[36] 正気

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本日は2016311日の金曜日だ。

 5年前の2011311日金曜日は寒い日だった。私にとっては非常に忙しい日だった。

大阪府和泉市に位置する桃山学院大学の近くに借りていたマンションの部屋の引っ越しの日だった。15年間働いた大学を辞める日が近づいていた。

 20114月開校の福山市立大学というところに私は移るのだった。

 だから、福山市にすでに2月には住居を確保していた。

 引っ越し業者のトラックにすべてを積み込んでもらった。トラックを見送ったのが、午後1時頃。

 それから長年住み慣れた大阪の住まいの掃除をすませた。いろいろ汚れていた。

 マンションを後にしたのが午後2時頃。

 和泉中央駅の和食店で遅めのランチをとった。お腹が空いていた。熱い鍋焼きうどんを食べた。大阪のうどんは美味しいのだ。

 大阪府和泉市に別れを告げて、夫の運転する自動車で広島県福山市に向かったのが午後3時頃。

 福山市は遠かった。高速道路のインターから福山市の市街地に入るのに時間がかかった。なんで地方で渋滞するんだ??

 やっと福山市内のホテルにチェックインして、テレビをつけたのが午後7時半近く。

 それで東北に大地震と津波が起きたのを知った。津波の映像が凄まじかった。

 そうか、神戸のパーキング・エリアの売店のテレビの前に人だかりがあったのは、これのせいであったのか!

 夜の8時頃に福山駅近辺の和食店で遅い夕食をとった。

 Twitterを確認したら、東京の帰宅難民の人たちに宿泊場所やトイレを提供する情報でいっぱいだった。

 涙が出た。日本人がみんなで支え合っていた。

 翌日は、福山に借りた部屋に大阪から運び込まれた家財道具を入れる作業があった。くたびれまくった。

 夜にテレビのニュースで福島県の東京電力原子力発電所の事故を知った。仰天した。

 原発の事故おおおお~~~~!!!????

なに、それえええ???

日本の原発は、旧ソ連の原発とは違うんでしょ??そうじゃなかったの??

 それからは落ち着かない不安な日々が続いた。

 夜が眠れなかった。

 インターネットで情報を漁ったが、原子力の知識も放射能の知識もない私には何が何だかサッパリわからなかった。

 西日本にいても放射能汚染で死ぬかもしれないという恐怖があった。

 でも、放射能に汚染されると、どうやって死ぬんだろう?

 まったく見当も想像もつかなかった。

 新しい職場に新しい住居でドタバタしているときに、なんで原発事故なんだ。どーすりゃいいの?

 と、私は不安でいっぱいだった。

ストレスで花粉症の症状がひどくなり、顔はアトピー症状でボコボコニに赤く腫れた。かゆみのために掻き毟った目も充血してしまった。

 けれども、けれども、私の不安とはうらはらに、広島県福山市は実にのんびりしていた。

 新しい職場であるところの福山市立大学の人々の話題に、原発事故のことも放射能汚染のことも出なかった。

 学長が、「この未曾有の大惨事から復興する日本を支える人材を、この新しい大学で育てましょう!」と力強く全教職員に檄を飛ばすわけでもなかった。

東日本大震災は遠い遠い別世界の出来事のようであった。

 あれはあれで、プチパニック状態だった私にいい影響を与えたのかもしれない。

 しかし、思えば、あのときからの違和感であった。

 「街がキャンパス」がキャッチコピーの大学だ。福山市以外のことは、どうでもよかったのだろう。

 ともあれ、2011311日と、それからの日々は、日本にとって忘れられないものとなった。

 同時に、私個人にとっても、それからの日々は忘れられないものとなった。

 なんとなれば、日本にとっても、私個人にとっても、実に残念な日々が続いたから。

 日本どうなるかわからない。安全だと思っていたのに、安全じゃない。

 きちんとしていないだろうと疑いつつも、無自覚にも、きちんとしていると期待していたけれども、やっぱり、きちんとなんかしていなかった。

 政府も役人も電力会社も。エリートのくせに、頭いいはずなのに何をしていたんだろう??

 やっぱり、自分にできることは自分でやっておかなくちゃ。他人を頼っちゃいけないんだ。

 私は、やたらと防災用備蓄用品を買い込み始めた。

 米や水や保存食料や簡易トイレに、寝袋にヘルメットに災害用ラジオに懐中電灯。

ということで、ドタバタとしていたあの頃。

 あれから5年。

 当時の落ち着かない不安な日々を静かに振り返ることができる今のありがたさ。

 日本は、いろいろあっても、ちゃんと存続している。

 私も、問題をいっぱい抱えながらも、なんとか生きている。

 不安な未来を想像しながら災害用備蓄に励むのも大事だけど、「今」「ここ」に生きていることを楽しもう、味わおうと思えるようになった。

 当時は何でもストックしておかないと!という不安で、シャンプー買うにしろ何個も買い込んでいた。トイレットペーパーも1年分は買い込んでいた。下着も何年分もストックした。まだ、あるよ、あのときに買い込んだ下着。

 インターネットに流れる「次は、何年何月に、どこそこで大地震が起きる!!」情報に踊らされて、この日は外出しないでおこう、もっと水の補充をしておこうと動いた。

 福山と名古屋の移動のときは、新幹線に閉じ込められる事態に備えて、リュックには必ず水と食料を入れた。

 今は、シャンプーがなくなれば「湯シャン」でいいと思えるようになった。風にサラサラなびく髪などなくても困らないと思うようになった。誰がババアの髪なんか気にするんだ。

 物などないならないで、なんとでもなる、と思うようになった。

 数日間ぐらい食わなくても死にはしないし、かえって健康にいいと思えるようになった。

 いろいろ怖がってもしかたない、想定しておくことは重要だけれども、何にしても迎え撃つ勇気だけあればいいと思うようになった。

 「今」「ここ」でやるべきことに集中して。無駄に心配することはないと思うようになった。

 いつ死ぬかわからないからこそ、「今」「ここ」を大事にするんだと思うようになった。

 死んだら死んだでいいじゃないか、大地震で瓦礫に埋もれて死体がバラバラになっても、津波で死んで海の向こうに引きずりこまれても、身元不明でも、死んだことすら不明でも、葬式の手間も死体を焼く手間も省けていいわ、と思うようになった。

 さてさて、これから私は福山での最後の1年を迎える。

 この最後の1年は、ゼミ生の卒論指導をきちんとしながら、福山の自宅と研究室の断捨離作業を粛々とする。同時に名古屋の自宅の断捨離もする。

 1996年に大阪の桃山学院大学に移って以来20年間にわたる二重生活、単身赴任生活を終わらせる作業をする。

 いっぱい捨てる。いっぱい処分する。これだけは残していこう、これだけは手元に置いておこうと思えるものを選択する。

 あの2011311日が日本に与えた影響というのは、これからより明確にされていくのだろう。5年間ぐらいでは測定できないような変化を東日本大震災と原発事故は日本に与えた。

 クルクルパーでのん気に非現実的に徹底的にいぎたなく世俗的に生きてきた日本人の多くが、自分たちの寄って立つ場所の不安定さや儚さを意識するようになった。

 少なくとも、私にとっては、あの日からの日々は、「死」を意識する日々となった。物事を見る視線が違ってきた。

 正気」になったと言うべきか。

 しかし、実のない労働の中で、その「正気」も濁り曖昧になりがちだった。

 これからは、「正気」を保持する。

 「今」と「ここ」を見つめつつ、「今」と「ここ」を愛しつつ、「正気」を生きていく。

私にあるのは、「今」と「ここ」だけなんだから。

 

 

 

 

 

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