[126] エリートはタフなもんだ

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本日は2017年1月29日日曜日である。

また、「最終講義」について書く。

私の福山市立大学での最終講義は2月2日木曜日の午後4時半から6時の間にさせていただきます。

この写真は、Facebook友だちの男性が作って下さった。

ありがとうございます〜〜〜

嬉しいです〜〜〜

まだ何も準備していないです。

すみません。

福山市立大学で働いていても、大講義室で講義したことはないから、させてくれと我儘を言った。

なので、同僚に迷惑をかけることになった。

木曜日の4時20分まで大講義室では教育学部の授業がある。

休憩時間の10分間で、アシスタントの女性は会場を設営しなくてはいけない。

ごめんなさい、ごめんなさい。

副学部長は、忙しいのに、来て挨拶しないといけない。

学部長は出張から帰ってこなくてはならない。

すみません。

「アメリカ文化論」の受講生は教室を移動しなくてはならない。

私のゼミ生も、嫌々ながら出席しなくてはならない。

私とチームを組んで英語科目を担当してきた特任教員さんも派遣講師さんたちも出席しなくてはならない。

申し訳ない、申し訳ない、申し訳ない。

私みたいなチンピラが一丁前に「最終講義」なんて厚かましい。

でもね、この6年間きつかったの。

けっこう辛かったの。

最後だけ、好きにさせてください。

すみません。

ところで、「最終講義」について書くと最初に書いたけれども、ここで書くのは自分の最終講義についてではない。

先日に聴いた2人の同僚の最終講義のうちのひとつについては、昨日に書いた。

「公共事業は結果がすべて!」というタイトルで。

今日は、もうひとりの同僚の最終講義について書く。

私は、この同僚からは、「エリートつーのは実にタフなもんだね」という生きたサンプルを見せてもらった。

この同僚は、才能豊かな建築家で都市計画の専門家である。

建築家の養成をする学科を持つ日本の最高学府のひとつで学んだ。

あのね、「建築士」は工学部出なの。

でも、「建築家」は芸術大学出なの。

同僚は「建築家」だ。

エリートである。

同じ建築に従事するといっても、工学部出の建築士はゼネコンに入社して使われる。

芸術大学出の建築家は自分で事務所を持つ。

まずは、若い建築家は、大きな建築設計事務所に入る。

この同僚は、非常に非常に高名な国際的に有名な建築家の事務所に採用された。

どれだけ優秀であったかわかる。

さらに、これまた有名な建築家の事務所に入って、数々の有名プロジェクトの一部を担った。

いくつもの大きな国際的プロジェクトに参加した。

国際コンペにもよく入賞した。

だから海外にもよく行く。

「自分のお金で海外に行ったことは一度もない。すべてクライエントが払った」そうである。

一泊何十万円もするドバイのホテルにも宿泊したことがある。

エリートである。

アメリカの誰もが知る超一流大学で設計デザイを学び学位も得た。

その大学のチャペルで(各国から来た)学友たちに祝福されて結婚式をした。

エリートである。

高名な建築家の優秀な右腕として、エリザベス女王に謁見した。

皇太子夫妻を案内して、自分が設計した大学の建築について「御進講」した。

エリートである。

エリートはタフである。

この同僚も実にタフだ。

スポーツマンでもある。

趣味も幅広い。

料理もお手の物で、釣りも好きである。

私より10歳ほど年上であるが、実に頑健であり、体調が悪そうな時などない。

容姿も絵に描いたようなダンディであり、若い頃は美男であったことが偲ばれる。

この同僚は、やろうと思えば、俳優としても行けたと思う。

映画やドラマに登場する「大学教授」とか「弁護士」とか「医者」にぴったりだ。

もちろん悪役だ。

アイン・ランドの『水源』に出てくるピーター・キーティングを思わせる。

この同僚の「最終講義」は、自分の華麗なるキャリアの紹介であった。

自分が設計した建物の写真もいっぱい紹介された。

設計はしたものの実際には建築はされなかった建物のデザイン画もいっぱい紹介された。

建築家は10設計して1つが採用されれば成功である。

非常に美しい建築物ばかりであった。

自分が設計した立派な自宅(邸宅)の写真も紹介された。

ついでに、自分の結婚式の写真も見せていた。

真っ白なウエディングドレスに身を包んだ花嫁の写真は複数枚紹介された。

いかにも育ちの良さそうな長身の美女である。

この奥様は15年前に亡くなられたそうである。

この同僚のエリートぶりを、あらためて確認させられた最終講義だった。

しかしなあ……

なんで、このような人物が福山市立大学に赴任するはめになったのだろうか?

しかも非常な要職として。

開学したばかりの大学行政の管理職のひとりとして。

このような華麗なる洗練された学歴と職歴を持った人間に、開学したばかりで何も揃っていない大学の管理職が務まるはずがない。

大学の管理職というのは、ご奉仕係である。

いろいろな問題を日々処理し、心を砕き、多種多様な意見や苦情をまとめ、組織を統括する。

将来への備えも考え用意する。

リーダーは、もっとも損を引き受けねばならない。

それで褒められることはない。

きちんとやって当たり前だからだ。

しかも福山市立大学では、教員が管理職になっても、いわゆる「コマ落とし」というものはない。

「コマ落とし」とは、大学内用語で、管理職についた教員の担当クラス数を減らすことだ。

どこの大学でも、最低2科目は担当クラス数が減る。

しかし、非常勤講師依存率が私立大学並みに高い予算不足の福山市立大学においては、管理職についた教員の「コマ落とし」はない。

とんでもない「ブラック」である。

会議ばかりで時間は足らないのに、授業はしっかりとある。

教育研究と、管理職をきちんと務めたら大病になる。

普通は、そうなる。

しかし、この同僚は、さすがにエリートだ。

エリートは身体もタフだが、神経もタフである。

この同僚は倒れなかった。

自分が義務を尽くすために倒れるよりも、仕事を部下に「丸投げ」することを選んだ。

自分で決定しなければならないことも、部下たちに「話し合って決めてくれ」と丸投げした。

しかし、部下たちが話し合いのすえに決めたことが、自分の意に沿わないと、頑強に反対し、覆した。

ならば自分で決めればいい。

初めに結論ありきならば、部下に会議などさせないでくれ。

しかし、この同僚は、自分が決定して責任を問われるのは、まっぴら御免なのだった。

みんなで決めた。だから私に責任はない。

あくまでも、そうしておきたいのであった。

学長には絶対的に服従であった。

これは、高名な建築家の事務所にいた頃からの、若き頃からの習慣であろう。

目上の人間に素直であることが、ボスに可愛がられることが、若い頃の成功の要点である。

「コバンザメ戦略」である。

「ヒラメ戦略」とも言う。

この同僚にとって残念であったのは、今度のボスは、かつてのボスとは全く違ったことだった。

今度のボスは有名でもなければ国際的に活躍しているわけでもなく、服従しても何も旨味がなかった。

それでも若い頃からの習慣は治らない。

条件反射だ。

(自分は若い頃はボスに絶対的に服従していたのに)福山市立大学の部下たちは自分の言うことに従わない。自分に平気で口答えをする。上司の命令を聞かない。

と、よく怒っていた。

部下の手前、カッコつけるとかは一切なかった。

やせ我慢して、リーダーを務めることは一切なかった。

部下の冷たい視線など全く気にしなかった。

そこが、この同僚のエリートたる所以である。

自分にとって利益にならないことは眼中にない。

あっけらかんと無責任をやれる。

自分に都合が悪いことは聞こえない。

福山市立大学都市経営学部の失われた6年間の準A級戦犯は、この人物である。

しかし、この同僚にその自覚はない。

反省もない。

反省する義務なんかない。

福山市立大学都市経営学部のために尽くして働いても意味がないのだから。

学生も部下も職場もどうでもいい。

そんなことのために心を砕き時間を割いても、彼自身には利益がない。

世界は他人は、自分のために在る。

その意味では、この同僚は、実に合理的で、実に自分に正直である。

あっぱれなほどに、自分に負荷をかけない。

ほんとに、エリートというものは、すごいもんである。

しかし、なんであれだけの華麗なキャリアの持ち主が、福山くんだりに来るはめになったのかねえ……

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