寄付はしない

本日は、2016年12月27日火曜日だ。

昨日の26日に名古屋に帰って来た。

今日は、くたびれきって廃人をしている。

唐突だけれども、「寄付」donationについて書く。

そういう人は多いと思うのだが、私は非常勤講師時代から、ある団体にわずかではあるにせよ毎月寄付をしていた。

年末になると、ホームレスの炊き出しをしている教会にも寄付をしていた。

開発途上国の子どもたちが学校に通えるように支援する団体にも寄付してきた。

収入のいくばくかは寄付するものだと私は思い込んでいたから。

誰に教えられたわけでもなく、それはそういうものだと私は思い込んできたから。

前の前の勤務先の教え子が殺人事件を起こして刑務所に入った時も、一時期は身元引受人になり、ささやかながら寄付のつもりで援助もした。

詳しくは書かないが、似たようなことは、いろいろしてきた。

で、今の私は、ほとんど一切の寄付をやめた。

安月給の公立大学の教員だから金銭的余裕がないからではない。

金銭的余裕なんて、オーバードクターで非常勤講師時代には、もっとなかった。

では、なぜ、寄付をやめたのか?

理由の一部は、寄付を募って運営されている団体には胡散臭いものが多いと知ったこともある。

寄付した先の団体が役人の天下り先であることが多く、プールした寄付金を何に使っているかわかったもんじゃない。

よく道端で寄付を募っているが、ああいうものは良心的な善意からのものもあるが、集めた寄付金のかなりが人件費に消えたりしているらしいということも耳にした。

とはいえ、こういうことは、ほんとうの実態は知りようがない。

「ユネスコ」は寄付してもいいが「日本ユネスコ」は寄付してはいけないと聞くが、それも、どこまで真実なのか、わからない。

ならば、「顔の見える人や団体」に寄付すればいいわけだから、活動実態をある程度知っている組織や団体に寄付すればいいことなので、寄付をやめる理由にはならない。

そういう団体には、今でも些少ではあるが私も寄付を続けている。

問題は、そういうことではないのだ。

問題は、「寄付すると、かえって問題は解決しないのかもしれない」ということだ。

前述のように、私は、そこそこ長い間、教育を受けることができない発展途上国の子どもの里親になるというシステムを運営している団体に寄付していた。

ところが、21世紀もかなり入った頃に、その団体が「中国の子どもたち支援」を依頼してきた。

私は驚いた。

なんで中国?

その頃の中国は、鄧小平の政策により資本主義経済に舵取りを成功させ、躍進著しくなっていた。

その中国が、なぜ自国の子どもに最低限の教育を与えることができないのか。

核武装もし、豊かな鉱物資源利用のためにチベットやウイグルを支配し、インドと国境を接する地域を侵略し軍事的支配をし、台湾を脅かし、ベトナムやフィリピンの領土を奪い基地を作り、着々と軍備を増強している国が、国民の子どもの教育にカネを出さないということはどういうことか。

また、それを承知しながら、この団体(外務省の役人の天下り団体)は、なぜ中国の子どもの支援を買って出ているのか。

そういうことをすることは、中国政府の国民の福祉無視の政策をサポートすることにならないか。

私は、その旨をその団体に質問したが、まともな解答は得られなかった。

だんだん、私はウンザリしてきたのだ。

開発国とか発展途上国とか、なんでいつまでたっても駄目なんだ?

外国からの援助がなければやっていけない国なんて、そんな国民なんて、存続する意味があるのか?

借りたカネは借りっぱなしで踏み倒すことが当然と思っている国や国民って何だ?

日本が日露戦争の時に借りた巨額のカネの返済を終えたのは、やっと1980年代だった。1984年だったかなあ……約80年ローンだ……

太平洋戦争敗戦後の戦後復興で借りたカネも、日本は返済した。

人間は個人でも、他人からの援助がずっとあると、それをあてにしてずっと自立できないということがある。

「引きこもり」とか「ニート」とかは、昨今の経済状況の悪化、非正規雇用の増大という事情によって生じているのだろう。

しかし、基本的には親が食わせてくれるので、引きこもっていられるだけだ。

最近は、その「引きこもり第一世代」の人々が40代になり、年金暮らしであった親が亡くなり、生活できず、NPOが生活保護を受けることができるように手助けをしているそうだ。

まあ、そういう類の「かわいそーな人々」をサポートするのが趣味の人は、好きにしていればいい。

他人の趣味については、とやかく言わない。

私が言いたいのは、いつまでたっても他人の援助がなければ生けていけない人間は、援助してもしかたないんじゃないか、ということだ。

人間というのは不思議なもので、自分に親切にしてくれ援助してくれる人間を軽んじ、一層に使役したがる傾向がある。

助ければ助けるほど、厚かましくも「たかる」傾向がある。

「早く自立して、他人に迷惑をかけるのはやめよう」ではなく、一層に依存する傾向がある。

親切にされた人間は、親切にしてくれる人間に、過度に甘え、馴れ馴れしくなり、舐めるようになり、軽んじるということは、よくあることだ。

その種の人間が、たまたまの他人の法外な厚意でしかない支援やサポートをあたりまえのこととして更に要求してくるということは、ままあることだ。

そういう類の人間は実際に存在する。

私も、そういう類の人々からウンザリさせられたことはある。

おそらく、そういう類の人間性というものがあるように、そういう類の国民性というものもあるのだろう。

私は、とうとう、「人は助けない方がいいのかもしれない。かえって、その人のためにならないのかもしれない」と思うようになった。

「人を助けるなんてことは私のような人間にはできないのかもしれない。かえって悪を為しているのかもしれない」と思うようになった。

「助けてもいい人間と、助けても無意味な人間を見分ける能力なんて私にはない」と思うようになった。

「自分ひとりの人生でさえ、最後まで自分で引き受けることさえできないかもしれない無能な私が、他人を救済するなんてチャンチャラおかしいわ・・・」と思うようになった。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」と言うが、寄付とか支援というものも安易にすると、かえって逆効果 なのかもしれない。

いつまでたっても他人の支援が なければ生きていけない人間や国を救済する理由が私には見えなくなった。

何のために?

以後は、もうハッキリ顔の見える、活動内容の見える組織には寄付するが、日本赤十字だの日本ユニセフだの、国連関係だの、中央官庁の役人の天下り先団体だのには寄付をしなくなった。

ただでさえ、高い税金を払っているのだから、もういいよ。

ああ、こういうこと書くと、また「それでも先生ですか?」と言われるんだろうなあ。

「先生」だから搾取していいと思っている類の人間に。

<備考>

お仕事で海外体験が非常に多い方より、以下のコメントをいただきました。転載して、ここに紹介させていただきます。

(転載始め)
情に絆され寄付なんかしては、いけません。藤森さんの言う通り、ほとんどが団体の人件費に消えること、使途不明に消えること、実際いくら現場で使われているか、誰も解りません。

昔、シリアとヨルダンの国境にあるいるビッドと言う町で、マーケットにコンテナを置いて衣類や、毛布を売っている人が居ました。品物は日本からWHOに寄付されたコンテナです。話によると、WHOには援助物資を横流ししている連中がいるそうです。

他の途上国でも援助物資コンテナを何回か同じように広げて商売しているのを見てから以降、色々な寄付は止めました。

特に赤十字、自衛隊を語る団体(市長が音頭をとっていた)、年末助け合いの色々な寄付、国内外の震災・災害の寄付は、ほとんど現場には届かないと考えられます。

最近では、南米の震災国へまったく金が届かずアメリカの某財団に流れた例があります。
(転載終わり)

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