく6単位の必修卒業論文は提出しないと卒業できない。

地震が来ようが津波が来ようが、卒論をでっち上げるしかない。

学生さんがテーマ決めたら、私はそのテーマについてすぐに調べる。

で、そのテーマにのめり込む。

本も買い集めてしまう。

今年の4年生の卒論の題目は、「人間の安全保障」に「中国の軍事的躍進の諸相」に「沖縄の米軍支配を超えて」に「日本のエネルギー安全保障–原子力を中心に」と「人工知能の現在と未来」に「太平洋戦争期の青年雑誌のジェンダー」に「新しい戦争形態」だ。

もう、自分が論文を書く気分になる。

テンション上がる。

ワクワクハラハラだ。

で、「これとこれとこれを読んでちょーらい」と学生ひとりひとりに文献を渡す。

「この論文読んでちょーらい」と、CiNiiで検索してダウンロードした論文のコピーを渡す。

「これネットで拾ったよ」と、ネットの海に浮かんでいた論文のコピーを渡す。

「このサイトが参考になるよ」と、何かのウエッブサイトのURLをメイルに添付して送る。

で、彼女たちや彼らが書いてきたものを添削して、個別指導で、やいのやいのと言う。

我ながらしつこい。

他人の論文に、やいのやいのと介入する。

面倒見がいい先生?

いや、全く違う。

学生の卒論は、私の論文なんよ。

学生の卒論じゃないんだよ。

私が関与するから、私の論文なんよ。

私がイメージする卒論に近い感じのものを学生さんたちに作成してもらいたいんよ。

で、やいのやいのとお節介を焼く。

遊んでるんよ。

学生さんたちは私の操り人形になってる。

彼女や彼らたちは、私のかわりに書いている。

卒業研究発表会もそうだ。

私が納得するまで、発表会の練習もしてもらうけれども、私の代わりに発表するんだから、面白くなければダメなんよ。

すみません。

告白します。

私は、教え子たちを「お人形さん」にして遊んできました。

実は、「英語プレゼンテイション・コンテスト」も同じだ。

私がプレゼンする代わりに、学生たちがする。

だからこそ、どんな破茶滅茶な英語も添削するし、構成ができていないならば徹底的に構成を直す。

午前1時まで特訓が続けられるのは、彼女たちや彼らのプレゼンは私のプレゼンだからだ。

絶対に知的にも面白くて生き生きしていてパワフルでユーモアがないといけない。

熱心な先生なんかじゃないんだ、私は。

私のイメージに近いことを実現してもらわないと気が済まないだけだ。

今だから告白するが、留学志望の学生がアメリカやイギリスの希望の大学に提出する自己紹介文やエッセイを(ほぼ)代筆したことは何度もあった。

いいじゃん、別に。

合格すれば、あとは彼女たちや彼らが自力で何とかするんだからさ。

その後のことは知らんのよ。

どうでもいいんよ。

もう名前も覚えていないよ。

私のお人形を私がイメージするように、その場だけ好きに動かせれば、それでよかった。

すみません。

そういえば、私にとっては、「恋愛」というのも、「お人形遊び」だった。

素材はいいのに、 ちょっとイケテいない男の子をオシャレにカッコ良くするのが好きだった。

自分が男だったら着たいものを着せて喜んでいた。

着せ替え人形になってくれれば、それでよかった。

あとは関心ない、という感じだった。

私は、ずっと「お人形遊び」してきたんだなあ……

ずっと、ガキやってきたんだなあ……

次は、どんな「お人形遊び」をしようか。

本気というのは気を向けるということ

本日は2016年11月26日土曜日。

久しぶりに早く済ませないといけない仕事もないお気楽な土曜日だった。

ほんとに予定がないのかなあ、私は実に忘れっぽいからなあ……と手帳をチェックしたら……

ひと月以上も前に中国整体と、その中国整体院で提供している「漢方蒸し」の予約を入れていたことが判明。

「漢方蒸し」ってのは、韓国の「よもぎ蒸し」をアレンジしたものだ。

「よもぎ蒸し」つーのは、よもぎを煮立てた熱で人間を蒸すこと。

「漢方蒸し」つーのは、よもぎを含めた薬草を生薬(ショウヤク)にしたものをいろいろ混ぜて煮立てた熱で人間を蒸すこと。

「よもぎ蒸し」は韓国が発祥の地だ。

李朝時代から伝えられる民間療法で、身体の冷えによく効く(らしい)。

特に更年期障害の女性によく効く(らしい)。

どうやって人間を蒸すのか?

まず、直径10センチくらいの壺に生薬(薬草を干したもの)を水を入れて煮立たせる。グツグツ煮立たせる。

1時間は煮たたせないと、生薬の成分が湯の中に溶けない。

そのグツグツと生薬が煮立った壺の上に、比較的頑丈な陶器のスツールをかぶせる。

ただし、その陶器のスツールは上部に大きな穴が開いている。

洋式便器状である。

人間はといえば、全裸になり、ビニール製のマント状の大きなガウンを頭からかぶる。

そのガウンの上部はゴムがはいっていて首のところで留まる。

ガウンは長くて首から下は全部すっぽり覆われる。

つまり、人間はてるてる坊主みたいになる。

で、人間は、よもぎが煮立った壺の上にかぶさった便器状陶器に腰をかける。

注意して腰掛ける。

壺で煮立てられた漢方の生薬の湯気が、肛門や陰部、特に膣にあたるように陶器に腰をかける。

その前に、まずは5分間、便器状陶器の上部の穴から覗き込むようにして、煮立った生薬の湯気を顔にあてる。

次に両のふくらはぎを、煮立った生薬の熱にあてる。これが10分間。

それから30分間は、便器状陶器に腰掛けて、煮立った生薬の湯気を肛門や陰部全体にあてる。

このとき、うっかり自然反射的に、便器状陶器を便器として使用してはいけない。

絶対に反応してはいけない。

油断すると反応しそうになるので、絶対に油断してはいけない。

人間扱いされなくなります。

で、最後に5分間ほどマント状てるてる坊主風ガウンを頭からかぶり、髪もろとも、湯気にあてる。

こうして、人間が蒸されるのであります。

身体も顔も髪も、漢方のわけのわからん匂いでいっぱい。

煎じ薬のような匂いでいっぱい。

で、50分蒸されると、夏は全身が汗ビッショリになる。

終わってからシャワーなど浴びない。

備え付けのタオルで身体を拭くだけ。

生薬が肌から浸透するのに、水でザーザーザー流さない。

本当は、漢方蒸しをした日は、お風呂も入らない方がいい(らしい)。

漢方蒸しは、蒸されたあとが大事(らしい)。

煮立った壺はその頃には熱もおさまっている。

その壺の中身を検討することも大事である。

しっかりと肛門や陰部から、粘膜から、煮立てられた生薬の湯気、エッセンスが吸収された場合は、壺の中の水分がかなり減っている。

その壺に残った生薬煮立てた残りの湯の表面に膜がいっぱい張っているならば、成功。

それは、煮立てられた生薬の湯気によって身体から毒素が出た証拠。

デトックス!デトックス!

膜があまり張っていない場合は、毒素が出なかったってことで、身体の代謝が悪いということになる。

ほんまかいな。

効果があるのかどうか、よくわからないが、私はこの「漢方蒸し」が面白くて、整体に行くたびに、蒸されてくる。

私が行く整体院では整体受けるお客さんは多いが、蒸されに来る人は少ない。

たまには「蒸された豚まん」の気分もいいよ。

1ヶ月に1度か2度くらい「豚まん」気分。

関東では「肉まん」って言うのかな。

ほんとに体調が悪い場合は、毎日でも蒸された方がいい(らしい)。

癌の原因は身体の冷えだそうだから、毎日蒸されたら治るかもね。

癌細胞消えるかもね。

抗癌剤より効き目があるかもね。

料金は4500円。ただし、整体といっしょに受けてくるので1000円ディスカウントで3500円。

で、回を重ねて、私は気がついた。

下半身の粘膜が漢方の湯気を吸収する度合い=生薬を煮立てた壺の中身の減り具合は、私が蒸されつつ本など読んでいると少ないということに。

下半身の粘膜を意識して、湯気を吸い込んだるぞ〜〜♬の気分でいると、壺の中身の減り具合は大きい。

ついでに壺の中身の表面に浮く毒素と呼ばれるものの量も多い。

やはり、こういうものでさえ、本気でやらないといけないのだ。

本気とは気を向けることだ。

ちゃんと気にかけることだ。

ながら仕事ではダメということだ。

本読んだり、スマホいじってたりしてちゃダメってことだ。

デートや友人と外出して食事中とかに、相手の話を聴かず、相手と会話せずに、スマホいじってたり、タブレットいじってたりしたら、アウトでしょ。

やはり、きちんと接しないと。

話をしないと。聴かないと。気を向けないと。

本気になるというのは、気を向けることという当たり前のことに、あらためて気がついた土曜日の午後だった。

私は、どれくらい本気を出して来たのだろう。

ちゃんと自分の人生に気を向けてきたのだろうか。

仕事に気を向けて来たろうか。

接する人たちに気を向けてきたろうか。

「ながら」やってちゃ、ダメなんだ、やっぱり。

料理だって集中して心を込めないと美味くならないもんなあ。

人様だって、集中して心を込めて見つめないと、その人間性はわからないもんなあ。

学生さんだって、気を向けて個人的にじっくり話を聴いてみないと、わからんもんよね。

病名がつくと便利だね

本日は2016年11月23日水曜日。

くたびれて、ソファに毛布かぶって寝っころがって、晩秋の曇り空を見てる休日の午後。

いつもくたびれている63歳。

心は10歳くらいの馬鹿ガキなのに、世間向きには63歳のフリするわけだから、くたびれるに決まってる。

どうでもいいこと書きたい気分なんで、どうでもいいこと書く。

病名がつくと便利だね。

たとえば、非常に落ち着きがなく、何か作業を始めても、その作業をきちんと終わらせずに、思いついた他のことを衝動的に始めてしまい、その結果、いつも仕事や家や部屋が片づかない。片づけることができない。

こういうのは、「発達障害」のひとつで、「注意欠陥多動性障害」(ADHD)と呼ばれる。

でも、この病名が発明される前は、このようなタイプの人は、「不注意」とか「ちゃんとモノを考えない」とか「だらしない」とか言われ非難された。

そういう自分を直そうとしないからダメとか、努力が足りないとか、道徳的に非難された。

でも、「注意欠陥多動性障害」と病名がつけば、まあ病気なんだから、しかたないよね、となる。

「発達障害」なんだから、しかたないよね、となる。

病名がつくと便利だ。

わかったような気分になるし。

まあ、しかたない……と寛容にもなれる。

その原因が不明でもさあ。

脳の器官的障害については、まだまだわからないことが多いんだし。

生来、脳の表面に擦り傷がいっぱいついているのかもしれないし。

乳児期の脳の発達期に何かの栄養が足りなかったのかもしれないし。

脳なんて、お鍋に入れられたお豆腐みたいなもんだから、多少はみんな壊れてるか欠けてるか、割れちゃってるのかもしれないし。

まあ、医学がもっと進めば、原因も判明するんだろう。

私自身も地味めに発達障害だなあ……と思う。

よくこの年まで生きてこれたなあ……と思う。

発達障害から初期の認知症に移行しつつあるのかもわからんけど。

大人になってから、幼い頃の自分の状態が一種の病気であったと知ることがある。

私は、物心ついた頃から高校時代ぐらいまで、ときどき、変な状態に陥った。

急に周りの風景がグダグダのモノクロームの縞模様になった。

その縞模様がグニャグニャと揺れている中で私は呆然としているしかなかった。

昔のテレビは、深夜は何も放送していなくて、そんなときには画面いっぱいにモノクロームの横縞がザーザー走っていた。

あの横縞が、もっと太くなってグニャグニャと360度四方いっぱいに動いていると思ってください。

そういう世界。

私は、「あ、まただ」と思って、そのグニャグニャモノクローム横縞を眺めてるしかなかった。

机も椅子も壁も消えた。

外を歩いているときは、樹々も家々も道路も消えた。

ただグニャグニャモノクローム横縞の世界。

自分が誰なのかもわからなくなった。

自分の身体が見えなくなった。

どこにいるのかもわからなくなった。

ただ、意識はあった。

グニャグニャモノクローム横縞の世界に漂っている意識。

ただし、そういう状態は長くは続かなかった。

1分も続かなかったんじゃないか。

まもなく、いつもの風景が戻ってきた。

だから、私は気にもしなかったし、誰にも言わなかった。

悩むようなことでもなかったし。

世界や自分は、ときどき形を失って、グニャグニャモノクローム横縞になる。音も匂いもなんもない。

それは普通のことなんだ。

と、勝手に思っていた。

そういう状態は、ボケっと漂っていれば、まもなく終わる。

実害なし。

そういう状態がどういうものかについて、自分なりにわかるようになったのは、大学院生の時だった。

私たちは、これは机、これは椅子、ここは部屋で、私はこういう人間で……と世界を意味づけて生きている。

フランスの精神分析学者ラカンの言う「象徴界」だ。

世界という混沌を、記号化し分類し意味づけすることが世界把握で世界を理解するということだ。

私たちが理解している世界は、ありのままのむきだしの世界ではなく、人間の認識というフィルターを通して整理された世界だ。

認識というフィルターを構築していくのが、人間の知能の発達だ。

それが広義の意味での社会化だ。

ところが、急に瞬間的に、認識というフィルターが機能しない状態になることもあるのではないか。

そうなると、人間は意味も何もない存在そのものになって、意味も何もない存在そのものとなった世界と直面する。

高校を終えるぐらいまでの私の目の前に現れたグニャグニャモノクローム横縞世界は、なんらかの理由で私の認識器官がフリーズした時に見せた世界の素顔だったのではないか。

世界というか、プレ世界世界というか、世界と記号化される前の世界というか。

なんの意味も音も匂いも光もないグニャグニャモノクローム横縞。

これは、ラカンの言う「想像界」なんかな。

まあ、何でもいいわ。

要するに、私の脳は、子どもの頃から17歳のくらいまでの期間に、ときどき認識機能を失った。

こういう症状は、「離人症」と呼ばれる。

そうか、私は17歳くらいまで「離人症」だったのか!

病気だったんだ!

知らないうちに治ってたんだ!

自然治癒したんだ!

いや、油断はできない。

あのグニャグニャモノクローム横縞は、また私の目前に出現するかもしれない。

でも、再びあの症状が出ても、私はあわてもしないし、恐れもしない。

病名があるもん。病名知ってるもんね。

離人症。

リジンショウ〜〜〜♫♫♬

軽度の離人症。

脳の認識機能が、短時間だけフリーズするんだ。

短時間だけの脳の認識機能障害。

軽度とはいえ、そんな病気を抱えて、生きてきたんだもの、よく頑張ったよ、私。

私はサボったわけじゃない、怠け者だったわけじゃない、道徳的に劣っていたわけではない。

病気なんだからさあ、しかたなかった。

母は内心は心配していたらしい。

知恵遅れじゃないかとか、何とか。

まあ、子どもがときどきフリーズして静かに固まってるんだから、そりゃ心配だよね。

ご心配なく。

ちゃんと履いてます。

違う、違う。

あなたのガキは、ちょうどその時、世界の実相と対面中でした。

私が、権威主義になれないのは、世間的な価値基準や序列で物事を見ることが苦手なのは、どこか人を人と思わないといいますか、物を物と思わないといいますか、自分を自分と思わないといいますか、非常に大雑把なのは、人畜無害にアナーキーなのは、脳の機能障害のせいなんだろうなあ。

世界を意味づける機能の不具合のせいなんだろうなあ。

あのグニャグニャモノクローム横縞こそが、ほんとうの世界なんだろうなあ。

あれが、ほんとうの宇宙なんだろうなあ。

宇宙の管理者は、ヴァーチャル・リアリティを構築しているんだけど、そのマトリックスが瞬間的にせよ不具合を起こして、リアル・リアリティを垣間見せてしまうのだろうなあ。

もしくは、脳の中には洗脳しきれない部分があって、ときにその部分が稼働してしまって、マトリックスの向こうにあるものを目撃するのだろうなあ。

あのグニャグニャモノクローム横縞世界こそ、「神なき世界」であり「ロゴスのない世界」なんだろうなあ。

混沌。

将来、あのグニャグニャモノクローム横縞が目の前に出現したら、今度こそじっくり、その混沌を見つめよう。

ヴァーチャル・リアリティの外に出てみよう。

そここそ人跡未踏の空間。

フェミニズムという言葉が消滅した現代と未来こそ女の時代

本日は2016年11月19日土曜日だ。

ここ2週間は非常に忙しくて、ほんとぐだびれだ。

まあ、退職するまでは、勤めている限りは、忙しくて、くたびれるのは当たり前のことだけど。

体調が悪い時は、「40度以上のお風呂の浴槽に顎まで10分以上浸かる」がいいそうだ。

ウイルスにせよ悪性細胞にせよ、温めると死ぬ。

だから、お湯の中で顎まで10分以上浸かっていれば、ウイルスも悪性細胞も死ぬ。

この2週間の多忙さと疲れを、私は「42度お湯浸かり10分以上」で乗り切った。

10分って長い。

退屈が嫌いな私はカラスの行水派であるが、10分は浸からねば。

ということで、「ありがとうございます」を言う度に左手の指を折り、それを10回繰り返したら、右手の指を一本づつ折り曲げて、この動作を10回繰り返せば、10分は過ぎるということで、そうしてる。

「ありがとうございます」の代わりに、「トランプさんめでたく暗殺逃げ切り大統領就任一期無事勤め上げ」でもいいのだ。

「人類平和繁栄大地球共栄圏万歳」でもいい。

「名著一万冊読破天才になりたい」でもいい。

「骨盤の歪み矯正大成功また15キロ歩行成功」でもいい。

「『シン・ゴジラ』 並みの大傑作映画さらに出でよ!」でもいい。

「ガッキーみたいに手足が長くなれ長くなれ長くなった!」でもいい。

何でもテキトーにブチブチと100回言えば、10分は過ぎるね。

で、お湯の中でじっとしてブチブチ無心に言ってると、心の奥から湧き上がってくる悦びがあるね。

それはどーいう悦びかというと、こういう時代に女として生まれたことの幸運に対する悦びね。

日本の少子化って、突き詰めれば、近代化による女性の識字率向上と計算能力の向上の結果だ。

つまり、女が読書するようになり、コスト・パフォーマンスを考えるようになれば、自分の人生を第一に考えるようになる。自分の人生を大事に生きようと思うようになる。

読書して知識が増えて計算能力が向上すれば、賃金仕事に就ける。

そうなると、女にとって結婚というものは食ってゆくための手段ではなく、人生を有意義にするための手段となる。

そうなると、「こんなんと結婚するぐらいなら、独身の方がいいわ」となる。

もしくは、「こんなんと結婚してるのは時間とエネルギーの無駄だから、サッサと離婚しよう」となる。

で、そもそも結婚する女性の数が減る。

自分の人生を大事に思えば、多くの子どもは産まなくなる。

多産が趣味だという人以外は。

多産でも全く経済的に困らない階級に属する人以外は。

子どもに自分と同じ教育チャンスを与えたいと思えば、経済的には子どもの数は少なくなる。

ということで、少子化の原因は、どうみたって女の高学歴化、もしくは女の近代化の帰結だ。

でもってですねーーこれ、すっごい世界史の大転換なんだよね。

そういう時代は人類史上初めてだからさ。

と、1980年代にソ連崩壊を予言し、21世紀早々にEUの崩壊を断言したエマニュエル・トッドさんは言っている。

少子化といっても、人工知能が労働現場に採用されていくのだから、雇用が収縮するのだから、人口なんて減っていい。

子どもがいっぱい生まれても、その子たちはどうやって食っていくのか。

私の友人で、非常に優秀な独身の男性がいるが、なんで独身かというと、その友人に言わせると、その理由は「僕の人生を支えることを通して、社会に貢献する道を選べない馬鹿な女が多いから」である。

こういう男性は、結婚相手として、いかに条件が良くても、高身長、高収入、高学歴でも、結婚相手はゲットできない。

いるとしたら、カネ目当ての女だけだ。男を生活費獲得の道具とか浪費の道具と思う女だけだ。

女にしてみれば、男の人生を支えることを通して社会に貢献するなんて、なんで、そんなこと私がしないとあかんか?である。

他人である男が、いかに優秀であろうが社会的有効性が高かろうが、しょせんは他人のことである。

自分には全く関係ない。

自分が楽しく幸せで充実していればいいのであって、他人のことなんか知らん。

まして、社会貢献なんか知ったことではない。

男は、そもそも他人は、私の人生の邪魔さえしなければ関わってもいいけど、邪魔するならば消えろ、死ね。

これが女の本音である。

いい悪いの問題ではない。

これが本音なんだから、しかたない。

と、ここまで女がフツーに自然に思うようになって疑いもしないし、とりたて言語化も意識もしない時代はすでに始まって久しい。

こーいうふうに思ってる女は、自分のことを「フェミニスト」とは思っていない。

ましてや、自分のことを「女性解放論者」なんて思ってもいない。

「ウーマン・リブ」って何だ?

女性用のリブ編みタートルネックのセーターのことか?

である。

というわけで、「フェミニズム」という言葉が消滅した現代こそ、本格的にフェミニズムの時代なのだ。

そして、未来はもっと女の時代になる。

なぜならば、現代や未来は、戦争もハイテクとなり、人工知能はもっと普及するので、男でないとできないことがなくなっていく。

生物として、女の方が男より安定しているので、自殺率も女の方が低い。

おそらく「引きこもり」とか「うつ病」とか「ニート」とか「自閉症」とか「発達障害」とかの率も低いだろう。

子どもの頃から、「壊れちゃってる」のは女よりも男の方が多い。

つまり、普通に就職し社会生活にしろ私生活にしろ穏当にクリアできるのは、女の方が多くなる。

これねえ、当たり前のことに思えるでしょうが、すごいことだ。

歴史上初めて、女は男を必要としなくなりつつある。

自分の人生の充実に寄与してくれる男以外は必要ない。

気にもならん。存在しない。

私が「女性解放」とか「ウーマン・リブ」とかを意識するようになったのは高校時代の1970年代初頭の頃で、1980年代に1990年代半ばまでは、まるまる硬派のフェミニストだった。

1990年代半ば以降は、もう男も女もないわ、頭のいい奴の話は聴くが、そうじゃないなら、どうでもいいとなった。

フェミニストでもろくでもない女もいるし、伝統的女でも聡明な人はいる。

性差別的男でも構わん。優秀ならば話を聴こう。

私が欲しいのは情報だ。人間関係じゃない。

そして、2016年。

今や、女性たちは自分たちをフェミニストとして意識することなく、普通にフェミニストだ。

電通の新入社員の美人東大出女性の過労死というのも、私には深い感慨がある。

女が男並みに残業を強いられ、過労死するのだ。

ここまで来たのだ。

女も男もないではないか。

素晴らしいと言えば素晴らしいのだ。

それが、女にとって幸せかどうか、旧女性より幸せかどうかという問題は、どうでもいいんである。

歴史はもとに戻らない。

前に進むのみだ。

女が生活のためにのみ、食べるためにのみ男を必要とする時代が終わったということは、すごいことなんである。

これは、ダイナミックに人間社会を変える。

男に対して女を平等に扱え、尊重せよと求めても無駄だ。

既得権のある人間が、既得権を手放すはずはない。

しかし、すでに女は「あんたの既得権 なんか知らんわ。あんたなんかに興味はない。私の人生の充実と快楽に寄与できない男なんか知らん」と思っている。

性的快楽獲得装置以外の男や 、面白い友人以外の男や、有利な生活共同体構築仲間の男以外の男なんか知らん。

最近の女性雑誌からは、「男に好かれる方法」的な特集は消えつつある。

今や 、女にとっては、自分の人生を充実させる情報とカネが重要である。

ファッションも、あくまでも自分自身の精神衛生のためである。仕事での士気を高めるためである。

いやあ〜人類史上未曾有の時代は、すでに始まっている。

それに気がついていないのは、とうの女だったりする。

女が変われば男が変わる。社会が変わる。

イヴェント,event—自分自身からの逃走は甘美だ

本日は11月15日火曜日。

私は、まだくたびれている。

明日までに、3学期(私の職場は4学期制)末試験問題(案)をインターネットのWebClassというプログラムで作成しないといけないのに、まだ呆然としている。

還暦過ぎて、組織でフルに働けるのは、よほどタフな人よね〜

やっぱり、普通以下の体力の私は、フリーランスになるしかないね〜

ところで、Twitterを見ていると、うちの学生の書き込みを眺めていると、大学祭が終わったばかりだから、大学祭実行委員会のメンバーが多く書き込んでいる。

みんなでやり遂げた大学祭への感動について、生き生きと書かれている。

友人先輩後輩たちとともに大学に泊まり込んで準備した高揚と興奮が書かれている。

今年度の1年生には、非常に明るくノリがいい学生が多い。

で、例年になく多くの1年生が大学祭実行委員会に参加した。

やっぱさあ、ああいうもんには参加したほうが面白いよ〜〜

わかるわあ……

私も、高校の文化祭や、大学祭には積極的に参加した方だからなあ。

高校の文化祭では、新聞部だったから、調べたことをポスターにして壁に貼りまくっていた。なにを調べたのか覚えてないけど。

体育祭では応援団やった。三三七拍子やってた。

ガッキーの映画『フレフレ少女』みたいな本格的なものではないけど。

模擬店は高校でも大学でもやった。ウエイトレスさん、ウエイトレスさん。

大学では美術部にもいたから、自分の描いたイラストを色紙やパネルにして売ってた。

買ってくれる奇特な方々がいましたです。

黒い厚紙に絵を描いて、切り抜いて、そこに色とりどりにセロファン紙を貼り付けて、学食の窓を飾ったり。ステンドグラスのつもり。

まあ、チョコマカドタバタやっていた。

ふつーに「お祭り野郎」だった。

イヴェント、行事ってのは、準備が面倒だけれども、自分と他人がひとつの目的に向かって一致協力して動くってことが、すっごく嬉しい んだよね。

世紀の大傑作『シン・ゴジラ』だって、巨大生物駆除という共通の目標のために官民が一体となって協力するというのが、いいわけでさ。

私は自分が孤独症だと知っていたので、独りでいるのが気楽で好きだとわかっていたので、逆説的にイヴェントに関わってきた。

目的が明確ならば、他人と関わることができる!!

退屈極まりない世間話も、目的を達成するためのコミュニケーションだと割り切れば、苦痛ではない。

大学院生のときは、新歓コンパに送別会は当然のこと、教授の退職記念パーティだの、出版記念祝賀会だの、還暦記念パーティだの、叙勲記念お食事会だの、先輩の留学歓送会だの、ゼミ旅行だの、女子会だの、積極的に企画して幹事をやった。

それはなぜかというと、大学院生活が私には苦痛だったからだ。

強烈に退屈だったからだ。

イヴェントの企画に幹事というのは、非社交的な孤独症の人間に向いている。

社交的な人間は自分が楽しむ方が先に立ってしまうが、あくまでも自分が中心になるが、非社交的で孤独症の人間は、幹事の職務に集中するから。

この癖が抜けずに、就職してからも、この種のイヴェントは、どんどん企画し幹事をやった。

勤務先の大学で、講演会や学会を開催するようなイヴェントにおいて裏方をきっちり務めることは苦にならなかった。

職務であり義務なら、話したくもない人間とでも話せる。

恩師の教授の還暦記念祝賀会のときに、不機嫌極まりない顔した別の教授(キモい奴)にいくらでもヨイショできた。

そいつの発散する邪気で祝賀会を穢されては、かなわんわ。

名古屋の女子大短大部勤務時代にはゼミ生による「英語朗読劇」を公立の小劇場を借りて上演した。

今の勤務先において、「英語プレゼンテイション・コンテスト」を開催したのも、まあ若い頃からの「幹事引き受け癖」が出たんだな。

何もしたくない怠惰な人間が、社会と関わるためには、他人と関わるためには、幹事とか裏方とか引き受けるのが1番いい。

独り暮らしであった大学の恩師が亡くなったときは、いろいろ電話しまくり弔問客と弔問電報と献花を集めまくった。

おかげで、自分の親の葬式準備にも粛々と対処できた。

ほんとは自分の結婚式や披露宴も、自分が司会して仕切りたかったぐらいだ。

自分の葬式も自分で仕切ることができるといいのになあ。

というわけで、イヴェント=行事は、孤独な人間が多くの他人と触れ合わざるをえない機会となり、自分の孤独を忘れ、自分の人生を直視するきつい作業から降りて、行事の進行と効果のみに心を集中できる機会となるという点において、ありがたいんである。

うちの学生さんたちも、大学祭が終わり、今頃はあらためて自分自身と、自分の生活という現実を見つめないといけなくなり、寂しいだろうなあ。

で、しばし、その空虚と孤独を忘れるために、飲み会なんか企画するんだろうなあ。

今の時代は、イヴェントの時代。

学生たちは、やたらと飲み会を企画して騒ぐ。

家庭でも、ただただ家族が仲良く暮らしているのではなく、やたらと家族イヴェントをやりたがる。

みな、ほんとうは自分からの逃走だ。

現実の自分自身の人生を見つめることからの回避活動だ。

集団主義とか集団行動の肝は、自分からの逃走だ。

リアリティからの逃走だ。

それぐらいに、人は孤独への耐性が低くなっている。

自分の人生というリアリティから目を背けたがっている。

それを可能にする装置は、エンターテインメントとかリクリエイション活動とかいう名称で、現代には事欠かない。

私の場合は、イヴェントに関与し、責任を持つのは、「孤独症の自分を社会適応させるための、人間に他人に慣れるためのヴォランティア活動」であった。

そのつもりだった。

でも、ひょっとしたら、私も自分自身から逃げていたのかもしれないね〜〜♫♫♬

怒涛の1週間が終わった、消耗した、眠った!

本日は11月14日月曜日だ。

怒涛の過労の1週間が過ぎた。

アメリカ大統領選では、私のヘボ占いがあたって、トランプさんが当選した。

ジョージ・ソロスさんとこが作った集票機械を駆使して、ヒラリーさん勝利に向けて不正選挙をセッセとした(はずな)のに、トランプさんが勝った。

ほんとは、トランプさんの獲得した票はもっと多かったかもしれない。

アメリカ人と結婚して長くアメリカに住むFacebook友だちの女性は、ご主人ともどもトランプ支持であった。

が、居住しているのはニューヨーク市であり、ヒラリーさん支持者が多い。

トランプさん支持者たちは、「隠れトランプ派」として沈黙を守ることを余儀なくされてきたそーだ。

で、結果が出た……

もう〜〜トランプさん当選後の近隣のヒラリーさん支持者の荒れようが酷いそーだ。

被害者意識でギャアギャアキャアキャア騒いでいるそーだ。

「民主主義は死んだ!!」と騒いでいるそーだ。

40歳過ぎて学生で、ご主人はフリーランスで、それでも子どもだけは4人(実子2名、養子2名)もいる女性は、共和党政権になったらオバマケアがなくなって、医療保険料の負担が多くなると嘆いているそーだ。

奥さんも働くしかないよ。奨学金(学生ローン)でしょうもないこと学んでも、奨学金返済借金が増えるだけだ。子どもたちの学費はどうするつもりなんだ。

自分の子ども2人でさえ育てられるかおぼつかない無職の女が、甲斐性のない亭主しかいない女が、なんで養子をふたりとってるのか、意味不明。

偽善も極まれり、だ。

教会の神父も嘆いているそーだ。

まあ、神父なんてのは特にそーだろな。

他人の献金で食ってきたんだから。

みんな寄生虫気質の人々やね。

誰が大統領になっても、心は無頼で、自分で自力で生きて行く。

これが庶民の気概ではないか。

それがアメリカの建国の精神だ。

国に餌をもらって生きて行くのは、貴族か寄生虫のやること。

いつのまにか、アメリカ人の多くも「国畜」志向になってしまった。ヨーロッパ化といいますか、リベラル化といいますか、奴隷道徳に洗脳されたといいますか。

だもんだから、綺麗事ばかり言い募りながら、立場を利用しながら蓄財に励んでいた優等生ぶりっこの政治家やメディアに騙される人々が多くなっていたようだ。

いったい、どうやって、その無力感、依存性は育まれるのか?

政治家に何ができるというのか?

税金を徴収して変な不均等な配分をすることぐらいしかできんよ。

それでも、そーいう汚れ仕事をしてくれる人間は必要なのだ。

庶民は、そんな暇はないからね。

私はといえば、11月9日はアメリカ大統領選挙速報をチェックしつつ、11月12日開催の福山市立大学大学祭「第5回英語プレゼンテイション・コンテスト」参戦者学生の発表原稿の添削をしていた。

日本の普通の大学生が「英作文」なんて20年早い。

きちんとした英文を真似て書くしかない。

日本人丸出しの発想で英文を捏造されても困る。

英語に見えるけれども、英語じゃない。

1年ぐらい留学して書ける英文は、友人相手には問題なく送れる程度のE-メイル文だ。

留学先で親切に英文を添削してくれる教師に出会うとしたら、それは、まだ添削できる英文を書いてるからだ。

添削ではなく全部を書きなおさなければならない場合は、もう捨て置かれる。

あたりまえだ。

なんで、安月給の語学教師がそこまで脳足りんの留学生に親身にならねばいけないか。

だいたい、語学留学なんてもの、そのものが頭がおかしい。

英語そのものならば、日本でできるんだから。

日本で英語をきちんと勉強しなかった人間が、なんでアメリカやカナダに行って本気で勉強するんよ。

したがって、「語学留学」したけど、「語学留学」したからこそ、英文もどきの無茶苦茶なアルファベット並列文を書いて、英文を書いたつもりの日本人は多い。

私は、もう、つくづく、学生の英作文の添削にくたびれた。

それが「英語の先生」の仕事であるので、長年やってきたが、もういい。

くたびれた。

英語風アルファベット羅列文に飽きた。

英会話なんぞというものは、テキトーにしゃべり散らしていればいい。

「世間話」なんて文法なんかどうでもいいし、散漫でもいい。

アメリカの田舎のオッチャンと「異文化コミュニケーション」するのならば、それでいい。

でも、プレゼンテイションは、英会話とは違う。

何を伝えたいのか明確になってないと困る。

伝わりやすいよう伝えることを組み立てていないと困る。

そうしなさいよと、参戦学生たちを追い込むのは、しんどい。

学生さんもしんどいであろうが、教員もしんどいよん。

「いったい、何をあなたは言いたいの?」と質問されるだけで、学生はビビる。

自分が言いたいことは、親や教師や他人が推量してくれるものと暗黙の期待をして育ってきた子たちだもの。

言いたいことがないなら無駄口たたかず黙ってろ。

言いたいことがあるなら、わかるように話せ。

わかるように話さなければ、わかってもらえない。

他人にわかるように話せない人間は、「誰もわかってくれない!」と泣いてろ。

表現力のない人間は無視され足蹴にされて当然だ。

表現力のない人間を理解する義務など、誰にもない。

なんて、そんなこと誰にも言われたことないんだよな、今まで。

日本語でさえ「言いたいことがあるなら、わかるように話せ。わかるように話もしないで、わかってくれないと騒ぐな!」なんて、他人に要求されたことがないんだよな。

日本に生まれて普通に育つと、散漫なこと言っていても人生が過ぎるからね。

そーいう生き方でいいと思うなら、英語プレゼンテイションなんかしなくていいよ。

ドタバタドタバタといろいろあって、前日の予行演習は午前1時まで続いた。

で、当日のコンテストでは、参戦学生たちはめでたく最高の自分を全開した。

みんな、カッコ良かった!

ユーモアも交えて生き生きとプレゼンできた!!

本番がもっとも輝いていた!!

去年より、プレゼンテイションの質は上がったと思う。

まあ、私が満足したという意味ではないけれども。

私のイメージには合致していないコンテストではあったけれども。

最初の2012年のときは、私も遠慮して、あまりダメだししなかったけれども、いい加減に「お子ちゃまのお守り」やっているのも嫌になり、2013年からは厳しくなった。

終わったときの安堵感……

私の大学教員としての最後の「英語プレゼンテイション・コンテスト」が終わった。

翌日の昨日は爆睡しましたです。

さてさて、もうすぐスーパームーンだ。

ニュージーランドでは震度7.8の地震だ。

2016年が無事に終わるとは思えない。

2017年は、さらに激動だろう。

みなさま、御油断なく。

私も、もうちょっと水を備蓄しておくかな。

重い水を運んでくださるクロネコヤマトや佐川急便の方々、申し訳ないです……

すべての教育機関と企業に長期研修休暇が制度化される日も来るよ

本日は11月6日日曜日。

晩秋の日曜日っていいね。

大学教員というのは、まともな大学に勤務していると、研究休暇というか研修期間が半年なり1年間ほど与えられる。

無給でもいいなら2年や3年ぐらいなら休職して留学して学位をとることが制度的に許可されている大学さえある。

私も、前の勤務先の桃山学院大学勤務時代には、2000年10月から2001年9月いっぱいと、2008年度まるまる研究休暇をいただいた。

つまり、15年間の勤務の間の2年間は労働から免除されたことになる。長い有給休暇。

あれはほんとうに助かった。

もう日々の労働でヘトヘトで、このまま行くと大病になる〜〜癌になる〜〜心が病むうう〜〜と追い詰められた気分でいても、再来年は、もしくは来年は研究休暇だ……と思えば、頑張れたものだ。

アメリカの軍隊では、戦場に行った兵士は1年後には必ず休暇が取れる。

それといっしょ。

どんな激戦地でも、ちゃんとヘリコプターが兵士を迎えに来る。

1年後には必ず。

だから兵士は狂わずに自殺せずに1年を耐えることができる。

それといっしょ。

桃山学院大学では、いつ研究休暇が取れるかは2年前に審査で決定された。

これが、またいい策なんよ。

研究休暇が2年先にもらえると思えば、2年間頑張れるから。

研究休暇をもらえたことについては勤務先に感謝するんで、「愛社精神」が育まれる。

半年なり1年間の研究休暇期間に、たっぷり休養できる。

いっぱい充電できる。

どんどん勉強できる。

鋭気を養える。

正気になれる。

研究休暇終了後は、もっと真面目に働こうと思える。

怒涛の労働現場に元気に戻ることができる。

あの研究休暇期間は、大学教員になれたこと、そういう制度がきちんとある大学に採用されたことを、心から感謝した日々だった。

桃山学院大学に勤務できたことは、ほんとにラッキーだった。

あのまま勤務していれば、また1年間くらいの研究休暇を2016年度くらいには、取れたかもしれない。

ただし、それだけの好条件の職場だから甘くはないよ。

仕事は多かった。労働はきつかった。

40代から50代は、ほんとうに忙しかった。

体力的に気力的に、あの忙しさを継続できそうになかったので、2011年に福山市立大学に来たんだよね。

私は、サボって給料もらうには気が弱すぎるし、職場に申し訳ないと思うタチだからさあ。

ちなみに、今の勤務先の福山市立大学には、この制度はない。

有給の研究休暇制度を導入しようと市役所と折衝する最高管理職はいない。

今年の夏、まだ制度はできていないけれども、海外研修制度ができあがる突破口になるかもと思い、休職して海外調査に行きたいと申し出た同僚がいた。

でも彼女は退職せざるをえなくなった。

市役所の規定集では、実は、ちゃんと長期研修が規定上では許可されている。

希望者は1ヶ月前に勤務先に申し出れば、最高3年までは無給ではあっても留学もできるし海外調査もできると明記されている。

この規定があることも知らずに、ドタバタしてしまった教授会と管理職たち。

まさか、何事にも旧弊な福山市に、そんな規定があったとは。

もっとも、誰もその制度を利用したことがなかったらしいけれども。

私も知らなかったけどさ。

だって、もう辞めちゃうんだから、福山市の規定集なんか読むはずない。

ともかく、この件について、教授会は大揉めに揉めた。

ゼミ生を放置するのかとか、それでは学生の不利益になるとか、非常勤講師を探すのが大変だとか、年度途中に休職など言語道断とか、(私からすれば)実に瑣末な理由で、やいのやいのと彼女は責められた。

イギリス人教員など、「教育に勤しむべき身なのに、なぜイラクに行きたいのか?それでは福山市に貢献できないではないか?」と言った。

研究者でもないし論文なんか書いたこともない日本語もできない単なる英会話のセンセーなんかを大学に正規雇用するなよ、福山市!

どーいう見識だ?

いったいお前が福山市に何を貢献してきたのか!? よく言うわ。

事実として、研修自体は、福山市の規定集で認められている。

裁判を起こせば、大学の負けのケースだ。

しかし、彼女はしのごの裁判闘争をするのも時間とエネルギーの無駄だと、自分がしたい研究調査をしたいということでサッサと退職願いを出して、危険区域のイラクに発った。

残念なことだ。優秀な人なのに。

人材に逃げられましたわ、あそこ。

それにしても、不思議な大学だ。

実に不思議な教授会だ。

若い同僚たちこそ、研修とか研究休暇の制度ができれば、利益を得られる。

なのに若い同僚たちの多くが、彼女の休職に反対した。

休職してイラクに調査と復興支援兼ねて行きたいという同僚の希望を蹴飛ばした。

彼女を支持した同僚は多勢に無勢であった。

多数決により、彼女の休職は却下された。

彼女の休職に反対した同僚たちは、日々の労働がきつく、賃金は低く、研究条件は悪く、疲労が蓄積しているので、ただただ「自分だけ好きなことしやがって……」の気分になってしまったのですかねえ?

一丸となって彼女の背中を押して、 研究休暇を実現させるべきだったのに。

そこから制度化の可能性が生まれたのに。

そうしたら、自分だって研究休暇や海外研修ができるのに。

自分で自分の首を絞めたのが、わかってないわ。

はっきり言って、あいつら馬鹿だ。イモだ。ゴジラに潰されろ。

大学教員は、何にも邪魔されずに勉強だけに集中できる時期を確保されないと、教育サービス労働と大学運営の雑務に忙殺され、疲弊する。

ついには、ただの教育サービス機関のサラリーマンとなる。

そんな人間が、若い人の相手をしても、しかたないんだよ。

疲れて、ルーティンのことしかできなくなった教員なんか、若い人の邪魔にしかならんよ。

大学がつまらんってことは、授業や講義がつまらんってこと。

つまり教員がつまらんってことなんだから。

まあ、大学のふりしてるだけのところだから、そんなこと気にしなくてもいいというご意見もあるようですが……

それにしてもねえ……教授会の決定であれ、最高管理職の学長がOK出せば、彼女は休職してイラクに行けたのにねえ……

今の大学法においては、学長は教授会の決定に縛られない。

学長次第だ。

だけれども、教授会の決定を優先させた学長。

まっことに民主的ですな。

立派ですね。はい。

福山市立大学のように、有給の研究休暇制度がない大学も少なくない。

最近は、多くなっているらしい。

どこの大学も財政難だから、毎年1学部数人のスタッフに有給の研究休暇を享受させる余裕なんてないからね。

それでも若い人は、必死で業績を作って 、研究休暇制度が整った大学に逃げるべきだ。

でないと、あなた、脳が死にますよ。

と、ここまで書くと、「大学教員はお気楽なもんだな。そんな長い有給休暇がもらえて」とお思いになる方も多いでしょう。

あのねえ、僻んで、他人を自分の境遇と同じくらいに低い待遇に引っ張っても、益はないの。

みんなで貧乏に疲れきっても、しかたないの。

嫉妬しても、しかたないの。

ほんとうは、どんな教育機関でも企業でも、ある程度の期間を働いたメンバーは、3ヶ月とか半年とか1年間ほどの再学習研修有給休暇をとるべき!!

小学校の先生も、中学校の先生も、高校の先生も!!

大企業の社員も、中小企業の社員も!!

病院の医師も看護師も技師も!!

ただし、まあ、国会議員と役人は、高級公務員ですから、公僕ですから、休暇なしに働いていただきましょう。ほほほ。

何も生産できない職種だから、長期有給休暇なんかなくて、いいじゃないの。

あ、皇室の方々も超高級国家公務員ですね……

お疲れさまです。よろしくお願いいたします。

国防に従事する自衛隊の方々には、国家公務員でも、ほんとに働いてくださるので、休暇は特に手厚く!!

と同時に、すべての教育機関と企業と医療福祉施設の従業員に有給の長期研修休暇を!

8年に1度とか、10年に1度くらいは!

ほんとは5年に1度あれば理想的!

贅沢で非現実的?

いやあ、きっとそうなるって。

必ずそうなる。

あと何年かかるかな。

25年先ぐらいかな。

今は非常識で非現実的だと思えることが、当たり前のことになる時代は今までだって来たし、これからも来る。

激増しているという「うつ病」なんて、要するに原因は疲労の蓄積なんだからさあ。

あの電通の東大出の美人新入社員だって、彼女の上司たちが疲れ切っていなかったら、電通に殺されずにすんだのに。

彼女の上司だって、ちゃんと有給の長期研修期間をもらって休養できていたら、正気に返ることができて、新入社員にセクハラやパワハラやモラハラをしなかっただろうに。

アイドルは、どうでもいいようで大事である

本日は11月3日で国民の休日である。

明治天皇の誕生日である。

暗殺された孝明天皇の誕生日も休みにして。

持統天皇の誕生日も休みにして。

本日は微熱で風邪引いてる感じ。

急に寒くなりました。

ヒートテック、ヒートテック!

ここで唐突に思い出す。

そう言えば、私は前の勤務先の研究室の壁に設置されていた白板に、ガッキー(新垣結衣ちゃん)がグリコのポッキーのCMに出てた頃のポスターを貼っていたことを。

2007年くらいのことかなあ。

「なんて爽やかな目の綺麗な感じのいい子かしらん!」と思って貼りつけたんだ。

で、デスクワークしながら、顔を挙げて、ガッキーの顔を拝んで、元気をもらって、「ムフフ」と喜んでいたことを。

あの頃は、私は右目が白内障で、鈍臭くよく転倒してた。

眼鏡かけていても教室の後ろが見えなくて、きつい時期だった。

担当クラスが4っつも開講されてる日もあり、いつもくたびれていた。

でも、ガッキーは、いつでも私の研究室で明るく微笑んでいた。

ただ、職場にアイドルのポスターは、やはり不謹慎かなと思って、しばらくしてからポスターは撤去したけどね。

それにしても、アイドルは偉大だ。

よくアイドルのことを、ただ容姿が優れているだけじゃないかと人は言います。

でもさ。

容姿端麗だから、アイドルになれるわけではない。

「圧倒的に感じが良い」

これが、アイドルの絶対的条件。

圧倒的に感じが良い。

つっこむ気になれない感じの良さ。

意地悪する気になれない感じの良さ。

これは、非常に得難い資質なんよ。

清潔感があって、自然に自然に可愛らしくないとダメ。

ほんとに人柄がいい感じでないとダメ。

美人でも冷たくて意地悪な感じはダメ。

小利口で打算的な感じは絶対にダメ。

いい子ぶりっ子ダメ。

下品なのも絶対にダメ。

だけど上品が嫌味に目立つのもダメ。

美男子でもスケベな感じはダメ。

無神経な感じはダメ。

気障なのもダメ。

無知で頭が悪い感じなのもダメ。

ナルシスト丸出しもダメ。

狡猾さが透けて見えるのもダメ。

ベラベラしょうもないこと軽薄に喋って煩いのもダメ。

だけど国語能力がなくて無口なのも暗くてダメ。

「アイドル」は、非常に微妙なバランスを保持していなければならないんである。

アイドルは、天才しかなれないんである。

「圧倒的な感じの良さ」を資質として持つ天才しか、なれないんである。

努力したから、なれるもんじゃない。

だから天才。

「アイドル」という呼称は、今では若い芸能人に対して、やたら使われる傾向にある。

でも、ほんとうに「アイドル」にふさわしい「圧倒的な感じの良さ」を実現しているアイドルは、滅多にいない。

ジャニーズ事務所にだって、いないでしょ?

あの芸能事務所は、つまんない偽アイドルを大量に日本社会に流出させたんで、頭の緩い類の日本人の男の子たちは、すっかり悪影響を受けてしまった。

気持ちの悪い男の子たちが日本の男の子の普通になってしまった。

凛々しい美少年は、どこに行ったの?

ほんとのアイドルはね、鬱屈があっても、そのアイドルを見ると、なんか頬っぺたが緩んでしまう、そんな存在。

歩いて踊る鎮痛剤と言いますか、(かるくて副作用のない)麻酔薬と言いますか。

存在そのものが、微笑ましい、そんな存在。

存在するだけで、多くの人々を活性化できる、そんな存在。

習得した特別な芸や技術があるわけでもない。

歌が上手いわけでも踊りや演技が達者なわけでもない。

だけれども、その存在感たるや、すごいのである。

でもって、そのアイドルの女の子ひとりが、もしくはアイドル・グループひとつが、スタッフとかの周りの多くの大人たちとその家族の生計を支える。食わせる。

健気だ。無自覚に健気だ。

そういう見目麗しい圧倒的に感じの良い天才アイドルの影響力はすごいよ。

ガッキー(新垣結衣)の主演するTVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」をリアルタイムで視聴して、見逃し配信で2回視聴して、私は思った。

このドラマに影響されて、若い女の子は家事をきちんとしよう、料理や掃除をきちんとしようと、あらためて思うだろうって。そうでないとカッコ悪いんだって、思うだろうって。

だけど、同時に、自分の鬱屈はちゃんと言語化して把握して、きちんと他人に伝えることができる女性でいようと思うだろうって。そうでないとカッコ悪いんだって、思うだろうって。

同時に、女とみれば呼び捨てにしてタダ働きさせて利用するような甘えのお化けみたいなダメ男を相手にせずに、きちんと家計にも責任を持ち相談に乗り、ご飯を食べたら「ご馳走様でした。美味しかった」と言える男じゃないと相手にしちゃいけないって、思うだろうって。そうでないとカッコ悪いんだって、思うだろうって。

良きにつけ悪しきにつけ、アイドルの力はあなどれない。

教育効果がある。

歩く啓蒙である。

電通もさあ、日本人クルクルパー愚民化に勤しんでいないでさあ、 美人の東大出の社員を過労で殺していないでさあ、日本人を活性化させるような、日本人の趣味を高め、日本人をチャーミングにすることに貢献するようなアイドルを探せばいいのに。

やっぱり、真のアイドルはidolだね。

文字どおり偶像。

神の似姿なんだ。

ガッキーは現代日本の真性アイドルで女神です。

天照大神の依り代類魂です。

素戔嗚尊の依り代類魂はいないの?

そーいうのは、芸能界には来ないんだよね。

航空自衛隊で戦闘機に乗っているのかもね。

南極で気象調査してるのかもね。

大量に食べても糖尿病にならないように、お米の品質改良してるのかもね。