本日は、2016年5月4日水曜日である。
今日は、「韓国テレビ連続ドラマ」について書く。
病気が判明してから、私は、しばし徹底的にサボって遊ぶことに決めたのだ。生活費獲得労働も最低限のことしかしないのだ。
私の場合、「遊ぶ」っていうのは、「物語」に耽溺するってことだ。
小説しかり。漫画読みしかり。映画しかり。テレビ連続ドラマしかり。今はGYAO!みたいに無料で視聴できる映像配信サーヴィスもある。韓国のPandoraみたいに前に放映された日本の連続ドラマを無料で公開しているサイトもある。
ただし数回分視聴して、すっごく気に入った韓国ドラマなんかだと20回分購入して視聴してしまうが。「アラン使道伝」と「運命のように君を愛している」は、そうやって観てしまった。
聞くところによると、韓国の連続TVドラマは、コマーシャルなしで1時間か45分ぶっ通しで、週に2回放映で20回で完結が普通だそうである。ドラマ作りに気合がはいってる。
ただし、アメリカのamazonに年に99ドル出して登録して、映画やアメリカの連続ドラマを見まくるまではしない。英語の聴き取りに必死になってしまって、「お遊び」にならない。
1953年2月1日は日本で初めてテレビ放送が始まった日である。その数日後に、私は生まれた。だから、私がテレビドラマとかの映像物語漬けになるのは、私の運命である。
ということで、去年の秋から日本や韓国やアメリカの連続ドラマを見まくっている。
で、あらためて気がついた。
日本と韓国とアメリカの連続テレビドラマを見ていて、物語力(物語によって視聴者を励まし教える力)に「感動する」のは韓国製が一番。
脚本の悪魔的面白さ、複雑な人間性に関する洞察や分析力の悪魔的鋭さや、俳優たちの悪魔的演技力に感嘆するのは、アメリカ製が一番。
アメリカのテレビ連続番組やハリウッド映画から学び、日本の状況に移植してリアルなドラマを形成する換骨奪胎(かんこつだったい)力、応用力については、日本が一番。特に日本が誇る文学である「漫画」を原作としたものは、すごい!!
無茶苦茶に単純化して言えば、韓国ドラマは、精神年齢30歳代前半である。若々しい30代前半である。
一方、アメリカのドラマの精神年齢は、いっさいの幻想を捨てたリアリズムに徹しようとする50代後半から60代である。日本の場合は、すれっからしになりかけているがまだまだ甘ったれた幻想を持っている浅はかな40代である。
今日は日本やアメリカの話はしない。韓国のドラマの話に限定。
30代前半という年齢は、勉強とか情報がある程度は蓄積されているし、技術力もそこそこ身についている。
同時に、30代前半というのは、「社会はどうあるべきか」「人間はどう生きるべきか」という理想を「ほんとうに」追求し始める年齢だ。
もっと若いと、社会の中で居場所を確保する闘争で忙しい。しかし、30歳を過ぎれば、その居場所獲得のための闘争のあらかたが終わり、もっと上位の段階に至る。
やっと、ほんとうの意味で「自分が社会の中で何ができるんだろうか?」と本気で考え始めるのが30代の前半だ。普通は、職業的使命感を持つようになるのは、この年代からだ。
韓国の連続テレビドラマの面白さは、この30代前半のまっとうな人間が持つ「若々しい真摯さ」にある。
韓国の連続テレビドラマには、どんなエンターテインメントにしろ、「人間はいかに生きるべきか」とか、「社会はどうあるべきか」という哲学がある。
韓国の連続テレビドラマには、「あるべき姿から逸脱して罪を犯した人間は裁かれねばならない。それ相応の償いをしなければならない」という因果応報的世界観がある。
韓国の連続テレビドラマには、「人の上に立つ人間には、それだけの責任と道徳性が要求される」という倫理観が強い。
だから、韓国の連続テレビドラマには、「復讐」のモチーフが多い。
なんで、復讐するかと言えば、「こんな人間は許せない!!」とか「こーいうことが起きる世の中はおかしい!!」とか「理不尽が通用してはいけない!!」という怒りがあるからだ。
正義が実現していないことへの怒りが、制作者側にあるからだ。視聴者(物語消費者)も、その怒りを共有している(に違いない)。
たとえば、日本で2008年に放映された「嵐」の大野くん主演の『魔王』http://www.so-netme.co.jp/adtv/DevilEmpress/ってのは、2007年放映の韓国の同じタイトルの連続ドラマのリメイクだ。ただし圧倒的に韓国のオリジナルの方がいい。作りが丁寧で音楽も脚本も俳優も圧倒的に韓国製のほうがいい。
物語内容は、高校内暴力で兄だか弟だかを殺された母子家庭の貧しい少年が成長して、自分の兄弟を殺害し母を自殺に追いやった不良少年たちと、その家族を12年後に破滅させていくというもの。
不良少年グループのリーダー格の少年の父親が大企業を経営する国会議員だか何だかで、その父親の圧力により、その殺人事件は正当防衛となり、不良少年たちは無罪になった。
主人公の貧しい少年は、ひき逃げ事故にあって死んだ友人と入れ替わり、名前を変え、別の人間として成長し、刻苦勉励して弁護士となる。
主人公の冷徹で頭脳明晰な弁護士の復讐は、階級闘争でもあるし、社会悪の是正の闘争でもある。
社会の指導的立場にある人間が財力と権力に任せて、息子の殺人事件を隠蔽(いんぺい)したことへの怒り。その権力者の息子であるところの殺人犯の少年は少年院にも送られず、あろうことかシレッと警察官となり正義の味方をやっているつもりでいることへの怒り。
しかし、殺人をしてしまったお坊ちゃんも、自分の犯したことに苦しみ続けてきたがゆえに、過度に仕事熱心な刑事になっている。お坊ちゃんらしからぬ小汚い格好で職務に邁進している。
ということで、登場人物たちが、真面目に苦しみ、憎み、あるべき社会の姿から遠い現実や、あるべき人間像から遠い自分自身に悩んでいる。
なんと若々しい! なんと理想主義的な! なんと文字通りの「建前」を信用していることか!
ちゃんと、まっとうな人間たちを描いているのが韓国の連続テレビドラマの魅力だ。
『魔王』は現代劇であるが、韓国ドラマは時代劇も質のいい作品が多い。特に、朝鮮時代の李王朝ものがよくドラマ化されている。
韓国の連続テレビドラマの時代考証が無茶苦茶であることは、よく知られている。歴史劇として観てはいけないファンタジーであることは、よく知られている。常識だ。
私が面白いなあと思うのは、そのような時代劇、王宮物に描かれる王様というのが、ちゃんと「民のことを考えた王」であろうと自己との葛藤、臣下との葛藤、王族たちとの葛藤に悩むところだ。
王様が、「善き王様」であろうと悩んでいる。
あたりまえ?
あたりまえですかね?
そんな日本の時代劇なんか私は見たことないぞ。
日本の歴史劇、時代劇において、民のことを考えた政治をしたいと思いつつ、外戚や臣下や王族や正室や側室との軋轢に悩む「ミカド」とか「上様」なんか見たことないぞ、私は。
日本の歴史劇、時代劇において、自分自身に国家の指導者の資質があるのかと悩む「ミカド」とか「上様」なんか見たことないぞ、私は。
つまり、時代考証も歴史も無視したファンタジーだと馬鹿にされる韓国朝鮮王朝もの時代劇にも、「社会はどうあるべきか」とか「指導者はどうあるべきか」とか「人間はどうあるべきか」という問題が描かれているのだ。
なんと若々しい! なんと理想主義的な!なんと文字通りの「建前」を信用していることか!
ナイーヴと言えばナイーヴである。青いと言えば青い。
人間の30歳代前半と言うのは、まだまだナイーヴであり、青くて理想主義的である。
私が、韓国の連続テレビドラマを愛するのは、30代前半の人間が持つ理想主義と若さと青さへの郷愁からだろうか。その真摯なエネルギーに照らされたいからだろうか。
それと、私が、韓国の連続テレビドラマを愛するのは、やっぱり美男美女が勢ぞろいだからだ。整形手術しまくりでいいよ。10年後20年後の後遺症なんか知らんわ。他人の顔だもん。私には関係ない。美しければいいんだよ。
韓国の連続テレビドラマは、若くて青くてロマンチックで理想主義的な30代前半なんだからさ、俳優さんも30代前半でストップしていなければならない。
整形しまくりでいいよ。私は、楽しく鑑賞させていただく。ありがとう、韓国の連続テレビドラマさん。カムサハムニダ~~~!!コマスニダ〜〜!!