[365] 自殺する子どもと親の関係の不思議さ

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本日は2019年3月26日火曜日だ。

うわあ〜〜うわあ〜〜2019年も、もう3ヶ月が経過しようとしている。

紹介したい本とかいっぱいあるけれども、今日も放言する。

こんな記事をネットで見た。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20190322-00119180/

10歳から14歳の死亡者は、年々歳々ドンドン減っている。

この年代の子どもの死因は事故とか悪性腫瘍(小児ガン)だったけれども、いい抗がん剤治療の開発で、ガンサバイバーが増えた。

めでたい。

なのに、自殺者だけが増えている。

とうとう、10歳から14歳までの日本人の死因トップが、自殺となったという記事だ。

少子化が問題なのに、子どもが自ら命を絶つなんて。

対策をせねば!という記事だ。

対策って、どうするんだろう。

1番の対策は、親が生きやすいような経済政策ですが。

親の人生が過酷でなければ、子どもの様子に気をつけている余裕も持てる。

まずは親が失業しないように、親が子どもを育て守ることができるような経済政策だ。

道徳の問題じゃないの。

カネが問題なの。

What matters is economy, stupid!

そうすりゃ、子どもの自殺は減るよ。

しかし、貧困でもなく、親は失業もしていないし、衣食足っている家庭の子どもが自殺する事例が、わからない。

子どもが自殺したくなること、そのものは、昔から当たり前のことなのだよ。

子どもって、死にたくなるんよ。

子どもって、ああ見えて、いつもなんか哀しいのよ。

あんな小さい体で地上の重力に耐えてるんだからね、辛いのね。

昼間に預けられる学校は過酷な荒っぽい場所だしさ。

学校は埃っぽいし、夏は暑いし、冬は寒いし、トイレは臭いし、ろくでもない同級生がウジャウジャいるし。

私は、学校が好きだったことは一度もない。

行くしかないので行っただけだ。

家にいてもしかたないしね。

勉強はできないなり、成績は悪くても、授業自体は面白かった。

知らないことを知るのは面白いものだ。

国語辞典の引き方を教えてもらったときは嬉しかった。

うわお〜〜知らない言葉の意味が全部書いてある!!

百科事典の引き方を教えてもらって嬉しかった。

何でも書いてあるじゃん!

学校の図書室で本を借りることができた。

これも嬉しかった。

図書室では美術全集をめくりながら飽きずに眺めた。

日本の半跏思惟像も救世観音像も美しかった。

でも古代ギリシャやローマ彫刻の美しいこと!

ミロのヴィーナスのいわく言いがたい風格!

上品とか、優雅とか、端正とか、これらの形容詞が意味するものを、私は小学校の図書室の美術全集で知った。

このお腹のしっかりした感じ!

肩の線の清潔さ。

首の凛々しさ。

締まった口元。

意志の強そうな顎。

太いウエストの頼もしいこと!

ミケランジェロのダビデ像もカッコ良かった。

子どもなんで、ダビデ像のおちんちんが小さいとか大きいとか、気にもならなかった。

ダビデって人が、どういう人かなんて知らなかった。

旧約聖書に出てくる古代ユダヤ王国の王様の若き日なんて知ったのは、それから10年後くらいだ。

カトリック系の南山大学に入学して、「キリスト教概論」とか「キリスト教史」が必修科目だったので、しかたなく聖書の旧約も新約もザザザと目を通した時に、ダビデって誰か知ったのだ。

でもって、ミケランジェロがダビデ像を全裸にして造ったことの世界史的意義を知ったのは、副島隆彦氏の『隠されたヨーロッパの血の歴史—ミケランジェロとメディチ家の裏側』(KKベストセラーズ, 2012)を読んだ時だった。

ルネッサンス〜〜♫♫♫

そうか!全裸のダヴィデ像ってのは、「人間の裸は美しいよ〜〜原罪なんて人間にはないよ〜〜神から与えられたこの人生を楽しんでいいよ〜〜バチカンの聖職者たちの言ってることなんかどうでもいいよ〜〜」という意味だったのか!

オリエントとの交易で巨万の富を築き、中世のキリスト教会総本山のバチカンに支配された思考の枠を蹴飛ばす自由思想家たちを屋敷に呼んで好きに議論しあうサロンを設けたフィレンチェのメディチ家こそが、ルネサンス人間復興の始まりだったんだ!

富の力でバチカンを抑えたんだよね。

他人のカネで食ってるバチカンなんか怖くねーぞ。俺らは自分の才覚でカネを掴んだんだぞ。人間としては、俺らの方がはるかに上等だ!教皇なんて寄生虫の親玉だ!ギョウ虫だ!

15世紀なんだからさ、公民館も貸し会議室もないんだからさ、超富裕層がパトロンになって、場所を提供してくれないと、自由思想家も芸術家も集まる場所もない。

特にメディチ家三代目のロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de’ Medici,: 1449-1492) が偉大だったんだ!

ミケランジェロは、このメディチ家の庇護のもとに大胆にも偶像破壊的な全裸のダヴィデ像を創造した!

そうか! ルネサンスに関するアカデミックな専門書を読んでもピンとこなかったけれど、そういうことだったのか!

ということで、瑣末なことはさておいて、ルネサンスがどーいうものであったのか、大掴みに本質を理解したい方は以下の本をお読みください。

https://amzn.to/2TvUZPn

そのほかに、子どもの頃の私のお気に入り西洋美術全集の中の彫刻のひとつは、サモトラケのニケだった。

顔がないのに、なんと生き生きと躍動感のあることか!

私にとっての、最初の理想の憧れの女性像は、顔がないのであった。

この像から首を切断したのは、中世のキリスト教徒たちだった。

彼らは古代ギリシアやローマの多神教を憎悪し、古代ギリシアやローマ文明の遺産である美術品を破壊しまくった。

アホだぜ、中世キリスト教徒って。

イエス・キリストとは大違いの連中だ。

しかし、そんなことを知ったのは、つい最近だ。

音楽室では、聴いたことのない綺麗なメロディが聴けた。

テレビで流れている歌謡曲とは大違いの、なんかすっごく落ち着く感じの音楽。

上からキラキラ何かが降ってくるみたい。

何これ?

バッハ?バッハ!へええ〜〜♫♫

小林旭さんの歌と同じくらいにいい感じ!

理科室には骸骨や人体模型が置いてあって、興味が尽きなかった。

暗い理科室の人体模型は怖かった。

げえええええええ〜〜〜

私が子どもの頃の1960年代は、学校なんて場所は、まだまだノンビリしていた。

イジメなんてなかった。

対等な喧嘩はあったけれども、大勢でひとりを陰湿にいじめて暴行を加えるなんて卑怯なことは、昔の子どもはしなかった。

なのに、それでも、私にとっては、学校はストレスフルな場所だった。

すぐに傷ついた。

すぐに疲れた。

友だちとの小さな葛藤が、すごくストレスになった。

自分の前に広がる未来という時間が重くて、その重さを自分は担えるんだろうか?と思った。

面倒くさいなあ……と思った。

川べりを通ると、ここで川に落ちたら死ぬなあ……と思った。

死んだら、どうなるのかなあ……

何もしないですんで、ラクかなあ……

しかし、そういうときに私が思ったのは、「私が死んじゃうと、親にとっては恥ずかしいことになるなあ」だった。

「子どもが自殺すると、親がカッコ悪いよなあ」だった。

親戚近所の手前、親が辛い思いをするなあと思った。

子ども心に見て、うちの両親は不器用だった。

まるで「世間ずれ」していなかった。

呼吸するように楽々と嘘をつける大人になれないナイーヴさがあった。

それだけ正直で繊細だった。

そんな親に恥をかかせてはいけないと私は思った。

親のメンツを考えた。

親が頼りないなら頼りなくていいのだ。

頼りないなりに親の愛情を信じることができれば、子どもは頑張れる。

この親を悲しませちゃいけないと思って、子どもは蛮勇を振り絞る。

子どもって、そこまで親をみているし、親のことを考える。親をかばう。

なのに、いまの子は自殺しちゃうのか。

不思議だ。

今は、小学校も中学校も鉄筋コンクリート作りの建物で、低層ビルとはいえ、屋上は高い。

そこからヒラリと飛んでしまえば、墜落して死ぬ。

しかし、ビルの屋上に行って、立った時に、子どもの心に親の顔は浮かばなかったのだろうか。

あ、やめておこう〜〜と思わなかったのだろうか。

死にたい気持ちなんて、数秒もすれば消えるような、文字通り気の迷いだ。

その数秒間に、子どもの心に親の顔は浮かばなかったのだろうか。

自分が死んだら、親の立場が困ったことになるとは思わなかったのだろうか?

親は悲しむことはないと、確信でもあったのだろうか?

親なんか悲しんで恥をかけばいいと思ったのだろうか?

不思議だ。

自殺した子どもと親の関係が私には不思議だ。

家族や家庭が、子どもの自殺したい気持ちのストッパーになっていないのは、どういうことなんだろうか。

子どもがいじめられて自殺したから学校を訴えるのは、学校が悪いから、ドンドンやればいい。

暴行した生徒の親にはキッチリ損害賠償させるべきだ。

子どもに対する監督不行き届きを償わせるべきだ。

暴行した生徒は、矯正施設で更生させるべきだ。

多分、その卑しい根性は生涯治らないだろうけれども。

学校内での暴行事件を許すような教師や学校の管理職など、はっきり犯罪者だ。

学校内の暴行事件を隠蔽するような学校も教育委員会も絶対に許せない。

しかし、その前に、自殺するほど思いつめた子どもの心にとっての命綱&ストッパーでなかった自分のことを考えた方がいいよ、親御さん。

はっきり言って、自殺した子どもは、「あかんわ、この親は私を守りきれない。親のキャパを超えてるんだ。私が生きてると親にとっては負担なんだ」と思ってしまったから自殺した。

でもって、自殺した子どもは、「でも私が死んだら、この人(たち)どうなっちゃうんだろ。ただでさえ不器用で生きるのが上手とは言えないのに、子どもが死んじゃったら、どうやって生きていけるんだろ、この人たち。やっぱり私が生き抜いて守ってあげなきゃ」と、親を慮る気にもならなかったから自殺した。

そんなふうに自分の子どもに思わせてしまった自分自身の生き方を直視した方がいいよ、親御さん。

そんなふうに自分の子どもに思わせた親の子どもだから、あなたの子どもは「自分のことしか考えずに」自殺したのだよ。

親になったなら、必死で愛しなさいよ、子どもを。

カッコつけないで、必死で守りなさいよ、子どもを。

あなたしか守れないんだよ。

そーいうみっともなくも精一杯もがく親の子どもなら、その子は親を置いて自殺なんかしない。

スマホなんかいじくっている場合か。

子どもが自殺した後に、怒りや寂しさを他人にぶつけても、ほんとうは仕方ない。

子どもは身をもって、教えてくれたんですよ。

あなたの、素朴で温かい愛情が欠落した生き方を。

全身全霊で子どもを守ろうと盾になれなかったあなたの生きる姿勢の中途半端さを。

子どもの心の見えない部分をなんとか見ようとオロオロオタオタしなかった、あなたの怠惰を。

そんなあなたというつまんない人間と共に生きていく日々を、あなたのお子さんはサッサと拒否したんですよ。

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