「副島隆彦の学問道」http://www.snsi.jpの主要メンバーのひとりの中田安彦さん(『ジャパンハンドラーズ』や『ネット世論が日本を滅ぼす』の著者)は、今、ワシントンD.C.に留学中だ。
中田さんが、黒人の店員や黒人の郵便局員の態度の悪さについてFacebookに投稿なさっていた。
その投稿を読んで思ったことを書く。
アメリカの黒人の店員とか郵便局員とか公立図書館の職員とか駅の窓口の人とかの中に、非常に態度の悪い人がいるというのは、事実だ。
私も、八つ当たりされたり、急に怒られたりしたことが何度もある。
ただ腹は立たなかった。
なんでかっというと、ああいう態度の悪さは、一種の「被差別民キャラ」であって、この世の中がどうしても生産してしまう人格類型のひとつだから、自分に大した害がないのならば、やり過ごすしかないと知っていたからだ。
「被差別民キャラ」というのは、長く理不尽で不公平な立場に置かれ、搾取され続けた人々で、かつ感受性が豊かで、感情の抑止が苦手な正直な人々で、かつあまり打算的でない人々が陥りやすい傾向だ。
ある民族や、ある集団や、ある人種の人々が、愚劣な類の支配者に好きに翻弄されてきた経験が歴史的に蓄積されると、このような「被差別民キャラ」を形成しやすい。
どういうキャラかと言えば、他人からの軽侮や侮辱に非常に敏感なんである。
瑣末なことに、こだわる。
ちょっと注意されたりしただけで、自分が批判され責められてる!と思いやすい。
傷つきやすいんである。
怯えやすいんである。
何か少しでも指図がましいこと言われると、過剰に反応して抵抗する。
正直だ。
これは、自分が状況をコントロールしているので、自分に責任があるから、ここは最も適切に処理しよう考え実行できる主体性の欠如だ。
感情的になってられんからね、責任者は。
自分で決めることを禁じられてきたという歴史的条件が、もうすでに消えてしまったのに、まだ、そのことに呪縛されている。
自分はいわれなく不当な扱いを受けているという被害者意識が強いので、これぐらいしたっていいんだ・・・他の奴らはもっと悪いことしてるんだから・・・ということで、プチ不道徳なこともする。
黒人の店員の中には、釣銭をごまかす人間も少ないとはいえ存在する。
私も、ごまかされかけて抗議したことがある。
ただし相手が非常に若い貧相な少女だったときは、黙ってカモになった。
「被差別民」相手に本気で怒るのは、オトナゲないという気持ちが私にあったから。
まあ、これは、「被差別民さんたちだから、しかたないよね」という私の差別意識だと言えば、否定しないが。
一般に、先進国においては、仕事は仕事、ビジネスはビジネス、自分の感情に関係なく、処理すべきことを淡々と処理すればいいのであって、他のことには無駄にエネルギーを使わない、
というのが「期待される労働者像」だ。合理的な労働者は、客に噛みつくなんてカネにもならんことはしない。
しかし、「被差別民キャラ」の持ち主は、自分の感情とビジネスがゴッチャになる。
それは、人間らしいことであり、ごく自然なことであり、正直な生き方だ。
だけど、現代の先進国のビジネス文化においては、そーいう傾向は無能で馬鹿でアホで「困ったちゃん」である。
なぜ、ビジネスと自分の感情がゴッチャになるのか。
それは、ビジネスに浸食されない自分というものを形成できていないからだ。
「私の感情はこのさい関係ない。私の感情には後でつきあえばいい。今はこの仕事に対処することが先だ」と思い行動するには、ビジネスごときに浸食されない自分というものが形成されていなければならない。
自分とは何か。
外界がどうあろうと、他人がどうあろうと、誰がどう評価しようと、私は私だ!!私という人間の尊厳は誰も何も侵せない!!!と思い込める不遜なまでの、根拠なき自己確信だ。
ある種の白人たちの自己確信能力はすさまじいね。
あれは真似るべきだよ。
たとえば、東大出の人間の中には、すげえ馬鹿なのに、自分は優秀だと信じて疑わないのがいる。
あの愚劣な自信からさえ、学ぶべきだ。
しかし、長く支配者に翻弄されてきた奴隷時代が長く続いた人間は、心の奥まで浸食されて、自分の尊厳に対する自己確信を養う時間や機会が与えられない。
そういう実際のモデルを目撃することも、彼らや彼女たちが生きる世界では滅多にない。
そういうモデルが存在しても、気がつくだけの教養がない。
「被差別民キャラ」は、類は友を呼ぶで「被差別民キャラ」どうし集まるから、被害者意識と過剰な傷つきやすさは増幅される。
それが常識となる。
ついには、彼らや彼女たちの間では、「被差別民キャラであること」が正義となる。でもって、ニーチェの言うところの「奴隷道徳」ができあがる。
女ってのも、奴隷状態が歴史的に長かったから、「被差別民キャラ」の人が少なくない。
「私の人生の当事者は私だ。私の人生の主人も私だ。私の人生の不如意は私が何とかする。私に責任がある。こんな甲斐性のない男と結婚したのは私だ。私さえ、しっかりしていればいいんだ。こんなクルクルパーのガキを生んだのは私だ。まあ、しかたないね」とは思わずに、自分では何もしないで、他人を責めて家族を責めて愚痴が多い女性は少なくない。
私も、職場の在り方について、つい愚痴を言ってしまうけれども、「まあ、だからと言って、私にできることもあれば、できないこともある。私に責任のないことについては、どうしようもないから、どうでもいいけどね」と思い直して、目の前の仕事に集中する。
ただし、「被差別民キャラ」の女たちの中には、一見、「被差別民キャラ」ではなさそーな人々もいる。
それは、いつまでたっても、ペットでいたがる人々だ。
ペットは、餌を与えられて、飼い主に(=他人に)制裁与奪権を握られているのに、のん気に気ままに生きている(ように見える)。
世界が、他人が、自分のケアをすることは当たり前だと思い込んでいる。
世界や他人に、そんな義務はないよ。
つまりは、しょせんは、ペットも高級奴隷よ。
自分の安楽な境遇が依って立つ条件について無自覚無知に、ギャアギャア我がまま言って、いかにも支配者然としているけれども、それだってひねった真の主体性の欠如した「被差別民キャラ」よ。
となると、現代日本人のかなりが「被差別民キャラ」かもね。
「被差別民キャラ」って、まあ圧倒的多数の人間が、その生存条件から、身に着けやすい傾向よ。
そうなるのは自然なことなのかもしれない。
人間は弱いからさあ。
でもさあ、自分の中の「被差別民キャラ」を飼いならして、それはそういうものとして自覚しながら、主体性ある自分というものを保持しなければ、生きている気がしないなあ。
ということで、自分の内なる「被差別民キャラ」について、ちょっと考えをめぐらした水曜日のお昼でした。
追記: アメリカの黒人にもいろいろいるというご意見をいただきました。当たり前だ、そんなこと。中産階級の黒人もいれば、リッチな黒人もいるわさ。普通の日本人の旅行者とか留学生が出会うのは、低賃金の労働者でしょ?で、けっこう八つ当たりされるんよ!